衛満の出自
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李氏朝鮮の実学者である安鼎福(朝鮮語版)は『東史綱目(朝鮮語版)』において、檀君の正統性が箕子へと、馬韓へと、統一新羅へと、高麗王朝へとつなげており、漢人が侵入して建国した衛氏朝鮮及び漢四郡を朝鮮の歴史の正統性から除外し、衛氏朝鮮は漢人亡命者が王統を簒奪した「簒賊者の支配した国家」と非難した。 かつては、衛氏朝鮮は中国人植民者が支配する植民地政権と考えられていた。これに対して朝鮮民族主義歴史学を確立した申采浩は、「中国の燕王の部下衛満」の支配した衛氏朝鮮は、漢人の支配が古朝鮮に及んでいたとしても、それは古朝鮮の広大な国土のごく一部を支配したに過ぎないと反論した。 金哲埈(朝鮮語: 김철준、ソウル大学)は、衛満は「殷人の末裔」としている。 尹乃鉉(朝鮮語版)(朝鮮語: 윤내현、檀国大学)は、著書『韓国古代史新論』で箕子朝鮮の存在を認め、箕子は中国中原に起源をもつと主張しているが、尹乃鉉(朝鮮語版)の見解によれば、箕子朝鮮と衛氏朝鮮はいずれも漢人が建てた政権であり、衛氏朝鮮の位置と版図は箕子朝鮮とほぼ同じであり、どちらも灤河の東岸である。また、尹乃鉉(朝鮮語版)は、衛氏朝鮮は中国人が建国した中国勢力であるから、朝鮮の歴史から除外すればよい、と主張している。 現代の韓国や北朝鮮のナショナリストは、朝鮮の歴史における最初の国家が、中国(燕)人である衛満によって建国された中国系の国家であるとすれば、朝鮮の歴史が中国の支配から始まったことになるため都合が悪く、衛満は古朝鮮に亡命する際に髷を結い(髷結)、野蛮人の服装(蛮夷服)を着用していたこと、『史記』に「朝鮮王満」とあり、名のみ「満」と記し、姓が記されていないことなどを根拠にして、衛満は純粋な燕人ではなく、古朝鮮系の人物であると推定している。これらの見解が提出されるのは、日本の植民地時代に日本の研究者が衛満を漢人とみて、朝鮮の歴史は中国の植民地から始まったと規定したことへの反発の側面がある。 『三国志』は「夷服」と記述しているが、『史記』は「蛮夷服」と記述しており、「蛮」と「夷」を両方使用している。この「夷服」や「蛮夷服」をすべて「野蛮人の服」と解釈し、さらに「古朝鮮の服」と再解釈している。これは「夷」を「東夷」と同一視し、東夷とは即ち韓民族のことであるという認識によるものとみられ、「髷を結い、野蛮人の服を着た」という記事を「髷を結い、古朝鮮の服を着た」と拡大解釈し、衛満は古朝鮮系の人物としている。また、「夷」「蛮夷」は『魏書』では「胡」と変わり登場する。 李丙燾(朝鮮語版)は、衛満が朝鮮に亡命してくる際に、髷を結って蛮夷の服を着たこと及び国号を朝鮮としたことを根拠にして、衛満は古朝鮮が燕の侵略により遼東半島を奪われた際、その地域に留まり、燕に吸収された元古朝鮮人であると推測した。 崔南善の執筆した歴史教科書『中等国史』(1947年)は、「(古朝鮮)西方から二千百年ほど前に長らく中国で暮らし、中国人の性格をよく知る衛満という人物が戻ってきたので、朝鮮では中国人に関する問題を彼に担当させた」とし、衛満は本来、古朝鮮出身であったが、燕に居住し、再度故国に戻り、王となったと理解している。同じ崔南善の執筆した『高等国史』(1957年)は、衛満を「燕に行き役人となっていた」とし、『国史』(1962年)でも衛満を「長期間燕で居住し、中国人の性格をよく知る」人物として描いている。衛満を古朝鮮出身とすることによって、衛氏朝鮮を『国史』に位置づけようとしたものとおもわれる。 韓国民族文化大百科事典は、「衛満は朝鮮に入国する際に、『髷を結い、朝鮮服を着た(魋結蠻夷服)』と描写されており、国号をそのまま朝鮮としたことから朝鮮人系の子孫と思われる」と述べている。 