相橋・大及打・妙慶川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:46 UTC 版)
「鳥羽 (鳥羽市)」の記事における「相橋・大及打・妙慶川」の解説
相橋(あいはし)は妙慶川(みょうけいがわ)に架かる橋である。妙慶川と相橋は、室町時代以前に伊勢国と志摩国の境界をなしていた。相橋とは伊勢国と志摩国が相まみえるところの橋という意味である。嫁入りと葬式の際には相橋を渡ってはいけないという風習があった。 江戸時代には相橋に鳥羽城の堀口門が置かれ、大山祇神社への参道にあたる橋でもあったことから、重要な地点であった。妙慶川は鳥羽城の堀として利用された。上述の大及打(おおぎっちょう)は人形(ひとがた)、祷人(とうにん、宮守り役)の妻の毛髪、櫛、笄(こうがい)を詰めた小俵を相橋の上で引っ張り合うという祭りであった。「エイサラサ」、「サラサノサ」の掛け声で3度小俵を引き合うが、かつて伊勢国であった妙慶川の北側を志摩国に編入したという歴史を踏まえ、必ず志摩国側(妙慶川の南側)へ引き入れていた。3度目の引き合いの後、小俵は海へ流し、社宮司(現・大山祇神社)の山へ駆け上り、神楽太鼓を叩き、その後町へ下りて「大及打の初穂」と称して各戸を巡回し、米銭を集めて祭りは終了となった。祭りの間、相橋は通行が禁じられるが、その下の妙慶川を船で行き来するのは自由であったため、ある時相橋から落ちてきた小俵が航行中の兵庫の伝馬船へ転がり込み、その船と船の持ち主の俵屋に幸福をもたらしたという昔話が残っている。 妙慶川の周辺は1977年(昭和52年)以降の土地区画整理事業により変貌しているが、相橋の周辺は江戸時代の雰囲気を残している。
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