衛満の出自とは? わかりやすく解説

衛満の出自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 15:22 UTC 版)

衛満」の記事における「衛満の出自」の解説

李氏朝鮮実学者である安鼎福朝鮮語版)は『東史綱目朝鮮語版)』において、檀君正統性箕子へと、馬韓へと、統一新羅へと、高麗王朝へとつなげており、漢人侵入して建国した衛氏朝鮮及び漢四郡朝鮮の歴史正統性から除外し衛氏朝鮮漢人亡命者王統簒奪した「簒賊者の支配した国家」と非難したかつては衛氏朝鮮中国人植民者支配する植民地政権考えられていた。これに対して朝鮮民族主義歴史学確立した申采浩は、「中国燕王部下衛満」の支配した衛氏朝鮮は、漢人支配古朝鮮及んでいたとしても、それは古朝鮮広大な国土ごく一部支配したに過ぎない反論した金哲埈朝鮮語: 김철준、ソウル大学)は、衛満は「殷人の末裔」としている。 尹乃鉉朝鮮語版)(朝鮮語: 윤내현、檀国大学)は、著書韓国古代史新論』で箕子朝鮮存在認め箕子中国中原起源をもつと主張しているが、尹乃鉉朝鮮語版)の見解によれば箕子朝鮮衛氏朝鮮はいずれ漢人建てた政権であり、衛氏朝鮮位置版図箕子朝鮮とほぼ同じであり、どちらも灤河東岸である。また、尹乃鉉朝鮮語版)は、衛氏朝鮮中国人建国した中国勢であるから朝鮮の歴史から除外すればよい、と主張している。 現代韓国北朝鮮ナショナリストは、朝鮮の歴史における最初国家が、中国(燕)人である衛満によって建国され中国系の国家であるとすれば朝鮮の歴史中国支配から始まったことになるため都合悪く衛満古朝鮮亡命する際に髷を結い(髷結)、野蛮人服装蛮夷服)を着用していたこと、『史記』に「朝鮮王満」とあり、名のみ「満」と記し、姓が記されていないことなどを根拠にして、衛満純粋な燕人ではなく古朝鮮系の人物であると推定している。これらの見解提出されるのは、日本植民地時代日本の研究者衛満漢人とみて、朝鮮の歴史中国植民地から始まった規定したことへの反発側面がある。 『三国志』は「夷服」と記述しているが、『史記』は「蛮夷服」と記述しており、「蛮」と「夷」を両方使用している。この「夷服」や「蛮夷服」をすべて「野蛮人の服」と解釈し、さらに「古朝鮮の服」と再解釈している。これは「夷」を「東夷」と同一視し東夷とは即ち韓民族のことであるという認識よるものとみられ、「髷を結い野蛮人の服を着た」という記事を「髷を結い古朝鮮の服を着た」と拡大解釈し、衛満古朝鮮系の人物としている。また、「夷」「蛮夷」は『魏書』では「胡」と変わり登場する丙燾(朝鮮語版)は、衛満朝鮮亡命してくる際に、髷を結って蛮夷の服を着たこと及び国号朝鮮としたことを根拠にして、衛満古朝鮮が燕の侵略により遼東半島奪われた際、その地域留まり、燕に吸収された元古朝鮮人であると推測した崔南善執筆した歴史教科書中等国史』(1947年)は、「(古朝鮮西方から二千百年ほど前に長らく中国暮らし中国人性格をよく知る衛満という人物戻ってきたので、朝鮮では中国人に関する問題彼に担当させた」とし、衛満は本来、古朝鮮出身であったが、燕に居住し再度故国戻り、王となった理解している。同じ崔南善執筆した高等国史』(1957年)は、衛満を「燕に行き役人となっていた」とし、『国史』(1962年)でも衛満を「長期間燕で居住し中国人性格をよく知る」人物として描いている。衛満古朝鮮出身とすることによって、衛氏朝鮮を『国史』に位置づけようとしたものとおもわれる韓国民族文化大百科事典は、「衛満朝鮮入国する際に、『髷を結い朝鮮服着た(魋結蠻夷服)』と描写されており、国号そのまま朝鮮としたことから朝鮮人の子孫と思われる」と述べている。 