菅江真澄の記録
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菅江真澄は1802年に素波里神社を訪れ、その内容を『しげき山本』に記している。真澄が神社につくと「青黒山」と書いた額があった。鉄製の小さな剣が神社の梁に隙間無く並べられていた。不動の滝に行くと滝の奥にも道があって3人の男が歩いていった。神社に戻り、川をさかのぼって来た舟に乗せてもらい「すばり」という迫りたつ岩の間を進んだ。岩は高くそびえ、淵は青く深かったが、水は底まで澄んで透き通り清らかだった。なお進むと、岩壁がますます迫ってきて、桃源郷を訪れたような気分になったと記している。その後、雷鳴が鳴り響いて来たので舟は引き返している。
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菅江真澄の記録
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菅江真澄は随筆、ふでのまにまにで露熊山峡のことを記録している。 阿仁荘に露隈山という岩山がある。春秋はことに面白い山であるが、滝があったり、川の流れがあればさらにはっとするような場所だろう。ただ細い谷川の水が草に隠れて流れ、音さえ聞こえない。昔、マタギが犬を連れて白熊を追っていたが、熊は神だったのだろうか、空を飛んで行方が知れなくなり、マタギと犬は息絶えて死んだ。それが立ちながらにして石になったという。(中略)この山には笠をかぶったマタギの姿をしている岩が立っている。戈鐇(ほこたつぎ)や世多(セタ 狩猟犬のマタギ言葉)もあったが、今は砕けたということである。白熊を露熊というのは山の名前に負っている。 この文章の後に、露熊山の奥に仏形岩が2・3柱あり、その奥に伏影という村があるとかいているが、場所を誤っている可能性が高い。
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菅江真澄の記録
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菅江真澄は随筆、『ふでのまにまに』で老犬神社を記録している。しかし、記述された鉄の雪𨂻を奉納する風習は現在は無く、また近くの三哲神社には下駄を奉納する風習がある。 十二所のごく近いところに葛原という村がある。そこに祀られている老犬大明神という神がいる。なか昔の頃、ある人の家に養っている老犬がいた。その家の主人が坂道で転んで、雪𨂻の片足を谷に落としてしまった。見えなくなったので、どうしようもなく憂いて家に帰った。次の日、犬が雪𨂻をくわえて走って来る。若勢らがこれを見て、誰の履物だそれ打てと言い、鋤や鍬を投げて殺してしまった。その犬が持ってきた履物は昨日家の主が失った雪𨂻であった。主人の履物を持ってきてうれしいと帰ってくるのを、何の考えもなく打ち殺したので、人間に憑いてこの犬の祟りがあるのではと、神として祀り、老犬明神として奉納したが、今は観世音菩薩を安置し祀っている。願いがある人は、鉄の雪𨂻を鍛冶屋に打たせて、大声で犬を鎮めて参拝するという。この老犬神の御前で、まだ疱瘡にかかっていない子供を連れてきて、社に多くある鉄の雪𨂻の片足を神から借りてきて、痘瘡が顔に発生すれば鉄の雪𨂻を片足作らせ、これを一足として老犬明神に返すという。
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菅江真澄の記録
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菅江真澄は1802年3月12日、太良鉱山を訪れた。13日朝早く出かけると精錬所の多くの人が集まり作業を行い、女達が作業歌を歌っていた。当時、八百八口と言われるほど多くの数の鉱口があり、山にも谷にも蜂の巣のように鉱道があることを記録している。15日太良鉱山東方一里にある箭櫃(やびつ)鉱山に行こうと台所沢を登った。箭櫃鉱山にも600-700もの鉱口がありここでも作業をする女性の声が水音と共に響いていた。4月8日愛宕山にある堂に詣る人々に混じって真澄も川を渡り山をよじ登って堂を参拝した。ここには、大同年間の鰐口があったとするが、盗人に持ち去られたとしている。この後、真澄は水無沼を通り川を下り、別の地区を探索した後、6月15日に再度太良鉱山を訪れる。18日わずかな足跡をたどり藤琴川を更にさかのぼる。白石沢と黒石沢の合流部から、番楽の沢をわけいり薬師山に登る。ここからは、多くの炭焼きの煙が見え、森吉山も望むことができた。
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菅江真澄の記録
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「高岩神社 (能代市)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説
