菅江真澄の記録とは? わかりやすく解説

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 18:46 UTC 版)

素波里神社」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄1802年素波里神社訪れその内容を『しげき山本』に記している。真澄神社につくと「青黒山」と書いた額があった。鉄製小さな剣が神社隙間無く並べられていた。不動の滝に行くと滝の奥にも道があって3人の男が歩いていった。神社戻り、川をさかのぼって来た舟に乗せてもらい「すばり」という迫りたつ岩の間進んだ。岩は高くそびえ、淵は青く深かったが、は底まで澄んで透き通り清らかだった。なお進むと、岩壁がますます迫ってきて、桃源郷訪れたような気分になった記している。その後雷鳴鳴り響いて来たので舟は引き返している。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 17:23 UTC 版)

露熊山峡」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄随筆、ふでのまにまに露熊山峡のことを記録している。 阿仁荘に露隈山という岩山がある。春秋はことに面白い山であるが、滝があったり、川の流れがあればさらにはっとするような場所だろう。ただ細い谷川隠れて流れ音さ聞こえない。昔、マタギ連れて白熊追っていたが、熊は神だったのだろうか、空を飛んで行方知れなくなりマタギは息絶えて死んだ。それが立ちながらにして石になったという。(中略)この山には笠をかぶったマタギの姿をしている岩が立っている。戈鐇(ほこたつぎ)や世多(セタ 狩猟犬マタギ言葉)もあったが、今は砕けたということである。白熊を露熊というのは山の名前負っている。 この文章の後に、露熊山の奥に仏形岩が2・3あり、その奥に伏影というがあるとかいているが、場所を誤っている可能性が高い。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:14 UTC 版)

老犬神社」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄随筆、『ふでのまにまに』で老犬神社記録している。しかし、記述され𨂻奉納する風習は現在は無く、また近く三哲神社には下駄奉納する風習がある。 十二所のごく近いところに葛原というがある。そこに祀られている老犬大明神という神がいる。なか昔の頃、ある人の家に養っている老犬がいた。その家の主人坂道転んで𨂻片足を谷に落としてしまった。見えなくなったので、どうしようもなく憂いて家に帰った次の日、𨂻くわえて走って来る。若勢らがこれを見て、誰の履物だそれ打てと言い、鋤や鍬を投げて殺してしまった。その持ってきた履物昨日家の主が失った𨂻であった主人履物持ってきてうれしいと帰ってくるのを、何の考えもなく打ち殺したので、人間に憑いてこの祟りがあるのではと、神として祀り老犬明神として奉納したが、今は観世音菩薩安置し祀っている。願いがある人は、𨂻鍛冶屋打たせて、大声鎮めて参拝するという。この老犬神の御前で、まだ疱瘡かかっていない子供連れてきて、社に多くある𨂻片足を神から借りてきて、痘瘡が顔に発生すれば𨂻片足作らせ、これを一足として老犬明神返すという。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 14:52 UTC 版)

太良鉱山」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄1802年3月12日太良鉱山訪れた13日早く出かける精錬所多くの人が集まり作業行い女達作業歌歌っていた。当時八百八と言われるほど多くの数の鉱口があり、山にも谷にも蜂の巣のように鉱道があることを記録している。15日太良鉱山東方一里にある箭(やびつ)鉱山行こう台所沢を登った。箭鉱山にも600-700もの鉱口がありここでも作業をする女性の声が水音と共に響いていた。4月8日愛宕山にある堂に詣る人々混じって真澄も川を渡り山をよじ登って堂を参拝した。ここには、大同年間鰐口があったとするが、盗人持ち去られたとしている。この後真澄水無沼を通り川を下り別の地区探索した後、6月15日再度太良鉱山訪れる。18日わずかな足跡をたどり藤琴川を更にさかのぼる。白石沢と黒石沢の合流部から、番楽の沢をわけいり薬師山登るここからは、多く炭焼きの煙見え森吉山も望むことができた。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 00:25 UTC 版)

