伝説・歴史
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房住山は平安時代前期に天台山の名前で開かれていた。坂上田村麻呂の蝦夷征伐により、長面兄弟征伐の戦場となり堂塔が崩れるなど大きな被害を受けたとされる。長面三兄弟の阿計徒丸(あけとまる)、阿計留丸(あけるまる)、阿計志丸(あけしまる)は額からあごの先まで2尺3寸もあり、身長も一丈(約3m)あったという。この戦いでは、いくつもの伝説が近辺の地区の地名と関連づけられ残されている。ただ、史実では坂上田村麻呂はこの土地に到着していない。戦いの後、山は繁栄を取り戻し宿坊も多く建てられ、房住山と呼ばれるようになった。以後繁栄と衰亡を繰り返したが、江戸時代初期にはすっかり寂れていた。房住山の大幢寺が焼けた後は、杉本房最勝院だけがとどまって法灯を守っていた。しかし、明治になって間もなく廃仏毀釈運動によって修験寺院はすべて廃寺になった。今日房住山には寺屋敷という地名だけが残されている。 『房住山昔物語』や『梵字宇山興立記』では、地名伝説が沢山語られている。それは、宗教伝説とからみながら昔伝説や興立記の中で展開されている。地名伝説では次の地名の由来が語られている。長面(五城目町、旧山本町)、翁面(沖田面)、中津又(五城目町)、実検長根、幕提坂(供養坂)、幕洗坂、木戸野沢、大兄沢、小兄沢、牛が沢、摂待、目見平、切はきの平、八面山、三種川、扇が滝、聳滝(禅定が滝)、歌橋などの地名の由来が語られており、その分布は広範囲に渡っている。物語ではこの他に、男鹿市と秋田市の古四王神社、また奥州藤原氏、八峰町の道場などの寺院、氏族、地名が登場する。 江戸時代の紀行家、菅江真澄は70歳の頃この山に登り、これらの山岳信仰伝説を記録した。これは、大幢寺の古記をそのまま記録したものである。 秋田県の篤農家の石川理紀之助も1899年にこの山に登り歌を残し、また菅江真澄の記録を書籍『秋田の昔』に収録・印刷した。理紀之助は、1898年に自らの蔵書を大量に焼失したことから、郷土の古書を活字にして残そうと出版を計画。理紀之助が編輯して発行した『秋田のむかし 巻一』には菅江真澄が書き写した『房住山昔物語』が転載されている。真澄による書写本とはいえ、真澄の著作が活字になったのは、これが最初である。 江戸時代の終わり頃の文久元年(1861年)、土地の人が信仰の山を観音霊場にしようと勧進にしたがって尾根伝いに三十三観音の石仏を安置した。『房住山三十三観音奉加張』(文久元年、四月吉日と表紙にある)によると、房住山の麓の村である小新(荒)沢の工藤源治の発願によって三十三観音像を建立しようとしたが、一人の財力では不可能なので多くの人の奉加を募るようになったと分かる。記録からは山麓の村々だけではなく、八郎潟西岸の鵜ノ木村や能代からも奉加に加わった人がいることが分かる。観音像の石材は男鹿石である。三十三観音以外の8体の「番外」と呼ばれている石仏は万延元年の建立である。写真にある山頂の番外石仏の建立年号は文久となっているが、本当は万延である。 上岩川地区の大覚院が代々伝承されていたことをまとめ上げた文章に『梵城古伝記』という書があった。この記録を元に、秋田の隣正院の清淳が文書表現などに修正を加えて書き上げたのが『房住山古伝記』である。それには次のように記述されている。「房住山は大日山とも言い、南は太平山に連なり、北は七座山に続いているので修行をするのに便利である。おそらく天平の頃に、円静大阿闍梨(姓氏名暦不明)が当山を開山し、修行の霊場とした。中世、源角大徳が当山を再興したときに、開山円静の4文字を刻んだ石碑を土中より掘ったという記録が伝記に見える。翁面(沖田面)に高倉という大施主がいて、彼は当山開創の大壇主である。彼には一人の娘がいて、婿を迎えて家督を継いでいた。後に高倉長者に男子が出来た。この子が成長すると家督を継ぎたいと望んだ。そこでやむを得ず、長者はクジを引かせ、婿は分家のクジにあたり、米か沢(米内沢)という所に住んだ。里の人は彼を大兄殿と言った。実子は翁面に住み小兄殿と言った。翁面の地名の由来は、昔、川西の深山に、大樹が折れた霊木があった。木こりはそれに注連縄を張り付け祀ると、上の注連縄は白髪のように、下の注連縄は白鬚のように、そして木肌は風雨に曝されて紅白の色をなし、幹は鉄や石のように硬く、節やコブが自然に目鼻口耳の形をして、老翁の面のようになったのを後年村の名とした。ある時、一人の高僧が来て、その霊木なるを感じて、切り観音像を彫ってそこに祠を建てた。村はこれによって繁栄した。平城天皇の頃だろうか、鈴鹿山の賊の残党の夜叉鬼、大嶽麿(大長丸とも)が人々を悩ましていた。坂上田村麻呂は夜叉鬼を保呂羽山で滅ぼして、大嶽麿を男鹿の嶺で滅ぼした。なお、その残党を探したところ、阿計徒丸(あけとまる)、阿計留丸(あけるまる)、阿計志丸(あけしまる)という兄弟の悪鬼がいた…。」
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伝説・歴史
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指南車にまつわる伝説として、史書には次のように記されている。 中国の国家の創立者である黄帝・軒轅(けんえん)は、崑崙山脈の壮大な宮殿に住んでいた。一方、同じ時期に敵対していた部族長・蚩尤は戦上手であり、黄帝の領土に攻め込んだ。その際、蚩尤は人工的に霧を起こし目くらまししようとしたが、指南車があることで黄帝は方向を見失わず勝利したという。 古代中国においても伝説上のものと考えられたが、張衡や馬鈞が実際に(おそらく独自に)製作・復元に成功した。 日本では斉明天皇4年(658年)と天智天皇5年(666年)に製作された記録が『日本書紀』に見られる(江戸時代の『和漢三才図会』にも引用が見られる)。10世紀中頃の『和名類聚抄』巻十一の記述として、周の成王の時に用いられた逸話が説明されている。
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