歴史評論家の春日は、朝鮮総連機関紙朝鮮新報』において「その昔古朝鮮に魏満(ウィマン)という人物がいて、燕の国が強大になるとそこへ移り、燕が匈奴きょうど)に圧迫されると、再び古朝鮮戻ったりした。魏満は古朝鮮準王取り入って信任を得ると、機会狙って政変起こし準王追放して王座奪った。そこで南方逃れた準王は、韓という国で王になった」と述べており、衛満はもともとは古朝鮮出身であり、その後燕に移住し、燕で暮らしていたが、再度古朝鮮戻ってきたと主張している。 김용만は、「かつて日本人は、衛満中国移民だと思って衛氏朝鮮中国植民地政権といって朝鮮の歴史無関係であると主張した。しかし、ペルーの元大統領フジモリ日本出身だからといってペルーの歴史日本の歴史ならないように、仮に衛満異民族出身であったとしても、衛満治めた古朝鮮他国歴史になるのではない」と述べている。 韓国では衛満が髷を結い野蛮人服装着用して亡命したことをもって古朝鮮系と解釈するのは根拠不足という批判もあり、古朝鮮亡命する際に装い変えたこと自体それ以前そのような髪形服装をしていなかった証拠であり、衛満原住民髪形服装装ったのは、古朝鮮文化風習受け入れることにより、原住民警戒解いて安堵与え好感与えるためであり、政治的行為の際に外国人原住民装うことは珍しいことではなく衛満同時代南越国建国した趙佗衛満同様に外部者が王になった事例であるが、記録によると趙佗明らかな漢人であるにも関わらず、髷を結っていた。趙佗事例からも出自漢人であっても必要に応じて異民族髪形服装装うことを知ることができる。また、衛満匈奴亡命した盧綰従わず古朝鮮亡命したが、過去に燕が古朝鮮領域征服領域併合した事実勘案すれば、衛満が自らの血縁導かれて古朝鮮亡命した可能性残されているが、推定推定重ねた証明しようのない不確実な根拠基づいて、衛満の出自に意味を付与する要はないという指摘がある。 金翰奎(朝鮮語: 김한규、西江大学)は、「髷結」は朝鮮人だけの風俗ではなく南越国中国にも同様の風俗があり、「蛮夷服」も古朝鮮の服を意味しないため、衛満古朝鮮系と解釈するのは無理であると述べている。 甘懐真中国語版)(国立台湾大学)は、衛満は『史記』に「朝鮮王満」とあり、名のみ「満」と記し、姓が記されていないことから、中国人ではなく朝鮮人であるという推測は、あまりにも粗雑な推測であり、全く根拠がないと評している。 『史記』で衛満言及している箇所二つあり、一つは『史記朝鮮伝であり、もう一つは『史記太史公自序である。『史記全体スタイルとして「某王名」は一種通例的な呼称原則であり、例えば、秦の始皇帝(姓は嬴、氏は趙、諱は政)は「秦王政」と記されている。その他にも、戦国時代の趙の「趙王遷(姓は嬴、氏は趙、諱は遷)」、戦国時代の韓の「韓王安(姓は姫、氏は韓、諱は安)」など多数事例があり、漢の諸侯王も「韓王信(姓は姫、氏は韓、諱は信)」のように「某王名」と記するのが通例である。また、前漢呉王の劉濞は「呉王濞」と記され、「呉王濞」は『史記』呉王濞列伝として列伝タイトルにもなっている。また、燕太子丹」および「信陵君無忌」などの呼称もあるが、これらの人物には姓がないと主張する研究者はいない。したがって、「朝鮮王満」という記録だけで姓がないと結論付けることはできず、また、史記太史公自序は、簡潔に省略しているため推論適さず、そうでないなら『史記太史公自序登場する燕丹(姓は姫、諱は丹)」も姓がないと主張すべきである戦国時代末期から漢代初期は、伝統的な中国の名前の体系成立しておらず、後世みられる漢人漢姓漢名制度は、時代的変化し形成される段階にあった一つの姓と一つの名を明確にした漢姓漢名制度体系確立するのは、後代になってからであり、その普及は両漢時代になってからであり、戦国時代末期から漢代初期の時代は、姓の有無から中国人と非中国人識別することができない中国の秦および漢の郡県区域統一された一体のものではなかった。