相次ぐ「敗北死」
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12月31日 - 夕方、メンバーが食事の準備をしている傍らでKが「すいとんすいとん」とつぶやくのを聞いた森はKを批判。森が「Iの時は、顔面を狙ったが膨れ上がっただけで気絶しなかった。今度は腹部を中心に殴って気絶させよう」とKの腹部を殴り気絶させることを提起するが、森達に腹部に膝蹴りをされたKは気絶しなかった。膝蹴りを中止した後、森はKが気絶しないことを批判したが、その日の夜、Kの死が確認される。最初の犠牲者。坂口はKが殴打され、薄着でさらされて衰弱して死んだのではないかと思った。森はその場で全員に報告することはせず、Aと協議した結果、「共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北に繋がっていった」「本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない」としてKの死を「総括できなかったところの敗北死」と指導部メンバーに説明。森は永田にKの「敗北死」を全体会議で報告させることを決定。永田は2人が聞いているところでKの死を話すべきでないとの判断からIとJを小屋の外に出すことを提起し、IとJは小屋の外に出され、屋外の木に縛りつけられた 。森はKの遺体を埋める吉野の補助としてbを、屋外に縛ったIとJを見張るAの補助としてeを指定。bとeにはKの死と、事件に関与したメンバーと幹部しか知らなかった革命左派の脱走メンバー殺害(印旛沼事件)が伝えられた。eは印旛沼事件の被害者の1人であるnとは中学時代からの友人であり、Kとは大学の寮の同じ部屋で面倒を見てもらっていた関係であったため、親しかった人物2人の死を同時に聞かされたことになり、大きなショックを受けたという。 永田がKの「敗北死」を全体会議で報告。「彼の敗北死を乗り越えて前進する決意を我々自身がより固めていかなければならず、食事が食べられないということもあってはならない」として全員でパンやコンビーフで食事をとった。活動資金の節約のため普段は麦飯をメインに食事をとっていた彼らにとってパン食は贅沢な食事であったという。 坂東・Lと共にB・D・Eが榛名ベースに到着。坂東が3人のことを森に報告すると、森は「甘い」と坂東を批判。森は坂東に対してBは逃げようとしていると断定的に語った。森の目には、Bは「縛られている三名の事を気にして態度に落ち着きがなく」、Dは「旧革命左派の女性同志に対するライバル的な態度が抜け切ってはいず」、Eは「非常に神経質な様子で軽いノイローゼ的な様子」に見えたという。森は榛名ベース到着時に「3人は総括した」と言った前言を翻し、「全く総括できてない」と批判するが、永田と坂口は同意しなかった。 1972年1月1日 - 「ベースに来てから縛られているメンバーや戸口の方ばかりを見て落ち着きがなかった」 Bを森は追及。Bの総括要求の討論が始まる。森はBの問題として、赤軍派に加わる前の「ルンペンプロレタリア的無政府的体質」からの脱却が図れていないこと、数々の女性問題、中でも赤軍派坂東隊の準メンバーとしてBが活動に加わらせた女性メンバーo(Bの恋人でもあった)がBとの組織脱走や警察への引渡しを図ろうとしたことに対し没主体的であったことを指摘した。Bが自ら「縛ってくれ」と言うのを森は「我々は自らの意思で縛るのだ」と拒否し、両手を後ろ手に縛った上で指導部の者や被指導部の者と一緒にBを殴る。殴る前に森は指導部メンバーに対してKの死に繋がった殴打について触れ、「膝で蹴ったのがまずかったかも知れない。今度は死ぬ危険がないように手で腹を殴って気絶させよう」と提起した。殴られる過程でBは「革命戦士になるためになんでこんなことが必要なんだ」と異議を唱えるが、森は「何故こうされているのかよく考えてみろ、頑張って総括するのだ」と言って顔や腹部を殴り、やがてBは「頑張ります」と言って殴られるままになった。坂東はBの発言に戸惑ったが戸惑う自分は森が言うように「甘い」のかと考えたという。森はDとEにもBを殴らせる。躊躇したDが森らに迫られてBを殴ると、Bは「ありがとう」と言った。永田は凄惨な有様になったBを見て「早く気絶させられないのか、このままでは心配だ」と言い、これを受けて坂東がBの鳩尾を殴ったがBは気絶しなかった。