正式な教育と議論を呼んだ初期作品とは? わかりやすく解説

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正式な教育と議論を呼んだ初期作品

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:22 UTC 版)

セルゲイ・プロコフィエフ」の記事における「正式な教育と議論を呼んだ初期作品」の解説

1902年、母がモスクワ音楽院学長務めていたセルゲイ・タネーエフ出会い当初アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの下でプロコフィエフへのピアノ作曲指導開始すべきである助言受けた。これは実現せずタネーエフ代わりに1902年の夏に作曲家ピアニストレインゴリト・グリエールをソンツォフカに向かわせてプロコフィエフ指導する手はず整えた最初講義最終段階至り11歳本人の強い希望により新米作曲家プロコフィエフ初め交響曲作曲取り組んだ翌年の夏にもグリエールはソンツォフカを訪ねて更なる指導行っている。数十年が経過してグリエールとのレッスンについて記した際、プロコフィエフは師の思いやりのある教授法に当然の称賛送りつつも、授けられたものが後になって頭から消し去らねばならなかった「四角四面の」フレーズ構造因習的な転調だったことには不平漏らしていた。それでもなお、必要であった理論という道具備えたプロコフィエフは、不協和和声や一般的でない拍子実験開始している。それを行うにあたっては彼が「小歌曲」と呼んだ短いピアノ曲用い、これが彼独自の音楽形式基礎形成していった。 息子才能開花していく一方でプロコフィエフ両親これほど幼いうちから子どもを音楽の道に進ませてよいものか躊躇っており、モスクワ優良な高校通わせる可能性について考えていた。1904年までに母はモスクワではなくサンクトペテルブルクにすることを心に決めており、プロコフィエフ2人でこの当時首都訪ねて教育のために移り住めるのかを探った2人サンクトペテルブルク音楽院教授だったアレクサンドル・グラズノフ紹介されプロコフィエフ会ってその音楽見てみたいと請われるプロコフィエフはこの時さらに2つオペラ無人島で』と『ペスト流行期酒宴』を完成させており、4作目の『水の精』に取り組んでいた。グラズノフはいたく感銘を受け、プロコフィエフ母へ息子音楽院入学試験受けさせるよう強く勧めたプロコフィエフ試験合格この年入学を果たす。 クラスメイト大半比べて数年年少プロコフィエフ風変り傲慢な人物見られており、多数同級生間違い記録につけて彼らを苛立たせた。この時期にはピアノアレクサンドル・ウィンクラーに、和声対位法アナトーリ・リャードフに、指揮法ニコライ・チェレプニンに、管弦楽法ニコライ・リムスキー=コルサコフに学ぶなどした。授業では作曲家ボリス・アサフィエフニコライ・ミャスコフスキー一緒になっており、後者とは比較親密となり生涯にわたる親交を育んだ。 サンクトペテルブルク楽壇一員として、自らピアノ演奏して披露した自作曲により称賛を受ける傍ら音楽反逆者として名声高めた1909年には特筆すべきことのない成績作曲クラス卒業している。音楽院には籍を置いたままとし、アンナ・エシポワピアノ指導を受け、チェレプニン指揮レッスン研鑽続けた1910年に父が他界し財政的支援滞った幸運に音楽院外部作曲家ピアニストとして名を馳せ始めており、サンクトペテルブルクの『現代音楽夕べ』にも顔を出していた。その場においては冒険的な自作ピアノ作品複数披露しており、そうした中に非常に半音階的不協和練習曲集 作品2(1909年)があった。この作品演奏が『夕べ』の主催者らに強い感銘与えプロコフィエフは彼らの誘いアルノルト・シェーンベルク3つのピアノ小品 作品11ロシア初演手掛けることになった和声実験ピアノのための『サルカズム(風刺)』 作品171912年)でも続いており、ここでは多調使用推し進められている。最初の2作のピアノ協奏曲書かれたのはこの頃で、そのうちピアノ協奏曲第2番1913年8月23日パヴロフスクでの初演の際にスキャンダル巻き起こした。ある人物次のように絶叫して会場を後にしたと記述している。「こんな未来派音楽なんかくそくらえだ!屋根の上ですらましな音楽奏でるぞ!」一方でモダニストらは魅入られていた。 1911年ロシア高名な音楽学者音楽評論家のアレクサンドル・オッソフスキーから支援もたらされる。彼が音楽出版社ユルゲンソンプロコフィエフ協力的な手紙送り、これによって彼のもとに連絡届いたのであるプロコフィエフ1913年に初の国外旅行出てパリロンドン巡りその中ではじめてセルゲイ・ディアギレフバレエ・リュス出会うことになる。

※この「正式な教育と議論を呼んだ初期作品」の解説は、「セルゲイ・プロコフィエフ」の解説の一部です。
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