それ故中国全土で名前の体系統一図られた。中国の秦および漢の郡県区域統一された一体のものではないことから複数文化圏存在し各地域で名前の体系差異発展も様々であった。さらに、燕と朝鮮朝鮮半島北西部)は、戦国時代から前漢時代まで同一文化圏属しており、この地域出身者である衛満朝鮮人結論付けて意味がない甘懐真中国語版)(国立台湾大学)は、衛満集団が「魋結,蠻夷服」すなわち、蛮族服飾変装したのは、漢朝主導する天下」から脱却し衛満集団アイデンティティ変更する決意をしたと推察しており、アイデンティティを「東夷化」することで朝鮮王である準王信頼得た。したがって衛満には、二重の性格があり、一つアイデンティティを「東夷化」することで、朝鮮王によって朝鮮の地域首長として冊封された。二つは、衛満は「中国人」というステータスにより、「中国亡命者」との関係を築くことができた。この二面性衛氏朝鮮成功理由である。 金柄憲朝鮮語版)(朝鮮語: 김병헌、成均館大学)は、「夷」を韓民族とみなすことはできない指摘しており、「夷」を古朝鮮解釈するのは無理な接合であるが、「蛮夷」を古朝鮮解釈するのはさらに無理な論理であり、「夷」や「蛮夷」とは、中国辺境異民族卑下した蔑称であり、「南蛮」「北狄」「東夷」「西戎」と称することからも分かるように、「夷」とは東方異民族を、「蛮夷」とは南方東方異民族同時に指す字句であり、『爾雅』には「九夷,八狄,七戎,六蠻,謂之四海。」とあり、孫炎(中国語版)は「海之言晦,晦闇於禮義也(海とは、晦(くらい)ということであり、文明の光の届かないところ)」と解釈し東方9つの夷、北方8つの狄、西方7つの戎、南方6つの蛮の野蛮人の住地であるというのが『爾雅』のいう四海中国語版)であり、中国では東夷西戎南蛮北狄指し四海は「東西南北四方文明知らない野蛮な部族」を指す用語で使用され国史編纂委員会データベースは、「胡服」も「野蛮人服装」と解釈しているが、「夷服」「蛮夷服」をすべて「野蛮人の服」と解釈し、さらに「古朝鮮の服」と再解釈したので、「胡服」も同様に解釈したものとみられるが、中国史書は、衛満を「夷服」「蛮夷服」「胡服」を着用した野蛮人描写しており、韓国人が「夷」「蛮」「胡」を無批判古朝鮮同一視することにより、野蛮な部族であることを自ら自任していると指摘している。 宇山卓栄は、「箕子朝鮮続き紀元前195年頃、衛氏朝鮮建国されました。都は箕子同じく、王険城(現在の平壌)に置かれました。やはり、この衛氏もまた、中国人です。このように中国人支配者が続くのは朝鮮人に、国を運営する能力ノウハウがなかったからだと言う他にありません。衛氏朝鮮は燕の出身武将衛満によって建国されます。燕は、現在の北京中心とする中国東北部地域です。劉邦前漢王朝の成立に伴い、彼らの勢力対立していた燕の人々を、衛満率いて朝鮮亡命しました」「中国支配否定する韓国衛満鉄製武器武装し、その軍隊優れた機能統制兼ね備えていたので、朝鮮人はほとんど対抗できませんでした。高度な文明擁していた中国人にとって、朝鮮人屈服させるのは難しいことではなかったでしょう箕子朝鮮実在未だ確定されていないのに対し衛氏朝鮮実在確定されています。そのため、現在の韓国中国人起源箕子朝鮮否定しても、同じく中国人起源衛氏朝鮮否定できず、中国人古朝鮮支配していたという実態結局覆い隠すことができません。