菅江真澄は1802年この地を訪れ、詳細に記録を残している。「鳥居をくぐると、ひしひしと立つ大岩の姿は、中国の大河を描いた有名な絵画を見るのと等しかった」とか「仰ぎ見ると、吉野の金の御岳をわけのぼるのとおなじようであった」、「五輪台という麓のあたりには、密乗寺、如来寺、薬師寺、観音寺、法性寺という。五の寺のおさえる密乗寺は最も大なりしかど…」などと『しげき山本』に記している。 菅江真澄は高岩山の絵図を2枚残している。『二ツ井町史』によると、菅江真澄が描いた当時の樹木の樹齢はおよそ40~50年程度だとしている。また高岩神社周辺の樹木は、1960年代前半に伐採されたともしている。また、菅江真澄は高岩山にまつわる物語も記録している。権現岩(権現の窟)の中に納められている、斧作りの獅子頭の言われも記録していて、次の通りである。 仲昔の頃、陀比良(太良・たひら)という所の山奥に、春木を伐採する若者が沢山出かけ山泊まりして暮らしていた。夜になると、仕事が無いので大木の切り株を斧で獅子の頭に造った。それに、布きんや自分の着物で工夫して獅子舞の獅子頭にこしらえ、それをかぶって舞い始めた。側の者が竹を切って笛を造って吹き始め、飯筒を叩いて鼓として、歌を知っている者は歌って、皆それぞれに遊んでいるのが毎夜続いた。仕事が終わり、大急ぎで下山すると獅子頭はそのままうち捨てられたままだった。家に帰った男達はその夜から大熱を出し、物に憑かれたように早口で皆同じ事を言う。「どうして自分ばかりを山に捨てて行ったのか。雨にも濡れ、露にも濡れて大変な目にあっているぞよ」家の人々は皆驚き、いたこ女に弓を引かせて伺うと、いたこも同じ事を恐ろしげに言う。大勢で太良の山に行き、獅子頭を持ってきてこの窟におさめ修験様に祈ってもらうと、若者達の熱は直ったということである。
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菅江真澄の記録
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菅江真澄は1802年(享和2年)12月十二所に着いて、三哲山と三哲神社の記録を残している。 20日雪が降り続いていたが、今日は晴れたので出発して十二所に着いた。左手に神明社があった。道の途中にある平内という村は、雪がとても深い。どんどん行くと、一本杉の神がいる。ここは八頭権現と言って、淤加美神を祭っている。しばらく行くと、道の右手に雪が降り積もる小松原がある。これも神明宮を祭っている。里のそばの餌取が住んでいるかたわらに、高い丘があって、愛宕の神の祠がある。里中の高岨には十二天という小さな社がある。それゆえに十二所と言うのだろうが。また、天文(1532-55)年間に比内浅利氏の知行地で三千五千刈の税を受けた十二所信濃某という人が住んでいたとか。そのための里の名かも知れない。 ここは、蝦夷が森という高山の麓で、陸奥花輪、毛馬内などという地方にも関所があるが近い所である。この蝦夷が森の落窪(床が低くなっている部屋)と見える所に、雪が降り積もる神社がある。ここは、慶安(1648-52)、承応(1652-55)の昔に、陸奥の九戸の近辺から、いずれかにさまよう人々がいたが、千葉上総之介某という武士も十二所に住んだ。常に立派な行いだけを行って、考えも確かであったが、人情深く、正直なことは竹のようであった。医師となって三徹という。三徹が薬を与えるのに、その効果が無いことはなかった。いつも一本歯の木の下駄を履き、夏冬と言わず大滝温泉に来て、毎日入浴して帰るなど、世の中の人とは異なる行為をしていた。移り気な人であるという人もいた。 ある年の秋、不作になって世の中がうまくいかず、人々皆憂いた。10月の中頃、三徹は大滝村に来て、物成(税)として、租税の米を馬に負わせ、まだら雪を踏み十二所に運ぶ路を避けきれず連なって進むのを、三徹は声を大きくして「城主の命令でないと止まらないのか。ここに止まれ」と言って、みな止めさせ、自分の手で証文を取り、止めた米を貧しい人に与えた。私は一人罪を受けると言った。まるで、汲黯が主人の命令を取り下げ、河内の倉を開いて、貧しい民に栗を与えて、里を活気あるようにしたのと同じで、馬鹿な人の行為ではない。遂に捕縛されて、牢に入れられ、殺された。死に際に、私の命が亡くなったら、屍体は蝦夷が森に埋めてくれと言い残した。その言葉を守った人の送り塚だという。荒ぶる神となってたたりがあったら、そこに社を建ててくれと言い、三徹の御霊とあがめ敬い、病がある人は必ずその山に登って、山で精進をした。「私は病気治癒を祈れば、速やかに結果が得られるだろう。」水無月の17日は、三哲が死んだ日でなので、人が多く参拝するという。
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菅江真澄の記録
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「薬師山 (八峰町)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説