夜明け後にBへの殴打は終了。森は坂口と坂東らにIとJが縛られている屋外にBを縛らせた。森は吉野のBに対する暴行を見て「やっと、すっきりしたみたいだな」と褒め、吉野は「総括姿勢あり、とみなされた」と考え安堵したという。その直後、Aからの報告でBの死が確認される。2人目の犠牲者。Bは死の直前に「もう駄目だ」と言ったといい、森はBの死を革命戦士になる気力すらなくなったことによる「敗北死」として、全体会議で永田に報告させる。森は会議の後、指導部に対して「腹を殴ったのがまずかったな、これからは腹はやめよう」と発言。 雨が降ってきたことを受けてIとJはベースの床下に移される。iは外が極寒であったたため兄であるIを小屋の中に入れるように頼んだが永田は「黙っていなさい」と言って取り合わなかった。森はJの「こんなことをするんなら殺してよ」と言ったことや食事を与えた際に「また後で頂戴ね」と言った態度を批判。一方で床下に移される際に自力で歩こうとし、移された後も「寒さで総括に集中できないから」と縛られていた柱に頭を自ら打ち続けていたIを森は評価し、Iのみを小屋の中に入れさせてから凍傷で動かなかった手足を湯で温め衣服を乾かしてから小屋内の中央の柱に縛った。森はiと永田の「Jは闇を恐れる」という意見によりJに目隠しをさせる。その後、Jは容態が急変し、加藤倫教に知らされて森・AらがJの蘇生のため人工呼吸を行うが、fによってJの死が確認された。3人目の犠牲者。 指導部会議でAが「死を突きつけても革命戦士にはなれない。考えてほしい」と森に指摘、これに対し森は「死の問題は革命戦士にとって避けて通ることのできない問題」であり「精神と肉体の高次な結合が必要である」と反論、Aはこれを受け入れる。事件中で「暴力的総括要求を清算するのかどうかが最も問われた」やりとりとなったが、「総括できれば、どんなに寒くても凍死しないようになり、どんなにお腹がすいても餓死しないようになり、銃の弾にあたっても死なないようになる」とでもいうような荒唐無稽な森の「論理」が受け入れられる結果となった。 森はJの死をIだけが屋内に入れられたことによる絶望感と死への恐怖による「敗北死」と規定し、夜の全体会議で永田にJの「敗北死」を報告させる。 1月2日 - Fとaが東京での任務を終えてベースに帰還。 森、午前中の指導部会議でDとEを批判。 bに連れられて植垣とCが午後1時頃に榛名ベース到着。森は植垣とCに対し、榛名ベースメンバーは2人よりも「はるかに進んでおり」、2人は圧倒的に「遅れている」と言った。 植垣がGのことを「好きになった」としてGとの結婚を提起。これを森は一旦は評価したが、「自由恋愛」に対して批判的な考えを持っていた永田がGに過去の恋愛(獄中にいた革命左派メンバーと印旗沼事件の被害者n)を総括してからでないと認められない旨を伝えると森も一転批判に転じる。C、女性問題と車の運転手に安住していたこれまでの活動でのあり方を自己批判。全体会議でGが植垣との結婚受け入れを表明。森、指導部に対し「総括よりも男女関係を優先している」とGを批判。その後、植垣は永田に呼び止められ、「あんた、Gさんと結婚したいならしなさいよ。ただし、二人ともちゃんと総括してからよ」と言われたという。 森と被指導部によるDへの追及がはじまる。追及が詰問に変わっていく中でDは「死にたくない」「とにかく生きていたい」と発言。森は「我々にとって生きるとは革命戦士になって生き抜くことしかない」「『死にたくない』とはブルジョア的な死への恐怖心であり、革命戦士にとっては必ず払拭しなければならないものである」と指摘。「Jの遺体を埋めさせることで死の恐怖を克服させる」という永田の提案に森は同意し、DがJの遺体を埋めEがそれを手伝うよう指示。1月3日午前1時頃に、森・永田・Iを除くメンバーがJの遺体を埋めに出かけた。DとEがJの遺体を持ち上げて運搬をはじめると皆が「がんばれ! がんばれ!」と声援を送った。この道中、榛名ベースの雰囲気に圧倒されていた植垣が坂東に対して「こんなことをやってていいのか」と尋ねると、坂東は「党のためだから仕方ないだろう」と答えた。 1月3日 - 森と永田でIの総括を聞く。Iは「革命とは人民の呪縛を解くことだと考えている」「性欲が起きた場合は皆と相談してどうするか決める」と言い、森は批判。森が逃亡を考えたことがあるかを尋ねると、縛られてから何度かロープを解いて逃げることを考えたが、今では革命戦士になる決意であることを森に語る。