伝説・物語とは? わかりやすく解説

伝説・物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/31 04:42 UTC 版)

放駒四郎兵衛」の記事における「伝説・物語」の解説

初代桜田治助1734年1806年)が1769年明和6年)に書いた江戸花陽向曽我』に、「放駒四郎兵衛 実ハ鬼王新左衛門」として登場する市村座三代目大谷廣次1746年1802年)がこれを演じ同年一筆斎文調描いた歌川国明は、1861年文久元年10月四代目中村芝翫を『放駒四郎兵衛 中村芝翫』として描き一寿斎国政四代目 歌川国政1848年 - 1920年)は、大島四郎幡随院長兵衛、まむしの治兵衛(真次兵衛)、白柄右衛門とともに5人を1枚描いた三代目歌川豊国歌川国貞1786年 - 1865年)も、長兵衛その子息・長とともに3人を1枚描いた1916年大正5年2月岡本綺堂書いた番町皿屋敷』が初演され六代目市川寿美蔵三代目市川壽海)が四郎兵衛演じた。この初演でのほかの配役は、青山播磨二代目市川左團次腰元お菊二代目市川松蔦柴田十太夫市川左升権次二代目市川荒次郎演じた同作登場する四郎兵衛キャラクターは、お菊相手役青山播磨白柄組旗本奴設定したために、対立する町奴として登場するのである

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伝説・物語

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鍾馗半兵衛」の記事における「伝説・物語」の解説

半兵衛名乗った鍾馗」という名、そして町人たちにとっての恐怖対象である旗本奴追い払う半兵衛物語は、邪鬼祓う中国の神・鍾馗思わせるが、日本では室町時代14世紀 - 16世紀)に鍾馗信仰発生している。 1852年嘉永5年)、三代目歌川豊国歌川国貞)が市村座での『名誉仁政録』を描き三代目關三十郞演じる「鍾馗半兵衛」、初代坂東しうか演じるところの「鍾馗半兵衛女房お千代」が登場している。史実の上では、半兵衛に妻がいたのか、それがお千代であったかは定かではない1866年慶応2年)、豊原国周が『春霞大江戸達引』で五代目坂東彦三郎演じる「鍾馗半兵衛」を描き、翌1867年慶応3年)には『男達鍾馗半兵衛』で二代目市川九蔵(のちの六代目市川團蔵演じる姿を描く。 映画においては、1912年大正元年)、横田商会から日活京都撮影所変わったばかりの同撮影所で、『鍾馗の半兵衛』が製作されたのみであり、同作公開詳細不明である。

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伝説・物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/25 09:43 UTC 版)

久米平内」の記事における「伝説・物語」の解説

歌川豊国1769年 - 1825年)描く『粂平内左衛門長盛』、一勇斎国芳歌川国芳1798年 - 1861年)描く『見立十二支の内丑 粂平内左衛門松若丸』は、伝説上の平内デフォルメされた姿である。 1808年文化5年)、曲亭馬琴執筆し一柳齋豊廣こと歌川豊広口絵描き慶賀堂が出版した巷談坡堤庵』は、平内のほか、三浦屋薄雲生没年不詳17世紀)、向坂甚内生年不詳 - 1613年)、土手の道哲らの説話盛り込まれている。同書が描く平内は、武蔵国豊島郡渋谷郷(現在の東京都渋谷区)の渋谷庄司宗順の屋敷囲われ剣術達人として登場する平内は、数年前まで九州浪人であったが、壮年になってから土地離れて江戸で剣術指南始め、宗順も指導を受けるがあまりの貧しさ居宅を提供、平内はこれを恩に着る。宗順は三浦屋薄雲太夫出会うが、薄雲向坂甚内に斬られるが子どもを生んで死に、宗順の夢枕に立つが、これを妖怪見定めて平内退治する。宗順は薄雲の子引き取り太郎名づけ長男の金王の弟として育て最終的に薄雲仇討ち成功するが、平内は、薄雲実のであったことを告白する1912年明治45年7月立川文庫32編として刊行された『武士道精華 粂平内』には、剣術指南阪田藤十郎荒木又右衛門1599年 - 1638年)、幡随院長兵衛1622年 - 1657年)、白柄組水野十郎左衛門1630年 - 1664年)らが登場する1916年大正5年)、大川書店八千代文庫14編として刊行された『粂平内』にも、立川文庫同様に幡随院長兵衛登場して平内危難救い男嫌いの芸者小春」が登場水野十郎左衛門がこれを斬ろうとする。長兵衛がとりもって平内小春結婚するが、長兵衛湯殿殺され平内水野討ち取るという話になっている1918年大正7年)、博文館刊行した三代目小金井蘆洲による講談本粂平内によれば平内の名は「粂平内兵衛長守」、父は「真野平左衛門長親」とされ、。剣術は父から学んだ卜伝流津和野城亀井氏親子仕官したという設定である。阪田藤十郎平内を(柳生宗矩1571年 - 1646年)に推挙その後柳生新陰流免許皆伝している。同ヴァージョンにも、荒木又右衛門幡随院長兵衛水野十郎左衛門登場し平内は、最終的に初期助けた三輪お里結婚する

