「兵庫島」の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 03:42 UTC 版)
「兵庫島」のある場所は、古来は多摩川と野川のデルタ地帯であり、兵庫島ももともとは完全に島の形をしており、また洪水のたびに何度か移動していたという。それが、洪水によって他の河川敷と陸続きになり、現在に至る。 公園の掲示等によると、「兵庫島」の名がつけられたのは中世である。 1358(正平13)年に新田義貞の次男である新田義興が、兵庫島の上流の矢野口(現・東京都稲城市。この件については後述)の渡で多摩川を渡河した際に江戸荘領主の江戸遠江守の策略によって、底に栓が仕掛けられた船に乗ってしまう。船頭が栓を抜いて逃げるのと同時に足利方軍勢が攻めかかり、義興はもはやこれまでと自害する。しかし、気強い従者達には川を泳ぎきって敵兵に立ち向かい、自害して果てる者もあった。中でも由良兵庫助・新左衛門の兄弟は、舳先にたち、刀を逆手に取り直して互いに自分の首を切り落とした。 その壮絶な死を遂げた由良兵庫助の死体が多摩川と野川の合流部にあるデルタ地帯の島に流れ着いたのであるが、これに対して村人達は災いを恐れて兵庫助をこっそりとこの島に供養した。これが兵庫島の名の由来であるとされる。 不思議なことに、この中州はその後どんな洪水のときでも流されることはなく現在まで残ったという。 なお、東京都大田区の新田神社の記事に示されているとおり、義興主従の最期の地は同神社付近の「矢口渡」とするのが一般である。ただし、そうであれば矢口渡よりも数キロも上流の兵庫島に兵庫助が流れ着くはずはない。また当公園に関する案内や資料には「稲城長沼の渡し」や「府中付近」などの文字が見られることがある。そのため、「矢口渡」は「矢の口(矢野口)の渡」の誤りではないか、とする説があり、本記事はそれに拠っている。これと対立する説を付言すると、当時の多摩川は川幅が現在よりもはるかに広く、満潮時には逆流したことも考えられるため、矢口渡から死体が流れ着くことも考えられるとするものがある。
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