アンナ・エシポワとは? わかりやすく解説

アンナ・エシポワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/24 16:04 UTC 版)

アンナ・エシポワ
ウェルテ・ミニョンに録音するエシポワ(1906年2月7日撮影)
基本情報
生誕 (1851-02-12) 1851年2月12日
ロシア帝国ペテルブルク
死没

1914年8月18日(1914-08-18)(63歳没)


ロシア帝国ペテルブルク
職業 音楽家, 大学教授
担当楽器 ピアノ
活動期間 1871年1914年

アンナ・ニコライェヴナ・エシポヴァロシア語: А́нна Никола́евна Е́сипова, 英語: Anna Yesipova, 1851年2月12日1914年8月18日)は、ロシア帝国ピアニスト・音楽教師。

略歴

ペテルブルク音楽院テオドール・レシェティツキーに師事する。1871年ペテルブルクで初舞台を踏むと、とりわけ苦労を感じさせない超絶技巧と歌うような音色に対して、熱狂的な評価を受け、ピョートル・チャイコフスキーフランツ・リストといった芸術家からも称賛された。その後、演奏旅行に赴き、まずはロシア国内を、次いで1875年ヨーロッパの諸都市を廻り、1876年にはアメリカ合衆国を訪れて称賛を浴びた。

アメリカではファニー・ブルームフィールドの演奏を聴いて、レシェティツキーに入門するように助言している。1880年に旧師レシェティツキーと結婚して、アネット・エシポフ=レシェティツキー(Annette Essipow-Leschetizky)と名乗るもやがて離婚した。2人の間に生まれた娘テレーゼ(Therese、1873-1956)は声楽家となった[1][2]

1885年プロイセン宮廷ピアニストに任命され、激しい情熱と詩的な解釈とが美点として称賛された。

1893年から1908年までペテルブルク音楽院ピアノ科教授に就任して、レオニード・クロイツァーやトマス・ド・ハルトマン、イサベッラ・ヴェンゲーロヴァ、アレクサンドル・ボロフスキー、セルゲイ・プロコフィエフマリヤ・ユーディナレオ・オルンスタインらを養成した。

エシポワは、当時流行していた神智学協会とたびたび交流した。

アレクサンドル・ネフスキー大修道院附属墓地のエシポワの墓

ローマ字への転写例

  • 姓名ともそのままの転写
    • Anna Esipova
    • Anna Essipova
    • Anna Yesipova
    • Anna Jessipowa
  • 名前が西欧風で姓はロシア語式(女性語形)
    • Annette Essipova
  • 姓名とも西欧式(姓は女性変化しない)
    • Annette Essipoff
    • Annetta Essipoff
    • Annette von Essipow

脚注

  1. ^ <対談>クロイツァー教授と語る 属啓成著 雑誌「音楽」1948年8月
  2. ^ Leschetizky (Leschetitzky, Leschitizky, Leszetycki), Familie




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