歴史評論家の朴春日は、朝鮮総連機関紙『朝鮮新報』において「その昔、古朝鮮に魏満(ウィマン)という人物がいて、燕の国が強大になるとそこへ移り、燕が匈奴(きょうど)に圧迫されると、再び古朝鮮へ戻ったりした。魏満は古朝鮮の準王に取り入って信任を得ると、機会を狙って政変を起こし、準王を追放して王座を奪った。そこで南方へ逃れた準王は、韓という国で王になった」と述べており、衛満はもともとは古朝鮮出身であり、その後燕に移住し、燕で暮らしていたが、再度古朝鮮に戻ってきたと主張している。 김용만は、「かつて日本人は、衛満が中国移民だと思って、衛氏朝鮮を中国の植民地政権といって、朝鮮の歴史と無関係であると主張した。しかし、ペルーの元大統領フジモリが日本出身だからといって、ペルーの歴史が日本の歴史にならないように、仮に衛満が異民族出身であったとしても、衛満が治めた古朝鮮が他国の歴史になるのではない」と述べている。 韓国では衛満が髷を結い、野蛮人の服装を着用して亡命したことをもって古朝鮮系と解釈するのは根拠不足という批判もあり、古朝鮮に亡命する際に装いを変えたこと自体がそれ以前はそのような髪形と服装をしていなかった証拠であり、衛満が原住民の髪形と服装を装ったのは、古朝鮮の文化風習を受け入れることにより、原住民の警戒を解いて安堵を与え、好感を与えるためであり、政治的行為の際に外国人が原住民を装うことは珍しいことではなく、衛満と同時代の南越国を建国した趙佗も衛満と同様に外部者が王になった事例であるが、記録によると趙佗は明らかな漢人であるにも関わらず、髷を結っていた。趙佗の事例からも出自が漢人であっても、必要に応じて異民族の髪形と服装を装うことを知ることができる。また、衛満は匈奴に亡命した盧綰に従わずに古朝鮮に亡命したが、過去に燕が古朝鮮領域を征服・領域を併合した事実を勘案すれば、衛満が自らの血縁に導かれて、古朝鮮に亡命した可能性は残されているが、推定に推定を重ねた証明しようのない不確実な根拠に基づいて、衛満の出自に意味を付与する必要はないという指摘がある。 金翰奎(朝鮮語: 김한규、西江大学)は、「髷結」は朝鮮人だけの風俗ではなく、南越国や中国にも同様の風俗があり、「蛮夷服」も古朝鮮の服を意味しないため、衛満を古朝鮮系と解釈するのは無理であると述べている。 甘懐真(中国語版)(国立台湾大学)は、衛満は『史記』に「朝鮮王満」とあり、名のみ「満」と記し、姓が記されていないことから、中国人ではなく、朝鮮人であるという推測は、あまりにも粗雑な推測であり、全く根拠がないと評している。 『史記』で衛満に言及している箇所は二つあり、一つは『史記』朝鮮伝であり、もう一つは『史記』太史公自序である。『史記』全体のスタイルとして「某王名」は一種の通例的な呼称の原則であり、例えば、秦の始皇帝(姓は嬴、氏は趙、諱は政)は「秦王政」と記されている。その他にも、戦国時代の趙の「趙王遷(姓は嬴、氏は趙、諱は遷)」、戦国時代の韓の「韓王安(姓は姫、氏は韓、諱は安)」など多数事例があり、漢の諸侯王も「韓王信(姓は姫、氏は韓、諱は信)」のように「某王名」と記するのが通例である。また、前漢呉王の劉濞は「呉王濞」と記され、「呉王濞」は『史記』呉王濞列伝として列伝のタイトルにもなっている。また、「燕太子丹」および「信陵君無忌」などの呼称もあるが、これらの人物には姓がないと主張する研究者はいない。したがって、「朝鮮王満」という記録だけで姓がないと結論付けることはできず、また、『史記』太史公自序は、簡潔に省略しているため推論に適さず、そうでないなら『史記』太史公自序に登場する「燕丹(姓は姫、諱は丹)」も姓がないと主張すべきである。 戦国時代末期から漢代初期は、伝統的な中国の名前の体系が成立しておらず、後世にみられる漢人の漢姓漢名制度は、時代的に変化し、形成される段階にあった。一つの姓と一つの名を明確にした漢姓漢名制度の体系を確立するのは、後代になってからであり、その普及は両漢時代になってからであり、戦国時代末期から漢代初期の時代は、姓の有無から中国人と非中国人を識別することができない。 