菅江真澄による記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 13:55 UTC 版)
菅江真澄の『月の出羽路 仙北郡一』にも唐松権現社(本文中では韓松社とも)についての記述があり、神社の起こりについて真澄は、播磨国の韓松山(からまつやま)に比咩神社(ひめがみのみやしろ)という神社があることや、『播磨国風土記』に播磨(針間)の名の起源に息長帯日売命が関連すること上げて、古い時代に播磨国あたりから遷し祀ったのではないかと推測している。また久姫の逸話(後述)から、遠くの国から祈ってもご利益がある出羽一の産霊神(うむすびのかみ)と記している。また那珂通博の『六郡歳時記』を引き、安産の神として六郡外からも参拝者が訪れること、別当修験寺が光雲寺であることなどを述べる。そして那珂通博は唐松権現祭を4月8日としているが、本式神事が行われるのは9月24日であるとし、その日付が神社の北にある地元の人たちが「愛宕山」と呼ぶ愛護権現(あたごごんげん)の山に、現存はしないものの大変古い社があり、かつて地主の神として迦具土神の神社と、韓松姫御神の本宮摂社(もとみやつえだがみ)が同じ場所あるいは相殿で祀られていたものが、現在(真澄が訪れた当時)の場所に遷宮したことに由来するとしている。唐松権現が鎮座している場所も、さほど古いものではなく2~3回遷座しているとしている。迦具土神と神功皇后が合祀されている理由については、ある縁起に三韓征伐に出征する神功皇后の船を守護した栄術太郎(えいじのたろう)が迦具土神の化身だったことに由来すると伝わる異聞を紹介している。 唐松という地名の謂れについては、神社の西北に大変古い時代「黄金松(こがねまつ)」と呼ばれた「唐松」という地名があるが、そこから起こったものか、海松(かいしょう)、朝鮮松(ちょうせんまつ)などが、俗に「唐松」と言われるので、それが山に生えていたからそう名付けたのか、詳しいことはよく分からないとしている。
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