「兵」の時代の「武士団」の結合度
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「武士団」の記事における「「兵」の時代の「武士団」の結合度」の解説
武士、または武士団の結合度は、「忠君孝親」というような江戸時代に儒教から輸入された武士道とは全く無縁であるのはもちろん、同じように武士道とは無縁であった戦国時代のイメージからもほど遠く、極めて緩やかなものであった。 しかし当時の武士の主従には2種類がある。例えば源満仲の拠点は摂津国の多田荘であり、源満仲はそこで狩りなどを通じて家人の軍事訓練を行っている。そして、『今昔物語集』巻19第4話「摂津守満仲出家せる語」で源満仲は出家した我が子に「我が心に違う者有れば、虫などを殺すように殺しつ、少し宜しと思う罪には手足を切る」と嘆かれている。簡単に家人を殺すのは武士ならではであっても、しかしその家人・眷属に対する生殺与奪の絶対的権力は当時では武士に限った話ではない。 それとは別に、互いに独立して家を構える武士同士の場合は、上下関係はあっても、「同盟」に近いものがある。いわば、主人の会社の終身雇用の社員ではなくて、契約に基づく協力会社、下請け企業である。あるいは共同組合のような場合すらあった。下請け企業が複数の元請け企業に仕事をもらうのは当たり前であり、当時の武士団の上下関係もまたそのようなものであった。 この2つを「家人」・「家礼(けらい)」と区別する。用語自体が確定していた訳ではないが、例えばこのような例がある。 吾妻鏡 1180年(治承4年)10月19日条…源氏の人々に於いては、家礼猶怖畏せらるべし。矧やまた下国を抑留す如き事、頗る服仕の家人に似たり。 則ち短札を送るべしと称し、状を彼の知盛卿に献りて云く、加々美下向の事、早く左右を仰せらるべきかと。卿盛綱の状を翻し裏に返報有り。その詞に云く、加々美甲州に下向の事、聞こし食され候いをはんぬ。但し兵革連続の時、遠向尤も御本懐に背く。急ぎ帰洛すべきの由、相触れしめ給うべきの趣候所なりと。 要するに、平家を見限った甲斐源氏の加々美長清が、老母の病を口実に東国へ帰ろうと考え、それを平知盛(平清盛の四男)に申し出たところ許しては貰えなかったが、高橋判官平盛綱はその真意に気づきながらも、「家人のように抑留すべきでない」と平知盛に口添えをしてくれて、やっと知盛の許しを得たという話。もちろん加々美長清は富士川の戦いで、頼朝のもとに馳せ参じる。 当時、複数の主人に名簿(みょうぶ)を差し出して臣従することも、「兵」の世界だけでなく、貴族社会一般のごく普通のことであった。これも下請企業と考えればそう不自然なことではない。臣従はこの時代には極めてルーズな関係であった。名簿(みょうぶ)を差し出すことによって得られる対価が何であるかによってもその結合度が変化するのは当然である。単に儀礼的なことだって場合によってはあった。 平安時代も末期とならない限り武士の世界において領地を与える(新恩給与)、あるいは領地の所有権を保証(本領安堵)するなどはありうべくもない。例えば源頼信はおろか、源頼光でさえそれを出来る立場にはない。これは源義家とて同じである。領地の安堵の手段はその地の郡司、郷司、国衙の在庁官人となるか、あるいは権門に荘園として寄進するかである。それとて先に見たとおり確実ではないが。
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