中国の秦および漢の郡県区域は統一された一体のものではなかった。それ故、中国全土で名前の体系の統一が図られた。中国の秦および漢の郡県区域は統一された一体のものではないことから複数の文化圏が存在し、各地域で名前の体系の差異や発展も様々であった。さらに、燕と朝鮮(朝鮮半島北西部)は、戦国時代から前漢時代まで同一文化圏に属しており、この地域の出身者である衛満を朝鮮人と結論付けても意味がない。 甘懐真(中国語版)(国立台湾大学)は、衛満集団が「魋結,蠻夷服」すなわち、蛮族の服飾に変装したのは、漢朝が主導する「天下」から脱却し、衛満集団のアイデンティティを変更する決意をしたと推察しており、アイデンティティを「東夷化」することで朝鮮王である準王の信頼を得た。したがって、衛満には、二重の性格があり、一つはアイデンティティを「東夷化」することで、朝鮮王によって朝鮮の地域の首長として冊封された。二つは、衛満は「中国人」というステータスにより、「中国の亡命者」との関係を築くことができた。この二面性が衛氏朝鮮の成功理由である。 金柄憲(朝鮮語版)(朝鮮語: 김병헌、成均館大学)は、「夷」を韓民族とみなすことはできないと指摘しており、「夷」を古朝鮮と解釈するのは無理な接合であるが、「蛮夷」を古朝鮮と解釈するのはさらに無理な論理であり、「夷」や「蛮夷」とは、中国が辺境の異民族を卑下した蔑称であり、「南蛮」「北狄」「東夷」「西戎」と称することからも分かるように、「夷」とは東方の異民族を、「蛮夷」とは南方と東方の異民族を同時に指す字句であり、『爾雅』には「九夷,八狄,七戎,六蠻,謂之四海。」とあり、孫炎(中国語版)は「海之言晦,晦闇於禮義也(海とは、晦(くらい)ということであり、文明の光の届かないところ)」と解釈し、東方の9つの夷、北方の8つの狄、西方の7つの戎、南方の6つの蛮の野蛮人の住地であるというのが『爾雅』のいう四海(中国語版)であり、中国では東夷、西戎、南蛮、北狄を指し、四海は「東西南北四方の文明を知らない野蛮な部族」を指す用語で使用され、国史編纂委員会のデータベースは、「胡服」も「野蛮人の服装」と解釈しているが、「夷服」「蛮夷服」をすべて「野蛮人の服」と解釈し、さらに「古朝鮮の服」と再解釈したので、「胡服」も同様に解釈したものとみられるが、中国史書は、衛満を「夷服」「蛮夷服」「胡服」を着用した野蛮人と描写しており、韓国人が「夷」「蛮」「胡」を無批判に古朝鮮と同一視することにより、野蛮な部族であることを自ら自任していると指摘している。 宇山卓栄は、「箕子朝鮮に続き、紀元前195年頃、衛氏朝鮮が建国されました。都は箕子と同じく、王険城(現在の平壌)に置かれました。やはり、この衛氏もまた、中国人です。このように中国人の支配者が続くのは朝鮮人に、国を運営する能力やノウハウがなかったからだと言う他にありません。衛氏朝鮮は燕の出身の武将の衛満によって建国されます。燕は、現在の北京を中心とする中国東北部の地域です。劉邦の前漢王朝の成立に伴い、彼らの勢力と対立していた燕の人々を、衛満が率いて朝鮮に亡命しました」「中国支配を否定する韓国…衛満は鉄製の武器で武装し、その軍隊も優れた機能と統制を兼ね備えていたので、朝鮮人はほとんど対抗できませんでした。高度な文明を擁していた中国人にとって、朝鮮人を屈服させるのは難しいことではなかったでしょう。箕子朝鮮の実在が未だ確定されていないのに対し、衛氏朝鮮の実在は確定されています。そのため、現在の韓国は中国人起源の箕子朝鮮を否定しても、同じく中国人起源の衛氏朝鮮を否定できず、中国人が古朝鮮を支配していたという実態を結局、覆い隠すことができません。それでも、かつては衛満が朝鮮人であるという無理矢理な理屈をでっち上げていました。衛満が朝鮮に入った時、髷を結い、朝鮮の服を着ていたことから、衛満を朝鮮人と推定でき、朝鮮人である衛満が中国の燕に滞在し、朝鮮に帰って来て国をつくったと説明されていました。