伝説・歴史とは? わかりやすく解説

伝説・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 21:31 UTC 版)

房住山」の記事における「伝説・歴史」の解説

房住山平安時代前期天台山の名前で開かれていた。坂上田村麻呂蝦夷征伐により、長面兄弟征伐戦場となり堂塔崩れるなど大きな被害受けたとされる長面三兄弟の阿計徒丸(あけとまる)、阿計留丸(あけるまる)、阿計志丸(あけしまる)は額からあごの先まで2尺3寸もあり、身長一丈(約3m)あったという。この戦いでは、いくつも伝説近辺地区の地名関連づけられ残されている。ただ、史実では坂上田村麻呂はこの土地到着していない。戦いの後、山は繁栄取り戻し宿坊多く建てられ房住山呼ばれるようになった以後繁栄衰亡繰り返したが、江戸時代初期にはすっかり寂れていた。房住山大幢寺焼けた後は、杉本最勝院だけがとどまって法灯守っていた。しかし、明治になって間もなく廃仏毀釈運動によって修験寺院はすべて廃寺になった今日房住山には寺屋敷という地名だけが残されている。 『房住山昔物語』や『梵字宇山興立記』では、地名伝説が沢山語られている。それは、宗教伝説とからみながら伝説や興立記の中で展開されている。地名伝説では次の地名の由来語られている。長面五城目町、旧山本町)、翁面(沖田面)、中津又(五城目町)、実検長根、幕提坂(供養坂)、幕洗坂、木戸野沢大兄沢、小兄沢、牛が沢、摂待目見平、切はきの平、八面山三種川、扇が滝、聳滝(禅定が滝)、歌橋などの地名の由来語られており、その分布は広範囲渡っている。物語ではこの他に、男鹿市秋田市古四王神社、また奥州藤原氏八峰町道場などの寺院氏族地名登場する江戸時代紀行家、菅江真澄70歳の頃この山に登り、これらの山岳信仰伝説記録した。これは、大幢寺古記そのまま記録したのである秋田県篤農家石川理紀之助1899年にこの山に登り歌を残し、また菅江真澄の記録書籍秋田の昔』に収録印刷した。理紀之助は、1898年に自らの蔵書大量に焼失したことから、郷土古書活字にして残そう出版計画。理紀之助が編輯して発行した秋田のむかし 巻一』には菅江真澄書き写した房住山昔物語』が転載されている。真澄による書写本とはいえ真澄著作活字になったのは、これが最初である。 江戸時代終わり頃の文久元年(1861年)、土地の人が信仰の山観音霊場にしようと勧進にしたがって尾根伝い三十三観音石仏安置した。『房住山三十三観音奉加張』(文久元年四月吉日表紙にある)によると、房住山の麓のである小新(荒)沢の工藤源治発願によって三十三観音像建立しようとしたが、一人財力では不可能なので多くの人の奉加募るようになった分かる記録からは山麓々だけではなく八郎潟西岸鵜ノ木能代からも奉加加わった人がいることが分かる観音像石材男鹿石である。三十三観音以外の8体の「番外」と呼ばれている石仏万延元年建立である。写真にある山頂番外石仏建立年号文久となっているが、本当万延である。 上岩川地区大覚院代々伝承されていたことをまとめ上げた文章に『梵城古伝記』という書があった。この記録元に秋田の隣正院の清淳が文書表現など修正加えて書き上げたのが『房住山古伝記』である。それには次のように記述されている。「房住山大日山とも言い、南は太平山連なり、北は七座山続いているので修行をするのに便利である。おそらく天平の頃に、円静大阿闍梨姓氏名暦不明)が当山開山し、修行霊場とした。中世、源角大徳当山再興したときに、開山円静の4文字刻んだ石碑土中より掘ったという記録伝記見える。翁面(沖田面)に高倉という大施主がいて、彼は当山開創大壇主である。彼に一人の娘がいて、婿を迎えて家督継いでいた。後に高倉長者男子出来たこの子成長する家督継ぎたい望んだ。そこでやむを得ず長者クジ引かせ、婿は分家クジにあたり、米か沢(米内沢)という所に住んだ。里の人は彼を大兄殿と言った実子は翁面に住み小兄殿と言った。翁面の地名の由来は、昔、川西深山に、大樹折れた霊木があった。木こりはそれに注連縄張り付け祀ると、上の注連縄白髪のように、下の注連縄白鬚のように、そして木肌風雨曝され紅白の色をなし、幹はや石のように硬く、節やコブ自然に目鼻口耳の形をして、老翁の面のようになったのを後年の名とした。ある時、一人高僧来てその霊木なるを感じて、切り観音像彫ってそこに祠を建てたはこれによって繁栄した平城天皇の頃だろうか鈴鹿山の賊の残党夜叉鬼大嶽麿(大長丸とも)が人々悩ましていた。坂上田村麻呂夜叉鬼保呂羽山滅ぼして大嶽麿を男鹿の嶺で滅ぼした。なお、その残党探したところ、阿計徒丸(あけとまる)、阿計留丸(あけるまる)、阿計志丸(あけしまる)という兄弟悪鬼がいた…。」

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伝説・歴史

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指南車」の記事における「伝説・歴史」の解説

指南車まつわる伝説として、史書には次のように記されている。 中国国家創立者である黄帝軒轅けんえん)は、崑崙山脈壮大な宮殿住んでいた。一方、同じ時期敵対していた部族長蚩尤は戦上手であり、黄帝領土攻め込んだその際蚩尤人工的に起こし目くらましようとしたが、指南車があることで黄帝方向を見失わず勝利したという。 古代中国においても伝説上のものと考えられたが、張衡馬鈞実際に(おそらく独自に)製作・復元成功した日本では斉明天皇4年658年)と天智天皇5年666年)に製作され記録『日本書紀』見られる江戸時代の『和漢三才図会』にも引用見られる)。10世紀中頃の『和名類聚抄』巻十一記述として、周の成王時に用いられ逸話説明されている。

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