伝説・物語
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初代桜田治助(1734年 – 1806年)が1769年(明和6年)に書いた『江戸花陽向曽我』に、「放駒四郎兵衛 実ハ鬼王新左衛門」として登場する。市村座で三代目大谷廣次(1746年 – 1802年)がこれを演じ、同年、一筆斎文調が描いた。歌川国明は、1861年(文久元年)10月、四代目中村芝翫を『放駒四郎兵衛 中村芝翫』として描き、一寿斎国政(四代目 歌川国政、1848年 - 1920年)は、大島運四郎、幡随院長兵衛、まむしの治兵衛(真虫次兵衛)、白柄重右衛門とともに5人を1枚に描いた。三代目歌川豊国(歌川国貞、1786年 - 1865年)も、長兵衛とその子息・長松とともに3人を1枚に描いた。 1916年(大正5年)2月、岡本綺堂が書いた『番町皿屋敷』が初演され、六代目市川寿美蔵(三代目市川壽海)が四郎兵衛を演じた。この初演でのほかの配役は、青山播磨を二代目市川左團次、腰元お菊を二代目市川松蔦、柴田十太夫を市川左升、権次を二代目市川荒次郎が演じた。同作に登場する四郎兵衛のキャラクターは、お菊の相手役・青山播磨を白柄組の旗本奴と設定したために、対立する町奴として登場するのである。
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伝説・物語
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半兵衛が名乗った「鍾馗」という名、そして町人たちにとっての恐怖の対象である旗本奴を追い払う半兵衛の物語は、邪鬼を祓う中国の神・鍾馗を思わせるが、日本では室町時代(14世紀 - 16世紀)に鍾馗信仰が発生している。 1852年(嘉永5年)、三代目歌川豊国(歌川国貞)が市村座での『名誉仁政録』を描き、三代目關三十郞演じる「鍾馗半兵衛」、初代坂東しうか演じるところの「鍾馗半兵衛女房お千代」が登場している。史実の上では、半兵衛に妻がいたのか、それがお千代であったかは定かではない。 1866年(慶応2年)、豊原国周が『春霞大江戸達引』で五代目坂東彦三郎演じる「鍾馗半兵衛」を描き、翌1867年(慶応3年)には『男達鍾馗半兵衛』で二代目市川九蔵(のちの六代目市川團蔵)演じる姿を描く。 映画においては、1912年(大正元年)、横田商会から日活京都撮影所に変わったばかりの同撮影所で、『鍾馗の半兵衛』が製作されたのみであり、同作の公開の詳細は不明である。
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伝説・物語
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歌川豊国(1769年 - 1825年)描く『粂平内左衛門長盛』、一勇斎国芳(歌川国芳、1798年 - 1861年)描く『見立十二支の内丑 粂平内左衛門・松若丸』は、伝説上の平内のデフォルメされた姿である。 1808年(文化5年)、曲亭馬琴が執筆し一柳齋豊廣こと歌川豊広が口絵を描き、慶賀堂が出版した『巷談坡堤庵』は、平内のほか、三浦屋薄雲(生没年不詳、17世紀)、向坂甚内(生年不詳 - 1613年)、土手の道哲らの説話が盛り込まれている。同書が描く平内は、武蔵国豊島郡渋谷郷(現在の東京都渋谷区)の渋谷庄司宗順の屋敷に囲われた剣術の達人として登場する。平内は、数年前まで九州浪人であったが、壮年になってから土地を離れて江戸で剣術指南を始め、宗順も指導を受けるがあまりの貧しさに居宅を提供、平内はこれを恩に着る。宗順は三浦屋の薄雲太夫と出会うが、薄雲は向坂甚内に斬られるが子どもを生んで死に、宗順の夢枕に立つが、これを妖怪と見定めて平内は退治する。宗順は薄雲の子を引き取り瀬太郎と名づけ、長男の金王の弟として育て、最終的に薄雲の仇討ちに成功するが、平内は、薄雲が実の娘であったことを告白する。 1912年(明治45年)7月、立川文庫第32編として刊行された『武士道精華 粂平内』には、剣術指南の阪田藤十郎、荒木又右衛門(1599年 - 1638年)、幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)、白柄組・水野十郎左衛門(1630年 - 1664年)らが登場する。1916年(大正5年)、大川屋書店の八千代文庫第14編として刊行された『粂平内』にも、立川文庫同様に幡随院長兵衛が登場して平内の危難を救い、男嫌いの芸者「小春」が登場、水野十郎左衛門がこれを斬ろうとする。長兵衛がとりもって平内は小春と結婚するが、長兵衛は湯殿で殺され、平内が水野を討ち取るという話になっている。1918年(大正7年)、博文館が刊行した、三代目小金井蘆洲による講談本『粂平内』によれば、平内の名は「粂平内兵衛長守」、父は「真野平左衛門長親」とされ、。剣術は父から学んだ卜伝流、津和野城の亀井氏に親子で仕官したという設定である。阪田藤十郎が平内を(柳生宗矩、1571年 - 1646年)に推挙、その後柳生新陰流の免許皆伝している。同ヴァージョンにも、荒木又右衛門、幡随院長兵衛、水野十郎左衛門は登場し、平内は、最終的に初期に助けた三輪屋お里と結婚する。
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伝説・物語