菅江真澄は1807年(文化4年)、白瀑神社の白瀑の近くの崖を登り、薬師山の神社に参拝した。このとき、山の中腹には大きな鐘がかかっており、ここに来た人はこの鐘を突くことを記録している。つづら折りの登山道の途中にはオオタチツボスミレやサクラスミレなど多くの種類のスミレがあり、これを絵にしようと真澄は花を摘み取った。このとき摘み取ったスミレの絵を真澄は『無題雑葉集』に記録している。 山頂にたどりつくと、母爺大権現という破れかけた堂があり、中には薬師仏が安置されていた。真澄は山頂から見える周囲の風景や、むかし堂があったとされる石畳、円仁が岩をはらい香を焚いて祈祷したとする香炷石、いのりの池という大蛇が住むという大きな池(その時は干上がって水がわずかしか無かった)などを記録している。
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菅江真澄の記録
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菅江真澄は1807年(文化4年)3月25日に大柄の滝を訪れた。下滝を見て「滝はささやかであるが、岩の姿は面白い」としている。ホトトギスの声が山彦になって響き渡っていた。上滝には下滝への道の途中から柴につかまって崖を登り、真木の平というところに登り、さらに深い谷底に降りた。滝の下には、石の不動明王があった。真澄は、岩屋の中はたいへん大きく千人ばかりも隠れることができそうだとしている。
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菅江真澄の記録
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「本館城 (出羽国)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説
菅江真澄は1807年(文化4年)に湯沢(八森)の医師・細田正興に案内され元館(本館)という村に花見に出かけた。「甲斐国に戦乱があったころ、この辺に逃れてきて城柵を構え、のち、ここは便宜が悪いといって母爺(もや)の麓に住んだ武田重右衛門尉は、百姓たちの計略におちいり滅んだが、はじめここにおったので、旧館の名があるのだろう。その家臣という山ノ内和平治某の子孫が今でも住んでいる」としている。また菅江真澄は松源院に入り、武田重右衛門尉の位牌を見て「大檀那万昌院殿青山玄心大居士」という戒名を記録し、武田の悲運を偲んで涙を流した。
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菅江真澄の記録
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空素沼の前名の狼ヶ沢は、菅江真澄は『水の面影』(1812年〈文化9年〉)に「生根(おひね)ガ沢」として説明をしている。 左の方に、生根(おいね)が沢という広い池がある。ここは近ごろ、雨がないのに岸が崩れ、水をたたえるようになった。十年前に亡くなった、六十歳の老女の物語に、「私が十三歳の頃、その田へ昼飯を持って行った事を覚えている。一枚余りの田がたちまち大池となったというので、大勢で見に行った。田は、私の父が作った田だからよく知っている。木の根っ子のようなものが、水底にあるために生根といい。米粒がこぼれ落ち、稲が生えたこともあるので、生稲が沢という」と言った。この生稲ノ池の水が満ち満ちていた時の深さは推し量ることが出来ないようになった。今は湖のようで、魚も数多く、鴨(かも)は餌をさがし、鳰(かいつぶり)も浮巣を作っており、水が広々と見えた。 また「生稲が沢の池のもとにふたたび出た。ある人は長い年月の以前の田書に記載されていたのは、この池はもともと寺内の民家平兵衛、彦右衛門という両人が作った田であるという。このことは前に書いたが、詳細に再度書く」と記載している。
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菅江真澄の記録
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1804年(文化7年)菅江真澄は蓮沼の付近を通りそれを『男鹿の秋風』に書いている。 11日、ひなたながね(日向山)、右に大曲の部落、あるいは萱刈沢の村を見ながら蓮沼という湖のような大池の岸に出た。名にいうその蓮はまったく見えず、勝又の池のようだと独り言をしながら、案内の赤黒い口ひげがむくむくとした男に尋ねると「蓮はあそこに生えています。ごらんなさい。山の人というあやしげなものが来てかけわたした土橋があります」という。そして葦の生え茂っているなかに見え隠れに鴨が群れ、餌をあさっているのを煙る煙管を差し伸べて「あれだ」と教えた。この野路は他の草は全く無く、イグサという草ばかりが生え茂り。青むしろを踏んでいく心地がした。この草をまぐさに刈る童がおり、また浜の田を刈る女性がいた。
