受容と評価
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「前奏曲嬰ハ短調 (ラフマニノフ)」の記事における「受容と評価」の解説
ラフマニノフの最も有名な楽曲の一つである。西側での名声に力があったのは、作曲者の従兄アレクサンドル・ジロティであった。ジロティは1898年秋に西欧と米国で演奏旅行を行なった際、そのプログラムに本作品を取り上げた。その後まもなくロンドンの複数の出版社によって、「モスクワの大火」「最後の審判」あまつさえ「モスクワのワルツ」と題した出版譜が出回った。アメリカでは、「モスクワの鐘」と題する出版譜がそれに続いた。ジョージ・コブの《ロシア風ラグ》は、この曲を原曲としている。 この作品の人気ぶりは、「ラフマニノフの(例の)前奏曲」と呼ばれたり、ラフマニノフの演奏会で聴衆から、アンコールとして「Cシャープ!」との呼び声がかかったりするほどであった。作曲者自身は、この曲のあまりの評判によって、自分のそのほかのピアノ曲がかすんでしまうことを毛嫌いするようになった。それでもラフマニノフは、電気吹き込みとアンピコ社製ピアノロールを通じて、後世に本作品の自作自演を遺している。
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受容と評価
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「交響曲第2番 (スクリャービン)」の記事における「受容と評価」の解説
オイレンブルク版の校訂者であるフォービアン・バワーズは、出版譜巻頭の序文において、「忘れられた第2交響曲は、間違いなく19世紀末の傑作である」と訴えている。近年は、エリアフ・インバルやエフゲニー・スヴェトラーノフ、リッカルド・ムーティ、ウラジミール・アシュケナージ、イーゴリ・ゴロフシンらによる交響曲全集や、ネーメ・ヤルヴィによる単発的な音源によって、聴衆にも再評価されつつあるが、依然として生演奏が盛んに行われるには至っていない。 現在としては、19世紀ロマン派音楽の終焉を彩る穏健で伝統的な楽曲にしか響かないが、発表当初は斬新な問題作として受け止められた。たとえば初演者であるリャードフは、 “ 「何という交響曲。それにしても何たる代物であろうか? スクリャービンの後ではワーグナーすら乳呑み児のように舌足らずだ。僕は頭がいかれちまいそうだ。なのにこの音楽から逃げ場がないとは。助けてくれ!」 ” と述べている。一方、(モスクワ音楽院で作曲の教師として学生時代のスクリャービンに落第点をつけた張本人である)アントン・アレンスキーは、セルゲイ・タネーエフ宛ての私信で、次のように扱き下ろして見せた。 “ 「プログラムに『第2シンフォニー』と謳っているのは看板に偽りありだと思います。正しくは、『第2カコフォニー』と刷るべきでした。この“作品”とかいうやつには、まるで協和音がなさそうですからね。不協和音が、てんで出鱈目にどんどん積み重ねられて、30分から40分かけて静寂を打ち壊すんです。何だってリャードフは、こんなお笑い種を指揮したものか、皆目見当がつきません。僕は気晴らしを求めて演奏会に行ったんです。グラズノフは来てませんでした。リムスキー=コルサコフに意見を訊いたら、『これほどの諧音を貶す人の気が知れない』と言われましたがね。」 ” 後にスクリャービンが、より前衛的な方向に進んでからは、一転して独創性に乏しい凡作として評価されるようになった。 旧知のモデスト・アルトシュラーからニューヨーク初演を持ち掛けられたとき、スクリャービンは次のように答えて提案を断わっている。 “ 「作曲したときには気に入っていた曲ですが、今となっては満足できません。……終楽章が陳腐なもので。」 ” いずれは終楽章を書き換えることも計画していたといわれるが、結局はそれも実現せぬままに終わった。 ミハイル・カルヴォコレッシは、1907年5月にパリの晩餐会で作曲者本人とグラズノフと同席した際、前日にアルトゥール・ニキシュの指揮で上演された《第2番》が話題になったことについて、1933年の回想録の中で触れている。 “ 「スクリャービンは気さくに話しかけてきて、『あれは駄作でしてね』と口走った。筆者もその通りだと思っていたので、さすがにバツが悪くなり、どっちつかずの口ごもりで誤魔化してしまった。やおらグラズノフが小声で耳打ちしてきた。曰く、『それじゃあ彼は傷ついちまうよ。反論してくれると当てにしてたろうにさ』。」 ”