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四代目松本幸四郎(1737年 - 1802年)の三十三回忌、五代目松本幸四郎の百ヶ日追善興行として、1838年9月(天保9年8月)に初演された『御摂手向花川戸』で、すでに幡随院長兵衛の妻として「お時」という人物が登場する。歌川国芳は、1850年4月(嘉永3年3月)、連作『杜若手向花川戸』を描き、三代目岩井粂三郎演じる「長兵衛女房おとき」を数パターン、図像化した。 1855年(安政2年)、『長兵衛女房お時』、あるいは『女房おとき』を『幡瑞長兵衛』とともに、三代目歌川豊国(歌川国貞)が描いている。 1881年(明治14年)10月、河竹黙阿弥が書いた世話物『極付幡随長兵衛』が、東京府本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷3丁目)の春木座で初演され、幡随院長兵衛の妻として「お時」という人物が登場する。それとともに長兵衛の幼い息子として、「長松」が登場するが、史実において長兵衛とおきんの間に子がいたかどうかは不明である。 映画においては、「お兼」あるいは「阿金」の役名で山田五十鈴らが演じ、歌舞伎を踏襲しているが、テレビ映画では「おきん」である。
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伝説・物語
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1881年(明治14年)10月、河竹黙阿弥が書いた『極付幡随長兵衛』が、東京府本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷3丁目)の春木座で初演されたが、この次点では、「三浦小次郎」が登場する第3幕の末尾『水道端仕返しの場』は存在せず、1891年(明治24年)6月、東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座4丁目)の歌舞伎座でお披露目された、三代目河竹新七らによる改訂版から、「三浦小次郎」が登場するようになる。第3幕『湯殿殺しの場』までの上演が多く、三浦の登場は稀である。『水道端仕返しの場』に登場する「三浦小次郎」は、町奴・幡随院長兵衛を『湯殿殺しの場』で暗殺した「白柄組」を率いる旗本奴・水野十郎左衛門に、切腹の沙汰が下ったことを、長兵衛一派の唐犬権兵衛らに知らせに来る役どころである。 1913年(大正2年)4月、岡村柿紅が書いた『よし也男丹前姿』が歌舞伎座で初演され、主人公「三浦義也」の役は十五代目市村羽左衛門が演じた。同作は、同年1月に発行された『演芸倶楽部』第2巻第1号(博文館)に、鏑木清方描く挿絵付で掲載され、同年5月に発行された同誌第2巻第5号には、平岡権八郎描く羽左衛門の「三浦義也」が表紙になった。同作の物語では、神田・雉子町(現在の東京都千代田区神田小川町一丁目)の堀丹後(堀直寄)の屋敷前にあった「丹前風呂」の湯女・お浪(五代目中村歌右衛門)とその実の弟で役者の花井才三郎(六代目尾上菊五郎)の両親を、「三浦義也」が率いる「よし也組」の高木仁左衛門、樊膾の半兵衛らが殺してしまい、事情を知った「三浦義也」がお浪、才三郎、お浪の許嫁・和泉源之助に助太刀して、仇討ちをする話である。「丹前風呂」は、幡随院長兵衛の暗殺事件や「明暦の大火」と同じ1657年(明暦3年)に廃止されており、この物語はそれ以前の設定、ということになる。 1926年(大正15年)5月、池田大伍が書いた新歌舞伎『男達ばやり』が、おなじく歌舞伎座で初演され、主人公「三浦小次郎義也」の役は二代目市川左團次が演じた。これは1931年(昭和6年)に同名のタイトルで映画化され、片岡千恵蔵が「三浦小次郎義也」を演じた。同作は、旗本の「三浦小次郎義也」と町奴の朝比奈三郎兵衛の意地の張り合いの物語であるが、史実の朝比奈は、大阪の町人である。唐犬権兵衛、放駒四郎兵衛らが登場する。森一生監督の映画『錦絵江戸姿 旗本と町奴』も、『男達ばやり』の設定が下敷きになっている。 村上元三が雑誌『講談倶楽部』に連載した小説『かぶき浪人』は、1954年(昭和29年)に『お役者変化』として、1960年(昭和35年)に『競艶お役者変化』としてそれぞれ映画化された。
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伝説・物語
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幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られるが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがある。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名である。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソードである。 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等がある。 吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」がある。 1852年6月-7月(嘉永5年5月)、三代目歌川豊国(歌川国貞)が『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』に描いた権八は、『浮世柄比翼稲妻』のうちの『鈴ヶ森』の場であるが、六郷の渡しをバックに描かれている。
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