菅江真澄と平衛之の妻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 02:14 UTC 版)
菅江真澄は1802年最初の太良鉱山への旅から戻る際に、水無沼のほとりについた。このとき、水無集落には5・6軒の家があり、沼が作られてから50年近くであると記録している。沼には朽ち残っている木の根がまだ多数あり、まるでエサをあさるカモの群れのようだとしている。(この木の根の話は民話にも残されている。かなり後年まで残っていて、阿仁周辺から人を呼び処理をさせたとされる) 沼の周囲に、桜の花や桂の芽、コブシの花、ツツジの花が咲く中、真澄は池のほとりにある家で宴会に参加した。皆が酔っている中、平衛之の妻が現れた。平衛之の妻はそのとき90歳であると言い、津軽藩の鰺ヶ沢町の出身で、20歳になる前にこの地に連れてこられたということを真澄に話し、真澄に酒を勧めた。宴が進み皆が笑顔になっている様子は「すこしひかえて その影見れば こがね花やら 豊にさく」と周囲の花が咲いていることと、皆の顔が酒で赤らんでいることをかけて歌われている。また、真澄は「ももとせの 齢もちかき老の身の 花に楽しく めぐるさかづき」と平衛之の妻のことや、周囲の花のこと、宴会のことをかけて歌っている。この歌は石碑に彫られて現在、水無沼のほとりに置かれている。
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