韓国の学校でも、1990年代までそのように教えられていました」と述べている。 豊田隆雄 は、「燕人の衛満は、王と行動を共にすることなく、兵とともに朝鮮に亡命する道を選んだ。当時朝鮮を治めていたのは、建国の父・檀君が君主の座を譲った(伝説上は)箕子の子孫・準王だった。彼は衛満を歓迎し、博士の官職と土地100里を与え、辺境の警備を任せた。ところが、である。紀元前194年、亡命してきた中国人を糾合して力をつけた衛満は、準王を攻撃して追放し、国を奪ってしまう。まさに恩を仇で返す所業である。彼は王倹城(現在の平壌)に新たな都を定め、王朝を打ち立てる。これが『衛氏朝鮮』の始まりだ。つまり、朝鮮初の国家は中国からの亡命者によって建国されたことになる。司馬遷の『史記』朝鮮列伝にも『朝鮮王満者、故燕人也』とはっきりと記されている。ところが韓国の歴史学者の中には、衛満を中国人ではなく燕に住んでいた朝鮮人だと主張する者も多い。『史記』にある『髷結蛮夷服而東出塞』の一文、すなわち『髷を結い、蛮夷の服を着て東に逃れた』という部分を根拠にしているのだろうが、髷が朝鮮族だけのものとするのは無理がある。『三国志魏書』にも同じような記述があり、そこには『燕人衛満亡命、為胡服』とある。胡服を朝鮮服と考えるのには無理があり、やはり衛満は朝鮮に亡命した中国人であろう。亡命者の衛満があっさりと朝鮮を支配できたのは、当時まだ青銅器文化だったところへ鉄器文化を持ち込んだからだといわれる。『歴史に初めて登場する政権が、他国からの亡命者によって建てられた』という事実は韓国人にとっては辛い現実である。彼らが日本にことさらに『漢字を伝えてやった』『仏教を伝来させた』と主張するのは、常に民族的なアイデンティティーが危機に晒されてきたことの裏返しだといえるだろう」と評している。 中国史料に記録されている衛満は燕から亡命した漢人であり、衛氏朝鮮は中国人が建国した植民地政権とみなされている。韓国の学者には、衛満が漢人であることを否認し、衛氏朝鮮が中国人による植民地政権であることを批判する人がいる。 衛満は燕人ではなく、朝鮮人である。衛満が民を率いて朝鮮に亡命した時、「髷を結い、蛮夷の服を着た」ということから、衛満が朝鮮人であることがわかる。準王が衛満を信頼して西部の国境を警備させたのは、衛満が朝鮮人だからである。 衛満は準王を追放し、権力を掌握した後も「朝鮮」の国号を使い続けている。 衛満が率いた1000余人も朝鮮人である。衛満に率いられて朝鮮に亡命した民は皆蛮夷の服を身にまとい、髷を結っていた。衛満が西部の国境を警備している間に組織した勢力は東夷族である。 衛氏朝鮮政権では、朝鮮相や歴谿卿をはじめ、多くの朝鮮の先住民を政権高官として任用した。 大同江流域一帯の発掘調査では、衛氏朝鮮時代にふさわしい支石墓群が発掘されている。 一方、韓国の学者尹乃鉉(朝鮮語版)(朝鮮語: 윤내현、檀国大学)は、衛満は燕から亡命した漢人であり、衛氏朝鮮は中国人が建国した植民地政権であると主張しており、上記の主張に対して以下のように反論している。 古代には、髷結は朝鮮人だけのいでたちではなく、李丙燾(朝鮮語版)は、南越人にも髷結の風習があったことを著書で述べている。すなわち、『史記』酈生陸賈列伝に「陸生至,尉他魋結箕倨見陸生。」という記録があり、劉邦が陸生(陸賈)を南越国に遣わすと、南越王の尉他(趙佗)は「髷結」のいでたちで、傲慢に両足を投げ出して座ったまま陸生に謁見したとある。また、秦の始皇帝の陵から出土した兵馬俑にも髷結の者が多数いる。また、衛満が着ていた蛮夷服は必ずしも朝鮮の衣服ではなため、衛満を朝鮮人と断定することは難しい。 盧綰が謀反に失敗し、匈奴に亡命したが、衛満は盧綰に従って北方に逃亡せずに、むしろ多くの民を率いて東走し、箕子朝鮮に亡命したことは、衛満が古朝鮮についてよく理解し、十分に把握していたことが窺われる。