森はIが「逃げることを考えた」ことを問題視し一層厳しい態度をとる必要があると考えたという。森はIに総括する態度があったというのを全て帳消しにし、永田もこれでは総括できていないと考えた。 F、Jの遺体を「死んでも反革命の顔をしている」としてメンバーに殴らせる。午前3時頃にJを埋めに行っていたメンバーが帰還すると、FがJの遺体を殴らせたことをAから報告され、森はFがJの「敗北死」を「反革命の死」としたことを問題視し、Fに総括を要求する。Fは前日にベースに戻ってきたばかりで「敗北死」の説明を聞いておらず、そもそも「敗北死」自体を知らなかった。 Dは「死体は恐ろしかったが、自分がそれをやらなければ死への恐怖に敗北し、革命戦士になり切れないんだ、と思って運んだ」という総括を語るが、Dがかつて親族の死を経験していることを確認した森は「単なる死体としてJさんを見ていたに過ぎない。革命戦士の敗北の死として見ていたならば総括ができるはずだ」としてこの総括を認めず。Jの遺体の埋葬をやりきったことにより自信に満ちていたDの表情は森が総括を認めなかったことにより次第に暗くなっていったという。森はさらにDに対しDの親友である重信房子を批判。Dも重信を批判したが、森はそれも認めず。Eが「あんたの顔には表情がない、能面のようだ、Jと同じ顔をしている」と発言すると、Dは「Jのようになりたくない! 頭の中で死がグルグル回っている!」と発言。これを聞いた森は「ブルジョア的な女性としてのプライドなどの属性を解体する」ためにDに自分で自分(主に顔)を殴るよう要求し、Dは30分程自らを殴らされた。永田、Dに自分で殴った顔を鏡で見させる。森は植垣・C・aにDを縛り逃亡防止のために髪を丸刈りにするよう指示。森の指示を受けた植垣らによってDは縛られ、飲食物を一切与えず、用便にも行かせず放置された。永田は朝食後の指導部会議でDを着替えさせることを提起し、森の同意を得られた為にDの縄を解き着替えさせてから再び縛った。 昼食後の指導部会議でEを批判した森は、夕食後の指導部会議において元赤軍派の森・A・坂東、元革命左派の永田・坂口・F・吉野達による中央委員会(CC)の結成と、森・永田・坂口の3名を政治局(PB)とする事を提起。夜9時頃の全体会議で、森のCC結成と7人の立候補の構想を坂口に伝えさせて他のメンバーからCC結成の支持が得られた。このCC結成の発表を受けてEが「CCを承認します。これで僕もすっきりしました」と発言。森はこれに「何がすっきりしたのだ」と強く反問し、Eの闘争に対する消極的な態度や過去の女性問題を追及。この追及の中でEが新倉ベースにいた時に自殺を考えていたことを明かすと、森はa・C・植垣にEを縛らせ、飲食物も与えず、用便にも行かせず放置した。また、IもCC結成を支持する発言をしようとしたが、坂口に黙らされた。 1月4日 - 森と永田は屋内に移されてから真剣に総括を深めようとしなくなったとしてIを追及。Iが周囲を眺め回していたことから逃走を考えていると森は断定的に追及。永田はIに「ほかに二人(DとE)も縛られている、仲間ができて嬉しいだろう、そのうち一人は女の子だから特に嬉しいだろう、髪の毛が伸びて格好がいい、前から髪の毛のことを気にしていたのだから嬉しいだろう、そんな髪の毛は切らなければ駄目だ」と言い、Iが変装するためにパーマを取ってきたと答えると、永田は「Jの好みそうな髪型にしてきたのではないか」と言った。これを受けて森が逃走防止のためにIの髪を切らせるように命じ、丸坊主に近い短さにIの髪を切った。森は逃走を疑ってIを追及しながら殴り、立たせたまま縛った。森は中央委員会の場でもI批判を繰り返したが、間もなくIの死が確認される。4人目の犠牲者。実兄Iの死にiは「こんなことをやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と泣き叫んで外に飛び出し、加藤倫教は永田の肩に顔を埋めて泣き出した。加藤倫教は兄の死を受けて、脱走も考えたという 。bは一度森に総括の「態度」を認められながら、結局は死に至ったIを見て「総括を要求され縛られた場合は即ち死」であり、今後「もし誰かが縛られれば、その人間も死ぬだろう」と考えるようになったという。また、このIの死をきっかけにそれまでは「総括の援助」として振るっていた暴行を「不適格な人間を間引く」ためのものと考えるようになったという。