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リストはメンターを「ピアノ界にいるただ一人の愛娘」と呼んでいた。リストは「彼女に肩を並べることのできる女性は誰もいない」と宣言して、とりわけ彼女の「歌う手」を評価したのである。音楽評論家でピアニストでもあった作曲家のヴァルター・ニーマンは、メンターの演奏様式を、「超絶技巧と優雅さの融合。大きく円やかで豊かなリストばりの音。火のように烈しい気性。鍵盤をつかむ男勝りの力強さ。柔軟性。首尾一貫して際立った造形力。これらは、気魄と技巧とが渾然一体となって創り上げているものだ」と評している。ジョージ・バーナード・ショーは、1890年にメンターの演奏に接して、「彼女が創り出す荘厳な印象に、パデレフスキは遙かに及ばない。(中略)メンター女史は、際だってすばしこく演奏しているように思えるが、他の多くの演奏家と比べても、耳が追うことのできないほど速いというわけでもない。1音1音の打鍵や意味合いがはっきりしているからこそ、彼女の演奏は否も応もなくかくも猛烈になるのだ」と記した。 メンターは人気ゆえに、他のピアニストが取り上げようとしない楽曲で成功を収めた。例えば1869年には、世界初演の大失敗から12年ぶりにリストの《ピアノ協奏曲 変ホ長調》をウィーンで弾いている。あるリサイタルでは、「狂詩曲」と題された楽曲ばかりを特集したこともある。その時は、リストの《ハンガリー狂詩曲》から第2番、第6番、第12番の3曲と、その他の作曲家からの抜粋が組み合わされていた。 もっぱら華麗な様式でピアノ曲の作曲も手懸けたが、作曲家としての才能については「お粗末」と評されている。 ピョートル・チャイコフスキーは、メンターと親しく交流して、彼の《協奏的幻想曲 ト長調》の総譜をメンターに献呈している(但し彼の初期のピアノ譜は、アンナ・エシポワに献呈と記されている)。1892年9月には、オーストリアのメンターの許に滞在した際は、メンターの《ハンガリーのジプシーの旋律(ドイツ語: Ungarische Zigeunerweisen)》を「ハンガリー様式の協奏曲」として、ピアノと管弦楽のためのオーケストレーションを施し、それから4ヵ月後にオデッサで初演を指揮した。但し、一説には、《ハンガリーのジプシーの調べ》はフランツ・リストが若い頃に作曲した作品であったか、もしくは少なくともリストの手が入っていたかであったのだが、メンターはチャイコフスキーにそのことを隠したかったのだと論じられている。メンターはリストとの間に子を授かっていることからも、リストとは特別に親密な関係にあったわけで、リストの未発表の作品であったりリストが大部分を書いた可能性を想定することは容易である。例えば、リスト研究者として世界で初めてリストの全ピアノ作品の録音を完成させた大家レスリー・ハワードのリスト・ピアノ曲全集の録音においても、同作はリストの実作曲として扱われている。
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受容と評価
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アニメと共に本曲もヒットし、シングル発売・放映終了から25年経過しても、エヴァンゲリオンシリーズを象徴する楽曲としてのみならず、アニメソングの枠を超えた高い人気と知名度を保っている。 パチンコ機「CR新世紀エヴァンゲリオン」シリーズ(ビスティ)、10年ぶりの新作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』などで再び注目を集め、JASRACにおける著作権使用料分配額(国内作品分配額ベスト10)では2007年度に総合7位、2008年度に総合8位、2009年度は総合3位に入りJASRAC賞銅賞を受賞し、2010年度はついに総合1位でJASRAC賞金賞に輝いた。その後も2013年度の総合5位、2018年度の総合9位、2019年度の総合4位にランクインしている。カラオケでも常にトップ5(2012年時点)に入り、平成の間に歌われた楽曲ランキングではJOYSOUNDで総合1位、DAMで3位を記録するなど、高い人気を誇る。 