それでも、かつては衛満朝鮮人であるという無理矢理理屈でっち上げいました衛満朝鮮入った時、髷を結い朝鮮の服を着ていたことから、衛満朝鮮人推定でき、朝鮮人である衛満中国の燕に滞在し朝鮮帰って来て国をつくった説明されいました韓国学校でも、1990年代までそのように教えられいました」と述べている。 豊田隆雄 は、「燕人の衛満は、王と行動共にすることなく、兵とともに朝鮮亡命する道を選んだ当時朝鮮治めていたのは、建国の父檀君君主の座を譲った伝説上は)箕子の子孫・準王だった。彼は衛満歓迎し博士官職土地100里を与え辺境警備任せた。ところが、である。紀元前194年亡命してきた中国人糾合して力をつけた衛満は、準王攻撃して追放し、国を奪ってしまう。まさに恩を仇で返す所業である。彼は王倹城(現在の平壌)に新たな都を定め王朝打ち立てる。これが『衛氏朝鮮』の始まりだ。つまり、朝鮮初の国家中国からの亡命者によって建国されたことになる。司馬遷の『史記朝鮮列伝にも『朝鮮王満者、故燕人也』とはっきりと記されている。ところが韓国歴史学者中には衛満中国人ではなく燕に住んでいた朝鮮人だと主張する者も多い。『史記』にある『髷結蛮夷服而東出塞』の一文、すなわち『髷を結い蛮夷の服を着て東に逃れた』という部分根拠にしているのだろうが、髷が朝鮮族だけのものとするのは無理がある。『三国志魏書』にも同じよう記述があり、そこには『燕人衛満亡命、為胡服』とある。胡服朝鮮服考えるのには無理があり、やはり衛満朝鮮亡命した中国人であろう亡命者衛満があっさりと朝鮮支配できたのは、当時まだ青銅器文化だったところへ鉄器文化持ち込んだからだといわれる。『歴史初め登場する政権が、他国からの亡命者によって建てられた』という事実は韓国人にとっては辛い現実である。彼らが日本ことさらに漢字伝えてやった』『仏教伝来させた』と主張するのは、常に民族的なアイデンティティー危機晒されてきたことの裏返しといえるだろう」と評している。 中国史料に記録されている衛満は燕から亡命した漢人であり、衛氏朝鮮中国人建国した植民地政権みなされている。韓国学者には、衛満漢人であることを否認し衛氏朝鮮中国人による植民地政権であることを批判する人がいる。 衛満は燕人ではなく朝鮮人である。衛満が民を率いて朝鮮亡命した時、「髷を結い蛮夷の服を着たということから、衛満朝鮮人であることがわかる。準王衛満信頼して西部国境警備させたのは、衛満朝鮮人だからである。 衛満準王追放し権力を掌握した後も「朝鮮」の国号使い続けている。 衛満率いた1000余人朝鮮人である。衛満率いられ朝鮮亡命した民は皆蛮夷の服を身にまとい、髷を結っていた。衛満西部国境警備している間に組織した勢力東夷族である。 衛氏朝鮮政権では、朝鮮相や歴谿卿をはじめ、多く朝鮮先住民政権高官として任用した。 大同江流域一帯発掘調査では、衛氏朝鮮時代にふさわしい支石墓群が発掘されている。 一方韓国学者尹乃鉉朝鮮語版)(朝鮮語: 윤내현、檀国大学)は、衛満は燕から亡命した漢人であり、衛氏朝鮮中国人建国した植民地政権であると主張しており、上記主張に対して以下のように反論している。 古代には、髷結は朝鮮人だけのいでたちではなく丙燾(朝鮮語版)は、南越人にも髷結の風習があったことを著書述べている。すなわち、『史記』酈生陸賈列伝に「陸生至,尉他魋結箕倨見陸生。」という記録があり、劉邦陸生陸賈)を南越国遣わすと、南越王の尉他(趙佗)は「髷結」のいでたちで、傲慢に両足投げ出して座ったまま陸生謁見したとある。また、秦の始皇帝の陵から出土した兵馬俑にも髷結の者が多数いる。また、衛満着ていた蛮夷服は必ずしも朝鮮衣服ではなため、衛満朝鮮人断定することは難しい。 