Iの死は森に逃亡が見抜かれた絶望感による「敗北死」と総括され、永田に被指導部に対して報告させる。 森はcの離婚表明を受け入れていないことに対し、Fを批判。中央委員会は夕食後も続けられ、森は植垣とaとbとeとgを党員にする計画を告げた。 1月5日 - 午後、森は六・一七闘争で手榴弾を投げなかったことに関してaに総括を要求するが、永田にやめさせられる。夕方、森は植垣に「Gはダメだ」と発言。A・Fらが遺体の埋め直しに午後9時頃に出発。Aらは1月6日早朝に帰還した。FはAの「不必要な警戒心」を批判。 永田はIの死を受けて、森に対して「厳しく総括要求されたら、ゼロか百かしないのがよくわかった」と発言し、森は「大いに同意」し、総括要求されたものに対してより厳しい態度で接する必要があることを確認した 。 1月6日 - Dを座らせて縛るという永田の提案に森が同意しDは縛り直される。植垣とCとa達は夕食後に、Eの縄をほどいて立たせてから追及するように森から指示される。森は「懐中電灯でEの目を見たら、瞳孔が開いているのがわかった。Eは死の領域に足を踏み込んでいる」と発言。永田は後にこの森の発言を「薄暗い小屋の中にいたのであるから、瞳孔が開いているのはあたりまえのこと」で、「死の領域に踏み込んでいる」という解釈は「偏見以外のなにものでもなかった」と回想している。森による追及の中でEは「半ばあきらめ切った風に全ての事実を認め」、警察に知られているアジトをaに教えて行かせようとしたこと、かつて逮捕された時にもう少し留置されていたら全て自供していたこと、さらに森に逃亡について問われると車で他の場所に移される時に逃走しようと思っていたことを認めた。森は逃亡防止のためEの肩胛骨と大腿部を殴る事にして、殴る森にA、植垣らも続き、FはEを薪で殴った。植垣ら、森の指示によりEを逆えび型に縛る。 このEへの追及の間、Dが「お母さん、あたし頑張るわ」「今にお母さんを幸せにするから待っててね」「手が痛い。誰か手を切って。誰か縄をほどいて」「いいの。縄をほどかなくていいの。D頑張る」とつぶやく。森は縄をほどき連れて来られたDに対して闘争への関わり方を追及し、「母を少しでも楽にさせる社会にするために闘争に加わった」と答え、このDの回答を森は個人主義であるとして批判した。永田、Dの恋愛遍歴を追及。「今はおやじさん(森)が好きです」と答えたDに対し、永田は「保身のためにリーダーを好きになる」とDを批判、それに森が気づいていなかったことも批判。Dを殴りつつ追及を続けた森は、Dを「Eと同じように殴って縛る」ことを指示し、Dの肩胛骨と大腿部を殴打したA達によってDは逆えび型に縛られた。森の指示によって足の間に薪をはさんで縛らせたDを見たFの「男と寝た時みたいに足を拡げろ」という発言に男性メンバーらは笑い出すが、永田が「そういうのは矮小よ!」と叫ぶと笑い声は止んだ。森は中央委員会でFの発言を批判し、Fに対してJの死体を殴らせた件とcとの離婚を受け入れなかった件と併せて総括を要求する。DとEは逃亡防止のために髪を切られる。 永田、全体会議で殲滅戦の準備のための山岳調査などを行うことを告げる。メンバーはこれに「異議なし」と答え、嬉しそうにしていたという。後の裁判においてaが「もう総括はないだろう、と希望を持った」と証言するなど、この決定を聞いた多くのメンバーが「総括」要求に一区切りがついたと考え安堵したという。 1月7日 - 夕方、全体会議の途中で永田がDの衰弱を確認したために坂東とAがDの縄をほどき人工呼吸を行う。吉野も2人を手伝った。Dに酒を飲ませるという森の指示に、永田は暖めた酒を飲ませようとするが、酒を一升瓶ごと暖めるのか飲ます分だけ暖めるかで坂口と永田が対立。坂口はこの間も全体会議を継続しようとした永田をDの蘇生に消極的であるとして批判するが激昂した永田に反論されて逆に自己批判を要求される。森も永田を擁護したため、坂口は「CCを辞任したい」というが受け入れられず、結局永田への批判を撤回し謝罪する。その直後、坂東達によりDの死亡が確認(5人目の犠牲者)されたために全体会議を中断して中央委員会議が行われ、Dの死は森によって「敗北死」とされた。全体会議は夕食後に再開され、永田はDの「敗北死」の総括をした。 