蕨宿の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:08 UTC 版)
道中奉行による天保14年(1843年)の調べ で、4町からなる町並み10町(約1.1 km)。宿内人口2,223人(うち、男1,138人、女1,085人)。宿内家数430軒(うち、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠〈はたご〉23軒。問屋場1箇所、高札場1箇所)であった。 通常客が利用する平旅籠は問題無かったが、蕨宿の飯盛旅籠および飯盛女(めしもり-おんな)は強引な客引きがひどく、旅人は難儀したという。そのため、江戸末期には旅人が安心して泊れるよう、平旅籠の講と呼ばれる旅館組合が組織されていた。 なお、戸田の渡し(後述)の川留めに備えて東隣りの塚越村にも本陣が置かれ、二の本陣、あるいは東の本陣と呼ばれた。 江戸の昔、蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていた。この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられた。宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていた。跳ね橋は、北町の一角に一つのみであるが、今日まで残されている(徳丸家の跳ね橋)。このように防火に怠り無かったがしかし、蕨宿はしばしば大火に見舞われている。それでも古民家などが多数健在で、かつての面影を伝える町並みを残している。
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