社殿再建後から現在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
1966年(昭和41年)には、2月及び3月に立て続けに起こった全日本空輸とカナダ太平洋航空の羽田空港付近での飛行機大事故では、穴守稲荷神社の旧「一の鳥居」が羽田空港に遺され放置されていることを取り上げ、その祟りであるかのような噂が流布し、まことしやかな新聞記事さえ現れた。それに加え、伏見稲荷の行者である伊勢岡ハツが「穴守稲荷神社を空港の中に祀らないと、事故がこれからも多発する」と世間に訴え、国会議員の肝いりもあって、空港内に穴守稲荷神社を復興する計画がたてられた。また、同じく伊勢岡の強い働きかけにより、三愛石油株式会社が事務所屋上に穴守稲荷大神を分霊した一祠を設けている。 また、社殿再建に沸き立つ中で、1967年(昭和42年)5月1日には、羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町及び羽田御台場・鈴木御台場が、住居表示によって羽田空港一丁目及び二丁目となり、地名としても消滅することになった。 一方では、戦後のベビーブーム期の子どもたちが成人する時期であり、その結婚式が多くなった。穴守稲荷神社では、1964年(昭和39年)8月に羽田東急ホテルが完成し、その結婚式場に穴守稲荷神社の分霊を奉斎している。また、羽田東急ホテルだけでなく、1970年(昭和45年)からは横浜東急ホテルにも出張奉仕することになった。 1975年(昭和50年)、1976年(昭和51年)頃から、大「穴」を願ってのものか、多くの競馬・競輪などのファンが詣でる現象が起こった。 1980年代に入り、羽田空港の沖合展開事業にあたり新B滑走路整備の障害になるため空港内の大鳥居を撤去する計画が出たが、地域住民らから穴守稲荷神社や強制接収の憂き目にあった旧住民らの象徴として残したいとの要望があったこと等から、神社の強制遷座から半世紀以上経った1999年(平成11年)2月に移設されることとなった。(詳しくは後述の羽田空港に残された一の大鳥居を参照。) 羽田空港の新A滑走路の供用が開始され、空港の沖合展開がかなり進んできた1988年(昭和63年)には、鳥居移築の話し合いがつづく一方、旧羽田鈴木町の住民代表が空港内に穴守稲荷神社分社をつくるよう、鈴木俊一東京都知事に陳情している。実際に沖合展開後の羽田空港跡地の利用計画として、東京都が取りまとめた「羽田の杜」構想でも神社の設置が検討されたが、その後「羽田の杜」構想自体が頓挫した為、実現しなかった。 1991年(平成3年)9月には、京急穴守稲荷駅前に狐の石像、愛称「コンちゃん」が京浜急行電鉄株式会社等により奉納された。季節ごとに篤志家の手によって衣装が替えられ、駅前の象徴として鳥居と共に親しまれている。 1993年(平成5年)、羽田空港新国内線ターミナルビル(現・第1旅客ターミナルビル)の供用開始に伴い、旧ターミナルビル屋上に祀られてきた羽田航空神社のみ新ターミナルビルに遷座され、穴守稲荷空港分社は穴守稲荷神社本社へ合祀されることになった。尚、航空関係者からは隣り合って祀られてきた2社を別々にする事に対して、心配や反対する声もあったという。現在、空港分社は再び分祀され、境内社の航空稲荷となっている。 2018年(平成30年)11月から「御縁年午歳記念事業 奥之宮改修工事及び境内整備」工事が行われ、奥之宮をはじめとした摂末社や千本鳥居など境内が整備され、奥之宮の上には新たに伏見稲荷の稲荷山を模した「稲荷山」が造られた。 2020年(令和2年)には、大田区が進めていた羽田空港跡地第1ゾーン整備方針の重点プロジェクト「羽田の歴史の伝承」の一つとして、羽田空港一丁目に建設されたHANEDA INNOVATION CITY内に、氏子地域(旧羽田穴守町・旧羽田鈴木町・旧羽田江戸見町)の繫栄と悲劇の歴史を伝承する「旧三町顕彰の碑」が建立された。 2021年(令和3年)4月5日には、羽田穴守町鎮座時代の氏子宅で用いられていた水甕が奉納され、水琴窟「東国一」が作られた。水琴窟に使われる水は、隣接する井戸で境内地下から汲み上げられたものであり、約80年ぶりに穴守の霊水が復活する事になった。
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