高岩神社 (能代市)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄1802年この地を訪れ詳細に記録残している。「鳥居をくぐると、ひしひしと立つ大岩の姿は、中国大河描いた有名な絵画を見るのと等しかった」とか「仰ぎ見ると、吉野金の御岳をわけのぼるのとおなじようであった」、「五輪台という麓のあたりには、密乗寺、如来寺薬師寺観音寺法性寺という。五の寺のおさえる密乗寺は最も大なりしかど…」などと『しげき山本』に記している。 菅江真澄高岩山の絵図2枚残している。『二ツ井町史』によると、菅江真澄描いた当時樹木樹齢はおよそ4050年程度だとしている。また高岩神社周辺の樹木は、1960年代前半伐採されともしている。また、菅江真澄高岩山にまつわる物語記録している。権現岩(権現の窟)の中に納められている、斧作り獅子頭言われ記録していて、次の通りである。 仲昔の頃、陀比良(太良・たひら)という所の山奥に、春木伐採する若者が沢山出かけ山泊まりして暮らしていた。夜になると、仕事が無いので大木切り株を斧で獅子の頭に造った。それに、布きんや自分着物工夫して獅子舞獅子頭こしらえ、それをかぶって舞い始めた。側の者が竹を切って笛を造って吹き始め、飯筒を叩いて鼓として、歌を知っている者は歌って、皆それぞれに遊んでいるのが毎夜続いた仕事終わり大急ぎ下山する獅子頭そのままうち捨てられたままだった。家に帰った男達その夜から大熱出し、物に憑かれたように早口で皆同じ事を言う。「どうして自分ばかりを山に捨てて行ったのか。にも濡れ露に濡れて大変なにあっているぞよ」家の人々は皆驚き、いたこ女に弓を引かせて伺うと、いたこも同じ事を恐ろしげに言う。大勢太良の山に行き獅子頭持ってきてこの窟におさめ修験様に祈ってもらうと、若者達の熱は直ったということである。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:49 UTC 版)

三哲神社」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄1802年享和2年12月十二所着いて三哲山三哲神社記録残している。 20日降り続いていたが、今日晴れたので出発して十二所着いた左手神明社があった。道の途中にある平内というは、がとても深い。どんどん行くと、一本杉の神がいる。ここは八頭権現と言って淤加美神祭っている。しばらく行くと、道の右手降り積もる小松原がある。これも神明宮祭っている。里のそばの餌取住んでいるかたわらに、高い丘があって、愛宕の神の祠がある。里中の高岨には十二天という小さな社がある。それゆえ十二所と言うのだろうが。また、天文(1532-55)年間比内浅利氏知行地三千五千刈の税を受けた十二所信濃某という人が住んでいたとか。そのための里の名かも知れない。 ここは、蝦夷という高山の麓で、陸奥花輪毛馬内などという地方にも関所があるが近い所である。この蝦夷落窪(床が低くなっている部屋と見える所に、降り積もる神社がある。ここは、慶安(1648-52)、承応(1652-55)の昔に、陸奥九戸近辺から、いずれかにさまよう人々がいたが、千葉上総之介某という武士十二所住んだ。常に立派な行いだけを行って考えも確かであったが、人情深く正直なことは竹のようであった医師となって三徹という。三徹が与えるのに、その効果が無いことはなかった。いつも一本歯木の下駄を履き、夏冬と言わず大滝温泉来て毎日入浴して帰るなど、世の中の人とは異な行為をしていた。移り気な人であるという人もいた。 ある年の秋、不作になって世の中うまくいかず、人々憂いた。10月中頃、三徹は大滝村来て物成(税)として、租税の米を馬に負わせ、まだら雪踏み十二所に運ぶ路を避けきれず連なって進むのを、三徹は声を大きくして「城主命令でないと止まらないのか。ここに止まれと言って、みな止めさせ、自分の手証文取り止めた米を貧しい人に与えた。私は一人罪を受けると言った。まるで、汲黯主人命令取り下げ河内の倉を開いて貧しい民に与えて、里を活気あるようにしたのと同じで、馬鹿な人の行為ではない。遂に捕縛されて、牢に入れられ殺された。死に際に、私の命が亡くなったら、屍体蝦夷埋めてくれと言い残した。その言葉守った人の送り塚だという。荒ぶる神となってたたりがあったら、そこに社を建ててくれと言い、三徹の御霊とあがめ敬い、病がある人は必ずその山に登って、山で精進をした。「私は病気治癒を祈れば、速やかに結果得られるだろう。」水無月17日は、三哲が死んだ日でなので、人が多く参拝するという。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/28 13:08 UTC 版)