また、2012年5月には日本レコード協会より着うたフルで75万DL達成が認定され、先に達成していたインターネット配信プラチナ(25万DL)と合わせると、フル配信での100万DLを達成している。その後、2014年1月に着うたフルとインターネット配信を統合して「シングルトラック」として認定するよう変更されたため、正式にミリオン(100万DL)認定された。 フェイス・ワンダワークスが2015年に発表したGIGAエンタメロディで15年間で最も多くダウンロードされた着信メロディを集計した「着信メロディ15年間ランキング」において6位にランクインされた。 2017年2月18日にNHK BSプレミアムにて放送された生放送番組『カウントダウンLIVE アニソン ベスト100!』では、第8位にランクインした。 2017年9月18日にテレビ朝日系列にて放送された『ミュージックステーションウルトラFES』内にて発表された「元気が出るウルトラソング100」では、第87位にランクインした。 2019年3月1日にはソニー・ミュージックエンタテインメントのアニメソング人気投票キャンペーン「平成アニソン大賞」において、最優秀賞となる平成アニソン大賞および作品賞(1989年 - 1999年)に選出された。 2020年9月6日にテレビ朝日系列にて放送された『国民13万人がガチ投票! アニメソング総選挙』では、第1位にランクインした。 2021年12月31日放送の『第72回NHK紅白歌合戦』において、「カラフル特別企画 〜明日への勇気をくれる歌〜」でエヴァンゲリオン関連コーナーより本曲を歌唱した。 「残酷な天使のテーゼ」カラオケランキング調査JOYSOUND(エクシング)DAM(第一興商)ORICON年度総合アニメ/特撮/ゲーム総合アニメ/特撮/ゲーム総合2007 20 1 - - - 2008 2 1 - - - 2009 2 1 6 1 4 2010 1 1 3 1 4 2011 2 1 8 1 9 2012 4 1 4 1 3 2013 2 1 3 1 2 2014 4 2 5 2 4 2015 8 3 10 3 8 2016 6 2 10 2 6 2017 9 3 8 3 7 2018 4 1 5 1 3 2019 7 1 8 1 8 2020 13 2 12 2 11 2021 6 2 10 3 9
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社会主義リアリズム時代の著作『金星応答なし』『マゼラン星雲』はソ連で100万部以上出版され、その後社会主義国全域で出版されるようになり、60年代にはポーランドで最も有名な現代作家となった。日本では『金星応答なし』が1961年、『ソラリスの陽のもとに』が1965年に邦訳、『砂漠の惑星』が1968年に『世界SF全集』に収録され、高い評価を得る。1970年に日本で開かれた国際SFシンポジウムにおいて、日本以外の西側諸国において初めてレムの存在が認知されて、レム・ブームが起こる。1973年にアメリカSF作家協会の名誉会員とされるが、アメリカSFへの批判が元で1976年に資格を剥奪される、いわゆるレム事件が起きる(ただしレム自身は相手にしていなかった)。1984年にはレムの代表的論考を集めた『Microworlds』が英語圏で出版されて評価を得る。1987年に出版された『大失敗』は、1995年までに欧州13ヶ国語に翻訳出版されている。 『ソラリスの陽のもとに』は代表作の一つとされ、『惑星ソラリス』(1972年、監督アンドレイ・タルコフスキー)および『ソラリス』(2002年、監督スティーブン・ソダーバーグ)として2度映画化された。タルコフスキーによる『ソラリス』映画化の際は、シナリオを巡って対立し、それ以降は作品の映画化を拒否するようになった。2002年のソダーバーグ版についてもレムは、「作品を見てはいないし脚本も読んでいないので公正な評価は出来ないが、批評に書かれているような“ラブ・ストーリー”として映画化されているのであれば、私の本とは異なるものだ」と否定的に述べている。 1986年、ヨーロッパ文学のためのオーストリア国家賞を受賞。 『未来学会議』はアリ・フォルマン監督でフランス・イスラエル合作の『コングレス未来学会議』として映画化された。