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菅江真澄の記録
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「湯の沢温泉 (北秋田市)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説
1802年(享和2年)菅江真澄は『雪の秋田寝』で森吉山を登った後、白糸の滝を見ようと12月5日湯の岱を訪れた時の事を記録している。そのとき、湯の岱には家が2・3軒あることを記録している。真澄は、児童がハシバミの実をかむ音を碁を打つ音だと勘違いした。次の日の朝は、吹雪のため床もふすまも真っ白になった。 次の日に白糸の滝を見て「高い山かたら岩を二つ貫いて滝が落ちている。黒い岩面に白い糸すじになっている。周囲には桜の木なども多く、春秋は沢山の人が来るように思える」としている。真澄は滝の上にあるという硯石を探そうとしたが、深い雪でそれはかなわなかった。 1803年(享和3年)8月2日菅江真澄は『秀酒企乃溫濤』で、今度は砂子沢峠を越えて白糸の滝を訪れる。「…去年見た滝と違って白い布を翻して落ちるよう、山風に吹かれる様子が良い。あちこちから雲霧にこめられた滝の落水を濡れながら眺めた」と記している。真澄は川の淵に戻り「機織淵」の伝説を記録する。それは「水底が広い場所があり、そこでは機を織る女が住んでいて、その織姫を水神としている。夜更けにこの淵に立つと、その姫が機を織る音が水底から聞こえる。」というものであった。その後、真澄は湯の沢温泉に到着する。えごの木が咲き、草花が混じる道をかき分けて沢の奥の温泉に行く。そこには20ばかりの湯の館(真澄の絵では、湯船に屋根をかけた程度のもの)があったとしている。真澄はそこを「小股の湯」と記録している。真澄は、湯は極めてぬるいく、そこで宿泊する者はまれだと記している。真澄は入湯後、舟で機織淵を過ぎ湯の岱の民家に宿泊した。今度も雨で水かさが増し硯石を手に入れることはできなかった。 実際に地元で硯岱と呼ばれている場所は、小又川を東の方向に少しさかのぼったあたりで、古くから川底にある黒くて硬い頁岩で、木の葉の化石が混じった硯が作られていた。菅江真澄は後年、現物を見て「花紋石」として絵図に記録している。(『雪の秋田寝』)
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菅江真澄の記録
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「茂谷山 (能代市)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説
菅江真澄は1806年(文化3年)に、『霞む月星』で知人らと連れだってこの山に登った時のことを記録している。菅江真澄「もやは丘ではなく、たいそう高くひとつだけそびえている山をいうのであろう。靄とは雲・霞・霧・微雨をすべて含む方言であった」として「もやの名は松前・津軽にもあり、秋田路では八森の浦にもある」として、八峰町の母谷山のことを指摘している。 真澄が頂上につくとそこは窪地になっており、石室の内に薬師仏が据えられていた。頂上からは、東に森吉山、西に男鹿の島山(男鹿半島)、白神岳、馬背内などの山々が雪をいただき、真白に連なっていたが、風が凍るような寒さで吹き渡っていたので、真澄たちは下山することにした。
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菅江真澄の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/04 14:02 UTC 版)
菅江真澄は文化元年(1804年)にこの地を訪ね、日記の『阿仁迺澤水』中に、同碑の遠景・近景・文字の拡大図の合計3枚の図絵を記録している。その説明文には「川合村松石の碑」「そのいしふみは川合村のつかはらのほとりにいまたつ」「えんけいのふたつの文字を摺り、己酉とある(「一」の下に「八」、その下に「目」の字)は六朝のものにして、すかたたへなる筆のあとなり」と記している。 なお、近景の図絵には「実ハ川井村ナリ真澄ガ後事ニ因テ井ヲ合ト書キ換ヒタルナリ此村ハ大阿仁ノ内ナリ」と朱書きされており、これは石井忠行によるものではないかとされる。実際に真澄は同様の言葉遊びを何度も行っている。現在の碑のそばにはケヤキの大木があるが、真澄の絵図の中では全く描かれておれず、江戸時代には碑は別の場所にあったのではないかとも言われる。また、昭和時代中頃まで「秋田県で最も古い紀年板碑」とされていて、川井村の自慢でもあったと言われる。
※この「菅江真澄の記録」の解説は、「川井延慶碑」の解説の一部です。
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