薬師山 (八峰町)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄1807年(文化4年)、白瀑神社の白瀑の近くの崖を登り薬師山神社参拝した。このとき、山の中腹には大きな鐘がかかっており、ここに来た人はこの鐘を突くことを記録している。つづら折り登山道途中にはオオタチツボスミレサクラスミレなど多く種類スミレがあり、これを絵にしようと真澄は花を摘み取った。このとき摘み取ったスミレの絵を真澄は『無題葉集』に記録している。 山頂にたどりつくと、母爺大権現という破れかけた堂があり、中には薬師仏安置されていた。真澄山頂から見え周囲の風景や、むかし堂があったとされる石畳円仁が岩をはらい香を焚いて祈祷したとする香炷石、いのりの池という大蛇が住むという大きな池(その時干上がってがわずかしか無かった)などを記録している。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/10 00:06 UTC 版)

大柄の滝」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄1807年文化4年3月25日大柄の滝訪れた下滝見て「滝はささやかであるが、岩の姿は面白い」としている。ホトトギスの声が山彦になって響き渡っていた。上滝には下滝への道の途中からつかまって崖を登り真木の平というところに登り、さらに深い谷底降りた。滝の下には、石の不動明王があった。真澄は、岩屋の中はたいへん大きく千人ばかりも隠れることができそうだとしている。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 14:46 UTC 版)

本館城 (出羽国)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄1807年文化4年)に湯沢八森)の医師細田正興に案内され元館(本館)という花見に出かけた。「甲斐国戦乱があったころ、この辺逃れてきて城柵構え、のち、ここは便宜が悪いといって母爺(もや)の麓に住んだ武田右衛門尉は、百姓たちの計略おちいり滅んだが、はじめここにおったので、旧館名があるのだろう。その家臣という山ノ内和平治某の子孫が今でも住んでいる」としている。また菅江真澄松源院入り武田右衛門尉位牌見て大檀那万昌院殿青山玄心大居士」という戒名記録し武田悲運偲んで涙を流した

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 15:10 UTC 版)

空素沼」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

空素沼の前名のヶ沢は、菅江真澄は『水の面影』(1812年文化9年〉)に「生根(おひね)ガ沢」として説明をしている。 左の方に、生根(おいね)が沢という広い池がある。ここは近ごろがないのに岸が崩れたたえるようになった十年前亡くなった六十歳老女物語に、「私が十三歳の頃、その田へ昼飯持って行った事を覚えている。一枚余りの田がたちまち大池となったというので、大勢で見に行った。田は、私の父作った田だからよく知っている木の根っ子のようなものが、水底にあるために生根といい。米粒がこぼれ落ち、稲が生えたこともあるので、生稲が沢という」と言った。この生稲ノ池の満ち満ちていた時の深さ推し量ることが出来ないようになった今は湖のようで、数多く(かも)は餌をさがし、かいつぶり)も浮巣作っており、広々と見えた。 また「生稲が沢の池のもとにふたたび出た。ある人は長い年月以前の田書に記載されていたのは、この池はもともと寺内民家兵衛、彦右衛門という両人作った田であるという。このことは前に書いたが、詳細に再度書く」と記載している。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 13:19 UTC 版)

蓮沼 (三種町)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

1804年文化7年菅江真澄蓮沼付近通りそれを『男鹿秋風』に書いている。 11日、ひなたながね(日向山)、右に大曲部落、あるいは刈沢を見ながら蓮沼という湖のような大池の岸に出た。名にいうそのはまった見えず勝又の池のようだ独り言しながら案内赤黒い口ひげむくむくとした男に尋ねると「はあそこに生えてます。ごらんなさい。山の人というあやしげなものが来てかけわたした土橋あります」という。そして葦の生え茂っているなかに見え隠れ群れ、餌をあさっているのを煙る煙管差し伸べて「あれだ」と教えた。この野路は他のは全く無くイグサというばかりが生え茂り青むしろを踏んでいく心地がした。このをまぐさに刈る童がおり、また浜の田を刈る女性がいた。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:11 UTC 版)