永田はDの「敗北死」を語った後、「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身につけるものとか動作とかに表われるのだから、そういうところを持っている人は今のうちに総括しておきなさい」と言って女性メンバーに総括を求めた。Gがシンパからもらった金銭で服を買ったことの総括を語ると、永田はGの総括を「頭がよすぎる」と批判。さらにGが当時獄中にあった革命左派メンバーとの恋愛関係に関する総括を行うと、永田は「あんた可愛すぎるのよ」「男にこびる方法を無意識に身につけてしまっている」と指摘し、「動作や仕草などなんでも男に気に入られるようにやってしまっている」ことを総括するよう要求。Gは「私にはまだよく判らないけれど、ちゃんと総括します」と答えた。Hは「吉野の足を引っ張っているから」「完全に総括できていないから」と再度吉野と離婚する事を宣言したが「離婚なんかしなくても総括できる力があるのだから、離婚する必要はない」と永田に否定される。植垣は、GとHを活発に活動しており、指導力もあると見ていたため、2人がなぜ評価されないのか理解できなかったという。 1月8日 - C・d・g・h(Lの妻)達が井川ベース(革命左派が以前使っていた山岳ベース)の整理に、a・bがjらのオルグのために東京に、e・fがm(Jの妹)の呼び戻しとeの恋人のオルグのために名古屋にそれぞれ出発。bはこの時にオルグの対象として会った黒ヘルメンバー達を山にいるメンバーと比較して「こいつら総括することがありすぎるんじゃないか」「なんで、そういうのを連れて来いというのか」と感じたという。またaはこの上京の際に森の妻に会ってくるよう指示されていたが連絡がつかず、会うことができなかった。森からは妻には「山の様子は伝えるな」と言われていたという。 午後、Eが「夕やけこやけの赤とんぼ」と歌い出したり、「ジャンケンポン、アイコデショ」「悪かったよー、自己批判するようー、許してくれようー」と言い出し、それを聞いた植垣は同情しつつも総括しようとする態度ではないとして「悪かったでは総括にならねえだろう」と言ったという。 昼、坂口が「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか」と総括要求への疑問・不満を永田に打ち明ける。これに対して永田が総括は「私たちが前進していくためにはどうしても必要なこと」と答えると、坂口はこれにうなずいた。坂口のことを「感情的になっているがそうであってはならない」と考えた永田は中央委員会で坂口のこの発言を明らかにした上で、坂口を「共産主義化の闘いに断固とした態度をとりきれていないけど、権力に対するのと同様にすべきであり、そのようにできないはずはない」と擁護した。この発言に対して、坂口が永田の意見に同意したのみで森も他の指導部メンバーも何も発言しなかった。「共産主義化」の観点からすれば坂口も坂口を擁護した永田も「とうてい許されるものではなかった」が、森が永田と坂口を特別視していたためこの発言が問題になることはなかった。 夕方、森はGとHとしばらく話した後、指導部に対してHを「主婦的」、Gを「女学生的」と批判。指導部メンバーは反対も同調もせず。森は革命左派時代からHが会計係を任されているために「下部の者に命令的に指示をしている」と問題視し、永田がそのことに気づかずにいたのを「下から主義」だからであるとして批判。森はHを会計係から外すべきとし、永田はこれに同意。当面永田が組織の金銭の管理をすることになった。 1月9日 - 午前1時頃、森によってEの死亡が確認された。6人目の犠牲者。森は朝にEの死を報告したが、Eの死に関する会議は開かれなかった。 山岳調査の検討は昼に行われ、井川ベースの整理に行っていたCらは夕方に戻ってきた。夜、坂東・A・F・吉野、L運転の車でDとEの遺体を埋めに出かける。 1月10日 - 坂東ら、早朝に帰る。森は夕食後の全体会議でこれまでの6人の死を「高次な矛盾」と総括する。永田はこの森の総括をよく理解できなかったが、暴力的総括要求が終わりこれからは「殲滅戦」に向けて前進していくのだと受け取り、他の者もそのように受け取り、「明るい雰囲気になっていた」。植垣によると「明るい雰囲気になった」のは永田がこの際に「共産主義化」のレジュメを作ると発言したためで、何を総括すればいいか分からずにいたメンバーにとって指針の存在は切実な要求であったという。