「共産主義化」
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本事件において当事者たちが異口同音に証言するキーワードとして「共産主義化」がある。本事件における実質的な主導者であった連合赤軍最高幹部の森恒夫は、「銃による殲滅戦」(警官殺害・銃の強奪を目的とした交番襲撃)の遂行のため、「革命戦士の共産主義化」の必要性を説いた。「革命戦士の共産主義化」とは、赤軍派において1969年の大菩薩峠事件における大量逮捕からの自供によるさらなる逮捕者が発生したことの総括として提示されていたものであった。 大菩薩峠事件当時に赤軍派に在籍していた当事者でもあった重信房子は大菩薩峠事件による大量逮捕により「共産主義化」が求められるようになった経緯について以下のように振り返っている。 赤軍派は「闘うこと」に純化して準備なく闘い、権力の弾圧にさらされた。当初から指導していた人たちがつぎつぎと逮捕され、軍事に一面化していくことで、戦闘団化し、権力の集中的な弾圧の中で解体していく根拠を、当初から形成していくことになった。これまでブントは「党」というよりも良くも悪くも学生運動の「大衆闘争の指導機関」の実態でしかなかった。しかしその実態を自覚し、大衆的でラジカルな多様な運動を求める道をとらなかった。武装闘争を担い、権力との攻防が先鋭化してはじめて、組織の質が問われたのである。思想的にも物質的にも、敵に打ち勝つ組織をどうつくるのか。それが、のちに赤軍派から「共産主義化」として連合赤軍へ引き継がれる内容でもあったと思う。 森はその時問われた「共産主義化」の実践のために革命左派が赤軍派との合流前から自然発生的に行っていた「自己批判-相互批判」の討論形式を取り入れたのだという。 森の「共産主義化」形成のイメージは新倉ベースで森自身が語った説明によれば以下のようになるという。 一二・一八上赤塚交番襲撃闘争(一九七〇年)は、敵との政治的な攻防関係が”殺すか殺されるか”にあることを突き出すとともに、殲滅戦に勝利するためには、まず銃による武装を勝ちとらなければならないことを明らかにした。二・一七真岡銃奪取闘争(一九七一年)は、この一二・一八闘争の実践的総括として闘われたが、それによって、奪取された銃は、敵の集中的弾圧を引き出し、”殺すか殺されるか”の戦争状態を形成し、奪取した銃を守る闘いを要求した。 革命左派は山岳への撤退を通して、銃を守る闘いに挑戦してきた。 銃奪取闘争の実践的総括は銃による殲滅戦であるから、それは銃を握る主体の革命戦士化、即ち共産主義化を要求する。 革命左派は、山岳ベースでの自己批判と相互批判の討論を組織して、この課題に挑戦してきた。即ち、共産主義化の萌芽を闘いとってきた。 奪取した銃による殲滅戦は、その繰り返しによって味方の武装を発展させ、団結を強化する。それはやがてプロレタリアート独裁を樹立するであろう。それゆえに銃から国家権力が生まれるのだ。 — 森、 後に連合赤軍幹部の吉野雅邦は森が言うところの「共産主義化」された兵士像を、「警官狙撃を何のためらいも畏怖感もなく、欲求として実行でき、非情なる殺人者となり、自らの死を恐れず、どんな苦難、苦境にも平然と耐え、乗り越え、全感情を革命戦争の遂行・勝利に服属させ、一切の非革命的心情を払拭しきった『悟り』に達した戦闘員といったもの」であったと推測している。 森は事件直後に書いた「自己批判書」において、「共産主義化」のための総括要求の論理を、 短期間に個々人の内在的総括をなし切らねばならない 暴力による指導、暴力による同志的援助が必要である 総括し切れない者には、命がけの状況(ロープで柱に縛りつけ、食事も与えない)を強要して総括させ、決して甘やかしてはいけない 縛られた者は、たとえ片腕を失くしても革命戦士になろうとする気概をもって総括すべきである 縛られた者が総括し切るという事は0から100への一挙的な飛躍である といった論理が次々と作られていったとしているが、森に準ずる形で事件を主導していた永田洋子をはじめとして多くのメンバーが森の理論を正確に理解できないまま事件に関わっていたことが彼らの手記から窺える。連合赤軍幹部の坂口弘は「森君の共産主義化の観念は、固定しておらず、総括の進行に伴い、さらに過激化していったため、一度、総括を認められれば、それで完了というようなものではなかった」とし、「終わりなき思想闘争、または思想改造であった」と回想している。また、坂口は控訴審の供述を前に森の「自己批判書」や遺書を分析するまで「共産主義化とはそもそも何なのか。実は、こんな初歩的問題ですら、事件から十二年も経つのに不明だったのである」と記し、永田も「『共産主義化』という最も肝心な問題一つとっても、その必要性が強調されながら、一体それは何なのかを論じ合ったことは一度もなかった」と記している。総括要求されたメンバーの中には、永田ら指導部メンバーや総括要求された当人すら何が問題とされているか分からない者もいたという。 坂口は事件当時の森の「認識」を以下のように解釈している。 総括を統一的連続的に捉えていた彼は、極左の絶対論理をつくる過程に登場し、連合赤軍に敵対すると見なした人達に行使すると宣言した暴力を、総括対象者に向け具体的に行使した。