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「おきん」の記事における「伝説・物語」の解説

四代目松本幸四郎1737年 - 1802年)の三十三回忌五代目松本幸四郎の百ヶ日追善興行として、1838年9月天保9年8月)に初演された『御摂手向花川戸』で、すでに幡随院長兵衛の妻として「お時」という人物登場する歌川国芳は、1850年4月嘉永3年3月)、連作杜若手向花川戸』を描き三代目岩井粂三郎演じる「長兵衛女房おとき」を数パターン図像化した1855年安政2年)、『長兵衛女房お時』、あるいは『女房おとき』を『幡瑞長兵衛とともに三代目歌川豊国歌川国貞)が描いている。 1881年明治14年10月河竹黙阿弥書いた世話物極付幡随長兵衛』が、東京府本郷区春木町現在の東京都文京区本郷3丁目)の春木座初演され幡随院長兵衛の妻として「お時」という人物登場する。それとともに長兵衛の幼い息子として、「長松」が登場するが、史実において長兵衛とおきんの間に子がいたかどうかは不明である。 映画においては、「お兼」あるいは「阿金」の役名山田五十鈴らが演じ歌舞伎踏襲しているが、テレビ映画では「おきん」である。

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伝説・物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 14:35 UTC 版)

三浦小次郎」の記事における「伝説・物語」の解説

1881年明治14年10月河竹黙阿弥書いた極付幡随長兵衛』が、東京府本郷区春木町現在の東京都文京区本郷3丁目)の春木座初演されたが、この次点では、「三浦小次郎」が登場する第3幕末尾水道仕返しの場』は存在せず1891年明治24年6月東京市京橋区木挽町現在の東京都中央区銀座4丁目)の歌舞伎座お披露目された、三代目河竹新七らによる改訂版から、「三浦小次郎」が登場するうになる第3幕湯殿殺しの場』までの上演が多く三浦登場は稀である。『水道仕返しの場』に登場する三浦小次郎」は、町奴幡随院長兵衛を『湯殿殺しの場』で暗殺した白柄組」を率い旗本奴水野十郎左衛門に、切腹沙汰下ったことを、長兵衛一派唐犬権兵衛らに知らせに来る役どころである。 1913年大正2年4月岡村柿紅書いた『よし也男丹前姿』が歌舞伎座初演され主人公三浦義也」の役は十五代市村羽左衛門演じた同作は、同年1月発行された『演芸倶楽部第2巻第1号博文館)に、鏑木清方描く挿絵付で掲載され同年5月発行された同誌第2巻第5号には、平岡権八郎描く羽左衛門の「三浦義也」が表紙になった同作物語では、神田雉子町(現在の東京都千代田区神田小川町一丁目)の堀丹後堀直寄)の屋敷前にあった丹前風呂」の湯女・お浪(五代目中村歌右衛門)とその実の弟で役者花井三郎六代目尾上菊五郎)の両親を、「三浦義也」が率いる「よし也組」の高木仁左衛門、樊膾の半兵衛らが殺してしまい、事情知った三浦義也」がお浪、才三郎、お浪の許嫁和泉源之助に助太刀して、仇討ちをする話である。「丹前風呂」は、幡随院長兵衛暗殺事件や「明暦の大火」と同じ1657年明暦3年)に廃止されており、この物語それ以前設定ということになる。 1926年大正15年5月池田大伍書いた新歌舞伎男達ばやり』が、おなじく歌舞伎座初演され主人公三浦小次郎義也」の役は二代目市川左團次演じた。これは1931年昭和6年)に同名タイトル映画化され片岡千恵蔵が「三浦小次郎義也」を演じた同作は、旗本の「三浦小次郎義也」と町奴朝比奈三郎兵衛意地張り合い物語であるが、史実朝比奈は、大阪町人である。唐犬権兵衛放駒四郎兵衛らが登場する森一生監督映画錦絵江戸姿 旗本町奴』も、『男達ばやり』の設定下敷きになっている村上元三雑誌講談倶楽部』に連載した小説『かぶき浪人』は、1954年昭和29年)に『お役者変化』として、1960年昭和35年)に『競艶お役者変化』としてそれぞれ映画化された。

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伝説・物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/16 07:47 UTC 版)

平井権八」の記事における「伝説・物語」の解説

幡随院長兵衛1622年 - 1657年)とのエピソード多く語られるが、実在長兵衛1657年殺害されており、時代にずれがある。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北1823年)における二人鈴ヶ森での出会い(御存鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名である。長兵衛との説話では、権八この後長兵衛食客となったとされ、「権八といえば居候」を意味するほどに普及したエピソードである。 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲同年)等がある。 吹上宿には、権八辻斬り由来した荊原権八延命地蔵」がある。 1852年6月-7月嘉永5年5月)、三代目歌川豊国歌川国貞)が『東海道五十三次内 川崎駅 白井権八』に描いた権八は、『浮世柄比翼稲妻』のうちの『鈴ヶ森』の場であるが、六郷の渡しバック描かれている。

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