盧綰謀反失敗し匈奴亡命したが、衛満盧綰に従って北方逃亡せずに、むしろ多くの民を率いて東走し、箕子朝鮮亡命したことは、衛満古朝鮮ついてよ理解し十分に把握していたことが窺われる衛満漢人であれ朝鮮人であれ、中国燕国長く居住し、その境地朝鮮つながっているため、朝鮮風習情勢ついてよ理解しており、何よりも箕子朝鮮支配者中国殷王朝の子孫であることを知っていた。 『史記朝鮮列伝は、衛氏朝鮮国家運営者として、路人韓陰、参、王唊の名前が列挙されている。このうち先住民である参を除く、路人韓陰王唊はすべて漢人である。『史記』は、路人漁陽県出身であることを明らかにしており、「路」姓の漢人多く路人中国から朝鮮移民した漢人である。韓陰王唊の「韓」姓と「王」姓は中国でよくみられる姓であり、ともに漢人である可能性が高い。参は、姓のない先住民名であり、参が先住民であることが分かる。参が衛氏朝鮮王から重用されたのは、おそらく支配者先住民勢力ある種妥協、あるいは原始的な部族長社会名残である可能性がある。 『三国志』には、衛満朝鮮亡命後準王信任得て西部国境100里の警備任され「博士」として封じられたという記録がある。その背景には、準王祖先である箕子はもともと殷王朝の子孫であり、殷周革命時に朝鮮流転し国家建国した。その後中国実力国土奪い合う弱肉強食春秋戦国時代突入し、燕と箕子朝鮮との間には多く葛藤生じるようになり、燕の将軍である秦開遼東経略した影響朝鮮にも波及したその後、秦が中国統一すると、その勢力はすぐに朝鮮半島の西境まで発展し箕子朝鮮大きな圧力受けたこのような状況は秦滅亡後、漢が勃興するまで継続したが、やがて衛満箕子朝鮮投身し、衛満前漢から来帰したことをみた準王は、必然的に同族意識をもった。そのため、衛満準王からの共感信頼を得るのは容易であり、前漢侵略から西部国境警備する任務に就くことが許され西部国境警備任じただけでなく、衛満「博士」として封じた衛満は、西部国境警備するだけでなく、職権乱用し、燕および斉からの亡命者先住民の力を結集することによる権勢発揮は、準王衛満への過信よるものである。その勢力伸張し衛満は、前漢攻めてきたと詐称して準王護るという口実王都乗りこんだが、準王衛満過信していたため、防備をしておらず、衛満反乱順調におこなわれた田中俊明は、「燕人滿が建国したのが衛氏朝鮮衛滿朝鮮)である。滿は、漢帝国のなかの燕王盧綰仕えていたが、前一九五年、盧綰匈奴亡命し燕國瓦解したあと、滿は徒党率いて東走し、燕・齊からの亡命者たち従えて王となり、王險城に都した。王險城は、現在の平壤である。魋結については、白鳥庫吉によれば、『魋結即ち椎髻といふのは頭上束ねた頭髪の形が即ちの形に類似する所から其の名を得た』『椎髻といふのは元来顔師古の注にもある如く頭髪頂上圓く束ねて頭のように結ぶに因つて得た名であり、弁髪はまま編髪とも繩髪とも索頭ともいひ、頭髪を繩の如く編むによつて得た名に相違ない。だから椎髻弁髪とは自ら別個のもので必し同一のものではない』として、南越匈奴みられる調髪法であるとしている」と指摘している。 衛満衛氏朝鮮建国する過程において、中国からの移民が最も重要な勢力基盤であったが、衛満征服者として古朝鮮君臨したではなく衛満が「朝鮮」という国名維持したのは、既存古朝鮮土着勢力包摂するためであり、衛満建国した古朝鮮中国からの移民古朝鮮土着勢力協同する連合政治体であったとする見解もある。いずれにせよ、『史記』『塩鉄論『漢書』『三国志』など多数史書衛満前漢時代に燕から亡命した伝えていることから、少なくとも衛満は燕に居住し、燕の文化成長した人物であることは確実である。

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