衛満が漢人であれ朝鮮人であれ、中国の燕国に長く居住し、その境地は朝鮮とつながっているため、朝鮮の風習と情勢についてよく理解しており、何よりも箕子朝鮮の支配者が中国殷王朝の子孫であることを知っていた。 『史記』朝鮮列伝は、衛氏朝鮮の国家運営者として、路人、韓陰、参、王唊の名前が列挙されている。このうち、先住民である参を除く、路人、韓陰、王唊はすべて漢人である。『史記』は、路人が漁陽県出身であることを明らかにしており、「路」姓の漢人は多く、路人は中国から朝鮮に移民した漢人である。韓陰と王唊の「韓」姓と「王」姓は中国でよくみられる姓であり、ともに漢人である可能性が高い。参は、姓のない先住民名であり、参が先住民であることが分かる。参が衛氏朝鮮王から重用されたのは、おそらく支配者と先住民勢力のある種の妥協、あるいは原始的な部族長社会の名残である可能性がある。 『三国志』には、衛満が朝鮮亡命後、準王の信任を得て西部の国境100里の警備を任され、「博士」として封じられたという記録がある。その背景には、準王の祖先である箕子はもともと殷王朝の子孫であり、殷周革命時に、朝鮮に流転し、国家を建国した。その後、中国は実力で国土を奪い合う、弱肉強食の春秋戦国時代に突入し、燕と箕子朝鮮との間には多くの葛藤が生じるようになり、燕の将軍である秦開が遼東を経略した影響が朝鮮にも波及した。その後、秦が中国を統一すると、その勢力はすぐに朝鮮半島の西境まで発展し、箕子朝鮮は大きな圧力を受けた。このような状況は秦滅亡後、漢が勃興するまで継続したが、やがて衛満が箕子朝鮮に投身し、衛満が前漢から来帰したことをみた準王は、必然的に同族意識をもった。そのため、衛満は準王からの共感と信頼を得るのは容易であり、前漢の侵略から西部の国境を警備する任務に就くことが許され、西部国境の警備に任じただけでなく、衛満を「博士」として封じた。衛満は、西部の国境を警備するだけでなく、職権を乱用し、燕および斉からの亡命者と先住民の力を結集することによる権勢の発揮は、準王の衛満への過信によるものである。その勢力が伸張した衛満は、前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で王都に乗りこんだが、準王は衛満を過信していたため、防備をしておらず、衛満の反乱は順調におこなわれた。 田中俊明は、「燕人滿が建国したのが衛氏朝鮮(衛滿朝鮮)である。滿は、漢帝国のなかの燕王盧綰に仕えていたが、前一九五年、盧綰が匈奴に亡命し、燕國が瓦解したあと、滿は徒党を率いて東走し、燕・齊からの亡命者たちを従えて王となり、王險城に都した。王險城は、現在の平壤である。魋結については、白鳥庫吉によれば、『魋結即ち椎髻といふのは頭上に束ねた頭髪の形が椎即ち槌の形に類似する所から其の名を得た』『椎髻といふのは元来顔師古の注にもある如く頭髪を頂上に圓く束ねて槌頭のように結ぶに因つて得た名であり、弁髪はまま編髪とも繩髪とも索頭ともいひ、頭髪を繩の如く編むによつて得た名に相違ない。だから椎髻と弁髪とは自ら別個のもので必しも同一のものではない』として、南越や匈奴にみられる調髪法であるとしている」と指摘している。 衛満が衛氏朝鮮を建国する過程において、中国からの移民が最も重要な勢力基盤であったが、衛満は征服者として古朝鮮に君臨したのではなく、衛満が「朝鮮」という国名を維持したのは、既存の古朝鮮土着勢力を包摂するためであり、衛満が建国した古朝鮮は中国からの移民と古朝鮮土着勢力が協同する連合政治体であったとする見解もある。いずれにせよ、『史記』『塩鉄論』『漢書』『三国志』など多数の史書が衛満が前漢時代に燕から亡命したと伝えていることから、少なくとも衛満は燕に居住し、燕の文化で成長した人物であることは確実である。
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