戸田の渡し場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:08 UTC 版)
この節は蕨宿ではなく、近隣の解説である。 今日では荒川の一部となっている蕨付近の流域は、当時「戸田川」と呼ばれていて、渡し船による往来があった。浮世絵師・渓斎英泉が蕨宿の風景として選んだのはこの「戸田の渡し」であり(右上の画像を参照)、江戸方から板橋宿、志村一里塚を過ぎた中山道はここを越えなければ蕨宿に辿り着かない。 戸田川は平水時、その川幅は55間(約100m)程度であったが、ひとたび大水が出ると1里(約4km)にも広がって渡しは不可能になった。そのような時は当然ながら、平時でも夕刻以降は危険と見なされ、川留めされていた。となれば、上方から江戸へ下る旅人は渡し場の一歩手前にある蕨宿に逗留せざるを得ない。そうして、翌朝早くに出立する客が多かった。また、渡しで揚げられる物資の中継地としても戸田の渡しは重要な位置を占めていて、蕨宿と切っても切れない繋がりを持つ要衝であった。 天保13年(1842年)調べの『中山道戸田渡船場微細書上帳』には、総家数46軒、人口220人余(うち、船頭8人、小揚人足31人)、渡し船数13艘(うち、馬船〈馬を運ぶ船〉3艘、平田船1艘、伝馬船1艘、小伝馬船8艘)とある参勤交代などで大通行となるときには、近隣の下笹目村や浮間村から馬船を定助船として徴発していた。渡し船の権利は北岸の下戸田村が握っていたが、その権利を巡って蕨宿との間で争うこともあったという。 江戸時代の人々の水運と旅の安全を護ってきた小さな水神社ひとつを名残とし、戸田の渡し碑と大きな案内板が置かれている渡し場跡は、現在の荒川に架かっている戸田橋のおよそ100m下流に位置している。
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