永田の手記によると、永田は事件の早い段階から森に対してレジュメ作成を持ちかけ続けていたが森は終始乗り気でなく事件終結までレジュメが作成されることはなかった。 1月11日 - 植垣とc(迦葉山へ)、吉野とg(赤城山へ)は夜明け前にLの運転する車で山岳調査に出かける。昼の中央委員会で、森が関西のある救対メンバーに「共産主義化」を要求し、応えない場合は殺すという発言・仕草をするが、永田が「そういう人をわざわざここに呼ぶ必要はない」と指摘すると森は黙った。森、坂東・Fに日光方面の山岳調査を指示し、またFに総括を要求する。 1月12日 - 早朝、坂東とFは山岳調査に出発。森、坂東にFの山岳調査中の逃亡を警戒するよう指示。 昼、永田は読んでいた本の中から毛沢東が逃亡を考えていた同志に路銀を渡し「革命の芽」になることを願ったというエピソードを発見し、「逃げないように総括させるべきだし、それができないのなら殺すべき」と毛沢東を批判。毛沢東思想を思想の拠り所としていた永田ではあったが、自分たちの論理とつじつまが合わなくなることがあると、「このことにおいては毛沢東が間違っている」と毛沢東を批判するまでに永田は自分たちの「論理」にのめり込んでいた。この永田の発言に森は同意し、坂口は黙っていた。 森はあるグループをオルグするためにAに上京する指示を出した。 1月13日 - 森は妻を入山させる意思を語ったAを批判。森は榛名ベースに来た当初は妻子を入山させる意思を語り、Aにもそれを納得させていたが、6名の死の過程で「(妻子を)すぐに呼び寄せるわけにはいかない」と言い出していたという。Aは森に催促され上京する。帰還したaがjのオルグ失敗、bは別任務のため東京に残ったこと等を報告。bは合法部メンバーから現金200万円を受け取った後、ベースに戻る気になれず実家に立ち寄る。実家に17日頃まで滞在したbは組織の金200万円を持ったままであったことから18日にベースに戻る。 この頃、上京してきたAと会った赤軍派メンバーは軍に復帰するつもりでAと話すが、Aは「今は来ない方がいい」と言い、このメンバーが入山することはなかった。彼は後に「Aさんに命を救われた」と思ったという。 1月14日 - 朝、森、名古屋滞在中のeらと連絡を取るためL運転の車で伊香保に向かう。夕方、森らが帰還。森、Lの車の運転を批判するが、Lは反論。森はさらに批判したがLは屈服しなかった。 森、改造弾の作り方をa・C・G・Hらに教える。森、永田に対してH・aらが笑いながら改造弾を作っているのを「総括する態度ではない」と批判。永田もこれに同意しHらを注意した。森はHがしていた会計係の後任としてgを指名し、gの補助としてfを指名。 夜、会議。森はJの「敗北死」を「反革命の死」としたことに関して「党内の矛盾を反革命とするのはスターリン主義である」としてFを批判し、永田・坂口も同意。森、永田にFの活動歴を聞く。森、Fがかつて出した革命左派の「改組案」や革命左派から赤軍派への理論的乗り移りをFの「分派主義」的傾向と批判し、このFの傾向を放置して来たのは革命左派が「下から主義」であったためとして永田を批判。森はFへの総括要求を提起し、永田・坂口も同意。 1月15日 - 夕方、Aが帰還。森、AにFへの総括要求を伝え、Aは同意しFを批判。 1月16日 - 森・永田・坂口・A、F問題をまとめ、Fの過去の言動を全て分派主義とする。夕方、吉野とgが帰還、ベース候補地が見つからなかったことを報告。森、吉野にFへの総括要求を伝える。永田が吉野にFの過去の言動の問題点を挙げるよう促す。吉野は初め永田のこの問いに、「いわば私に対するテストではないかと思い内心ビクビクした」が、「次第に自分ではないようだ」と思い、永田に迎合して「アラさがしをする如く」Fについての「問題点」を列挙した。吉野は、Fがかつて革命左派に入ったのは組織が小さいのですぐに幹部になれると思ったからだと言っていたこと、印旗沼事件の男性メンバーの殺害の際に殺害を吉野らに任せて車の中に残り日和ったこと、札幌のアジトから永田と坂口を先に上京させたのは安全に上京できるかを確認するためだと言っていたことなど、過去の言動を批判的に語る。これを聞いた森と永田はFへの批判を強める。 この頃、山岳調査中のF、坂東に「総括ということがよく分からない」と相談、坂東は「総括は必要なことだと思う」と答える。
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