採掘量の減少・閉山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/21 13:42 UTC 版)
しかしその後、本鉱山の採掘量が徐々に減少するにつれ、銀山町の家数も減じ、寛永16年(1639年)には多数派遣されていた加賀藩の奉行も引き上げ、以後鉱山は会所裁許となった。この頃には運上銀は年に5貫目7貫目、または銀10枚20枚になっていた。 万治2年(1659年)には、銀山町の代表42名が連印で鉱山の十村支配を願い出、ついに郡奉行支配に切り替えられたが、銀山町の家数は24から25軒に激減、閉山同然に陥った。残った者たちは田地がないためわずかの金銀を掘って生計を立て、年に銀6枚の運上を上げるのみとなった(『改作所旧記』)。 正徳4年(1714年)に廃絶。その後明和3年(1766年)、金沢町人道法寺屋藤左衛門が再掘し、安永元年(1772年)にも金沢町人貫屋与左衛門が再掘を企てたが不成功。安永5年(1776年)には最後に残っていた喜兵衛という銀山肝煎京屋市右衛門配下の鉱夫も金沢に出て、銀山は完全に閉鎖された(『加藩貨幣録』)。
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