正式な街道名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/04 02:13 UTC 版)
「脱藩道」は当該道の便宜的名称であり、その全て、もしくは何割かは有名な街道や往還である場合が多い。坂本龍馬の脱藩道については、昭和50年代までと60年代からとでは、古記録(写し)の発表によるルートの変更(四国内)が見られるが、須崎廻り説の場合、高知市上町の龍馬の自宅西方約900メートル (m) にあった思案橋番所を基点とし、須崎市の須崎番所までは「中村街道」で、そこから梼原町の中心部までは「梼原街道」、梼原から終点の愛媛県大洲市までは「大洲街道」と呼称された。ただし、大洲市周辺から梼原方面に向かう場合、伊予の在住者はその道を「梼原街道」と呼んだ。つまり、土佐人と伊予人では「梼原街道」の用語認識が全く異なることになる。 1996年に文化庁が選定した「歴史の道百選」では、脱藩道の内、梼原町と愛媛県西予市野村町との境界の峠である「韮ケ峠(にらがとう)」から脱藩道の陸路の終点である内子町宿間までを「梼原街道—韮ヶ峠越」の名称で認定している。 現在、坂本龍馬の脱藩道としては、須崎廻り説は傍流となり、佐川説が主流となっているが、その場合、龍馬の自宅から思案橋、そして更に西にあった「雁切の渡し」を渡った地点(現在の紅葉橋南袂西方の三叉路)までは須崎廻り説と同じ中村街道である。そこから佐川町までは特に有名な街道ではなく、全ルートを指す総称も知られていない。しかしながら、佐川町南部から津野町との境界の朽木(くちき)峠を経て、麓の津野町の姫野々番所までは「葉山街道」という名称が付いている。姫野々から梼原までは前述の梼原街道に含まれる。 現在の脱藩ルート説では、龍馬は宿間から川舟に乗り、大洲市長浜町の江湖(えご)という港に着き、港町の豪商宅で一夜を過ごし、翌日、長浜港から船便で山口県上関町の港に渡り、そこで宿泊。次の日には再び船で山口県防府市三田尻へと向かっている。 龍馬は三田尻の長州藩御茶屋内の招賢閣に泊まり、翌日、陸路を下関に向けて行っているが、御茶屋から同市植松の「大崎の渡し」までのルートは詳らかではない。 大崎の渡しからは山陽道を終点の下関市観音崎町の永福寺門前にあった一里塚まで進み、そこからはその延長にある海岸沿いの道を西から北へと回り、勤王豪商、白石正一郎邸へと向かった。同邸が龍馬の脱藩道の終点となる。
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