湯の沢温泉 (北秋田市)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

1802年享和2年菅江真澄は『秋田寝』で森吉山を登った後、白糸の滝見よう12月5日湯の岱を訪れた時の事を記録している。そのとき、湯の岱には家が2・3軒あることを記録している。真澄は、児童ハシバミの実をかむ音を碁を打つ音だと勘違いした次の日の朝は、吹雪のため床もふすまも真っ白になった。 次の日に白糸の滝見て高い山かたら岩を二つ貫いて滝が落ちている黒い岩面に白い糸すじになっている周囲には桜の木なども多く春秋沢山の人が来るように思える」としている。真澄滝の上にあるという硯石探そうとしたが、深いでそれはかなわなかった。 1803年享和3年8月2日菅江真澄は『秀酒企乃溫濤』で、今度砂子沢峠越えて白糸の滝訪れる。「…去年見た滝と違って白い布を翻して落ちるよう、山風吹かれる様子良いあちこちから雲霧こめられた滝の落水濡れながら眺めた」と記している。真澄は川の淵に戻り機織淵」の伝説記録する。それは「水底が広い場所があり、そこでは機を織る女が住んでいて、その織姫水神としている。夜更けにこの淵に立つと、その姫が機を織る音が水底から聞こえる。」というものであったその後真澄湯の沢温泉到着するえごの木咲き草花混じる道をかき分けて沢の奥の温泉に行く。そこには20ばかりの湯の館(真澄の絵では、湯船屋根をかけた程度のもの)があったとしている。真澄はそこを「小股の湯」と記録している。真澄は、湯は極めてぬるいく、そこで宿泊する者はまれだと記している。真澄入湯後、舟で機織淵を過ぎ湯の岱の民家宿泊した今度水かさ増し硯石手に入れることはできなかった。 実際に地元で硯岱と呼ばれている場所は、小又川を東の方向に少しさかのぼったあたりで、古くから川底にある黒くて硬い頁岩で、木の葉化石混じった硯が作られていた。菅江真澄後年現物見て花紋石」として絵図記録している。(『秋田寝』)

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 03:00 UTC 版)

茂谷山 (能代市)」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄1806年文化3年)に、『月星』で知人らと連れだってこの山に登った時のことを記録している。菅江真澄「もやは丘ではなくたいそう高くひとつだけそびえている山をいうのであろうとは雲・霞微雨をすべて含む方言であった」として「もやの名は松前津軽にもあり、秋田路では八森の浦にもある」として、八峰町母谷山のことを指摘している。 真澄頂上につくとそこは窪地になっており、石室の内に薬師仏据えられていた。頂上からは、東に森吉山、西に男鹿島山(男鹿半島)、白神岳、馬背内などの山々いただき真白連なっていたが、風が凍るような寒さ吹き渡っていたので、真澄たちは下山することにした。

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菅江真澄の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/04 14:02 UTC 版)

川井延慶碑」の記事における「菅江真澄の記録」の解説

菅江真澄文化元年1804年)にこの地を訪ね日記の『阿仁澤水中に、同碑の遠景近景文字拡大図合計3枚図絵記録している。その説明文には「川合村松石の碑」「そのいしふみは川合村つかはらのほとりにいまたつ」「えんけいのふたつの文字摺り己酉とある(「一」の下に「八」、その下に「目」の字)は六朝のものにして、すかたたへなる筆のあとなり」と記している。 なお、近景図絵には「実ハ川井村ナリ真澄後事ニ因テ井ヲ合ト書キ換ヒタルナリ此ハ大阿仁ノ内ナリ」と朱書きされており、これは石井忠行よるものではないかとされる実際に真澄同様の言葉遊び何度も行っている。現在の碑のそばにはケヤキ大木があるが、真澄絵図の中では全く描かれておれず、江戸時代には碑は別の場所にあったではないかとも言われるまた、昭和時代中頃まで「秋田県で最も古い紀年板碑」とされていて、川井村自慢でもあったと言われる

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