だが、この暴力は仲間に総括を促す手段であって、敵対分子に対する制裁ではないと、彼は認識していた。森君の際立った特徴は、行為と認識がつねに一致しておらず、分裂していたことである。(中略)彼は、自分の行為によってもたらされた客観的現実に己の認識を合わせるのではなく、反対に己の認識に客観的現実を合わせようとした。共産主義化に凝り固まった彼によれば、殴っても”援助”なのであり、殺害しても相手の”敗北死”なのである。そして、”私憤”で殴ったり、”反革命分子の死”だとか”殺した”とか言った者は、総括の趣旨を歪めたと見なし、摘発して総括にかけずにおれなかった。(中略)極論すれば山岳ベース事件は、森恒夫の観念世界の中で起きた出来事なのであった。 — 坂口、 連合赤軍被指導部の加藤倫教は後に総括討論の様子をこう振り返っている。 物言えばやられるのだが、物を言わないわけにはいかない。それもどのように言えば森や永田に認めてもらえるのか、誰にも分からなかった。何が基準なのか分からない「総括」要求と暴力に、森と永田以外の者は怯えていた。(中略)その恐怖心をかろうじて押さえ込んでいたものは、革命を実現するためには「銃による殲滅戦」を行なうしかないという信念、それだけだった。 — 加藤、 連合赤軍被指導部のbはインタビューにおいて森らの追及の様子を聞かれてこう答えている。 「本人は闘えると思っているからやって来たんだから、『やります』とか答えるんだけど、そんなじゃ総括になってないと言われ続ける。具体的な問題を問うんではなくて、『あのときこう考えただろう』と訊かれて、実際はそうではないのに、何度も問われるうちに、『思ったかもしれない』とポロッと答えたら、『それがおまえの問題だ』と追及される。最終的にやってもないことを問題にされる」 — b、 「連合赤軍事件の全体像を残す会」の会員として、事件の当事者との交流もある椎野礼仁は「完全な私見」として、事件の原因に連合赤軍がたまたま銃を大量に所持していたことを上げている。爆弾が「人が死ぬことの因果関係が蓋然的」で「投げれば、必ず人が死ぬわけではない」のに対し、銃は「引き金を引く時、必ず人は死ぬ、あるいは重傷を負わせることになる」ため、連合赤軍では「個人個人がその銃を撃つことができるのか」が問われ、それが共産主義化の論理と相まって悲劇に繋がっていったのではないかと指摘している。 永田らは裁判においても本事件がただの「リンチ殺人事件」や「内ゲバ事件」ではなく、「共産主義化の闘争」による「革命運動場上の問題」であったことを裁判において訴え続けたが彼らの主張はほとんど認められなかった。 メンバーの多くが少なくとも事件当時は「銃による殲滅戦」とそのための「共産主義化」の必要性を感じていたことが各々の手記から窺える。総括対象に対する暴行も、「党の方針であるから」、「遅れている」自身を克服するため、あるいは「日和ってはいけない」との思いから加担していたという。暴行に対する疑問を抱いたメンバーも少なくなかったようであるが、異議を唱えることに対する恐怖や、「共産主義化というこの論理を僕らは突破するものを持っていなかった」(植垣)「よりよい方針が出せなかった」(b)ため異議を唱えることができなかったのだという。 連合赤軍幹部の坂東國男は森を含む指導部が事件において「動揺」していたことを逮捕後の各々の手記で知ったといい、永田が自著『十六の墓標』で書いている「動揺」は事件時には気づかず、周囲には「動揺しない、感情のない鬼ババア」にしか見えなかったとし、「動揺」していた坂東自身もまた周囲には「鬼のように冷酷」に見えていただろうとしている。その上で全員が「動揺」していたのだから、誤りを修正する「真の革命の勇気」が必要であったとする。それができなかった原因に「指導者は優れていなければならない」という論理が虚勢を生み、本音を隠し、建前が横行し、失敗を他者(総括対象者)のせいにしていったことを上げている。 bは、指導部における森への反論の可能性について問われ、こう答えている。 「言えたのは、赤軍の幹部だったAぐらいだろうけど、彼は山に入る前のところで、一度組織を離れている。だから、それを森から突かれるんだよね。坂口も『おかしい』と態度では示しているんだけど、どこがおかしいのか言葉にはできない。Aは言えるんだけど、日和っていた弱みを持っている。もともとは、森とAだと、Aのほうが赤軍の組織のなかでは上にいたんだけど、組織が大変なときに長期休暇をとっていたもんだから、立場が弱くなっていた。吉野は、行動力があって頑張るんだけど、論理は足りないというか。坂東は、森の用心棒みたいなやつだったし」 — b、 森は自死の直前にはこの「共産主義化の要求」自体を「ぼくの小ブル的人生観を恣意的に作り上げたものへの帰依の要求」であり、「他の同志の階級性の解体の強要」であったとして自己批判している。「総括」を要求されたのは、森自身が築き上げた「極左路線」「『銃—共産主義化』論」「独裁制」に疑問や反対した者であり、「過去の闘争の評価等をも含めてぼくの価値観への完全な同化を強要」した結果に「粛清」があったとしている。
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