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「ヴラディーミル・ソフロニツキー」の記事における「受容と評価」の解説
ソフロニツキーは西側において、全くと言ってよいほど演奏旅行を行わず、また録音も出回らなかったため、ほとんど無名の存在だったが、ソ連国内においては高い評価を受けていた。スヴャトスラフ・リヒテルとエミール・ギレリスは、ソフロニツキーを巨匠と呼んで心酔していた。ある日のこと、ソフロニツキーが陶然として、「ギレリスは天才だ!」と叫んだ時、リヒテルは「ギレリスが天才ならあなたは神です」と答えたという。またギレリスは、ソフロニツキーの訃報に接した時、「世界で最も偉大なピアニストが亡くなった」と語ったと言われる。 ソフロニツキーの録音は、西側では少ししか入手することができない時代が20世紀末まで続いたため、リヒテルより幻の存在であった。BMGレーベルの“Russian Piano School (ロシアのピアノ楽派)”シリーズにおけるシューマンの演奏が、このピアニストの本質を良く捕らえており、摩訶不思議で夢見心地で、しかも移り気な表現が特徴的である。フィリップスの「20世紀の偉大なピアニスト」シリーズでは、ショパンのマズルカやワルツの繊細多感な解釈に加えて、スクリャービンの《トリル・ソナタ》や《焔に向かって》の圧倒的な演奏を聴くことができる。 日本では、デンオンから数々の音源がCDに復刻されていた。現在はVista Veraが遺された録音の全集の復刻作業を進めており、西側のみならず全世界で購買が可能となっている。ソフロニツキーの録音は、極めて強烈で個性的なピアノの魅力を効果的に引き出した、20世紀屈指の個性の記録である。
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受容と評価
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「エドヴァルド・ムンク」の記事における「受容と評価」の解説
ムンクの作品は初期から激しい非難を浴び、1892年にベルリン芸術家協会の招きで開いた個展は、理事の過半数の反対表決で1週間で打ち切りを強いられた。しかしこの事件がきっかけで、ドイツの詩人、画家、批評家の中でムンクの支持者も現れるようになった。また、この「ムンク事件」はベルリン芸術家協会の中の対立を顕在化させ、1898年にベルリン分離派が誕生するきっかけとなった。 1896年のパリのアンデパンダン展、アール・ヌーヴォー展では好意的評価も増えてきた。ムンクは後に「〈生命のフリーズ〉に属するこれらの作品が最もよく理解されたのは、フランスにおいてであった。」と回想している。ようやく分離派が印象派に追いついたベルリンよりも、既に印象派とポスト印象派を経験しているフランスの方が、ムンク受容の土壌が育っていたと考えられる。 20世紀初頭になると、ムンクはドイツで表現主義の若い画家たちから、ゴッホやゴーギャンと並んで熱狂的に支持された。ドイツでのムンクの影響は、フランスでのセザンヌに匹敵するほど大きく、ムンクはドイツ表現主義の先駆者とみなされている。 1922年にはチューリッヒなどで版画を中心とした大回顧展が開かれ、1927年にはオスロやベルリンの国立美術館で回顧展が開かれるなど、ムンクの評価は確立した。1924年3月には、ベルゲン美術館でラスムス・メイエル・コレクションが一般公開された。 1933年にはノルウェー政府から聖オラヴ大十字章、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されるなど、最高の栄誉を受けた。しかし、晩年はナチスの台頭とノルウェーでの親ドイツ政権の成立で不遇の時を過ごしていた。 2001年から、1000ノルウェー・クローネの紙幣に採用され、表面はムンクの若い時の肖像と背景に作品『メランコリー』、裏面は作品『太陽』が描かれている。 2020年6月、ムンク美術館がオスロの文化発信地区ビョルヴィカに13階建ての美術館として移転増築される予定であり、個人の名を冠した美術館としては世界最大規模のものとなる見込みである。
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