羽田空港に残された一の大鳥居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
「穴守稲荷神社」の記事における「羽田空港に残された一の大鳥居」の解説
現在の羽田空港内にあった穴守駅前の一の大鳥居として、1929年(昭和4年)10月に京浜電鉄の重役から奉納された朱の鳥居は、連合国軍によって4万6000基余あった鳥居が取り壊された中、唯一そのまま残っていた。 この残された鳥居については以下のような都市伝説がある。 穴守稲荷神社の社殿も壊された。門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な作りだった。ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我したため、いったん中止となった。再開したときには工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。これは、「穴守さまのたたり」といううわさが流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった。これが、その後50年近く、羽田空港の中の駐車場にぽつりと取り残されていた赤い鳥居で、穴守稲荷神社があった場所を特定できた目印であった。 — 京浜急行電鉄『京急グループ110年史 最近の10年』「空港拡張工事で取り残された赤い鳥居」より抜粋 進駐軍がね、いま空港に建っている穴守さんの鳥居を、取り壊そうとしたけど、ハッパを掛ける人が、みんなおかしくなっちゃった。それで、あのままになっている。なんでも、三、四回やったそうだ。「おかしい、祟りなんだろう」というのでね、進駐軍でもあのままにしておいたんだね。穴守稲荷の祟りで、あそこ、どけちゃいけないということで、そのままになった。/空港ができてから、穴守さんの祟りがあったよ。穴守さんにはね、入ってくところに大きな鳥居があったの。それをね、取ろう取ろうと思っても何とかしてもね、けがしたりね、何かしちゃうので、そのまんま。 — 東京都大田区教育委員会社会教育部社会教育課編『大田区の文化財 第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』より このほかにも、大田区報といった準公的な出発物や全国紙の記事でも触れられるなど、有名な都市伝説ではあるが、それが本当にあったことかを示す、当時の新聞記事や確かな工事記録などは見つかっていなく、強制退去させられた後に整地に動員された地域住民らが、反抗心から意図的に鳥居を残したのだともいわれている。又、更に一部では、1952年(昭和27年)4月9日のもく星号墜落事故、1966年(昭和41年)2月4日の全日空羽田沖墜落事故及び同年3月4日のカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故と3月5日の英国海外航空機空中分解事故、1971年(昭和46年)7月30日の全日空機雫石衝突事故、1982年(昭和57年)2月9日の日本航空350便墜落事故、1985年(昭和60年)8月12日の日本航空123便墜落事故など、あらゆる航空事故を大鳥居の祟りとしている文献も存在しているが、終戦直後の状況を除けば、空港の整備事業と事故との関係は全くなく、ましてや大鳥居とは何の関係もない。1966年に航空事故が連続して発生したことを機に大鳥居と結び付けて、勝手に都市伝説にしたにすぎない。 また、かつて多摩川河口は関東大震災や東京大空襲で大量の死体が流れ着いた場所であり、現在掲げられている「平和」の額縁をその時の死者の鎮魂の為と説明しているものもあるが、鎮魂の為の施設は海老取川対岸の五十間鼻にある無縁仏堂であり、こちらも基本的には大鳥居とは関係がない。 その後、1952年(昭和27年)には、羽田空港の大部分が返還され、1955年(昭和30年)には、旧ターミナルビルが完成したが、大鳥居は周囲を駐車場の敷地とすることで、引き続いて残された。 1971年(昭和46年)3月、大鳥居付近にB滑走路が完成。この時に大鳥居の撤去が検討されたが、そのままにされた。 羽田空港開港50年にあたる1981年(昭和56年)7月には、新B滑走路展開に伴う移築計画が再び持ち上がり、由緒正しい鳥居であるからそのままにして措くことを大田区長に陳情している。しかし、沖合展開や拡張計画が次第に明確になり、再び1983年(昭和58年)2月23日には鳥居移築が具体化し、新聞紙上に1984年(昭和59年)1月20日の飛行場の移設告示があった。しかし、その後も政教分離問題が世間を騒がせ、時には取り壊し、時には移築論を繰り返して遅々と進まなかった。そして1985年(昭和60年)になって、空港内の鳥居移築が正式に決定し、1993年度(昭和68年度)までに完了することとなった。 1994年(平成6年)には、羽田空港新B滑走路の供用が開始され、ついに鳥居移築が実施されることになったが、その後も移築は難航し、ようやく1999年(平成11年)2月3日撤去、翌4日移築と決定した。移転工事にあたって土台の周りを掘ると、鳥居が非常に頑丈にできておりロープで引きずり倒せるようなものではないことが判明した。作業の際は風がやや強く、鳥居をクレーンで吊り上げた時にクレーン車のワイヤーが揺れ動く一幕もあったというが、2日間の工事は滞りなく終わり、現在地の弁天橋のたもと(天空橋駅南、東京空港警察署弁天橋交番近く)に移設されて今に至っている。 こうして、現在はかつての場所から約800メートル離れた多摩川のほとりで、かつてそこにあった3つの町の跡を見守るように佇んでおり、近年では、多摩川サイクリングコースの出発点(終着点)としてサイクリストの休憩スポットになっていたり、東京湾へ向かって延びる多摩川河口が、初日の出の通る道になっており、ちょうど太陽の方を向く形で鳥居が立っているため、初日の出スポットとしても有名になるなど、羽田の名所として多くの人に親しまれる存在になっている。 なお、移転以前は空港関係者によって管理されており、穴守稲荷神社の神職によって祭典が行われるなどされていたが、現在は国土交通省管理下となっており、法的には神社とは直接的な関係がなくなっている。鳥居に掲げられている扁額も以前は「穴守神社」と書かれていたものだったが、現在は「平和」というものに変わっている。尚、かつての扁額は、現在穴守稲荷神社表参道の鳥居に掲げられている。 また、大鳥居駅にあった鳥居を移転したものと誤認されている場合があるが、前述の通りに関係はない。大鳥居駅にあった鳥居は、いつ頃に無くなったのかがはっきりとしていなく、関東大震災で倒壊した、環状8号線整備の際に撤去された、トラックが追突して倒壊したといった説がある。尚、大鳥居駅構内には、駅名の由来を描いたレリーフが掲げられているが、そこに描かれている大鳥居は、なぜか旧穴守駅前にあった頃の一の大鳥居である。
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