「兵士の父」とは? わかりやすく解説

「兵士の父」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/12 07:45 UTC 版)

ゲオルク・レーバー」の記事における「「兵士の父」」の解説

1972年7月財務相転じたヘルムート・シュミット後任として国防相転じる。彼はドイツ連邦軍軍人国防省職員から敬愛され、「兵士の父」というあだ名奉られることになる。就任直後1972年9月11日正体不明航空機西ドイツ領空侵入し国防相として迎撃するか否かの対応を迫られた。この飛行機前日終了したミュンヘンオリンピックが行われていたミュンヘン・オリンピアシュタディオン上空にさしかかりオリンピック間中イスラエル選手団に対して行われたテロ事件のこともあり、難しい対応を迫られた。彼は待つことに決したが、この選択正しく、実はこの航空機乗客100人を乗せたフィンランド航空旅客機であり、自機電子機器故障したことに気づいていなかったのである1973年7月前任者シュミット推進したミュンヘンハンブルクでの連邦軍大学設置正式に発令。これによりドイツ連邦軍士官教育一環として軍事研究可能になった。同年ドイツ連邦軍改革連邦議会提示し陸軍三個旅団増設された。1975年にはドイツ連邦軍初め医療分野に限って女性士官任用に道を開いた1976年ナチス・ドイツ空軍英雄であるハンス・ウルリッヒ・ルーデル空軍会合招いてルーデル過去SPD重鎮政治家ヘルベルト・ヴェーナードイツ共産党での活動歴なぞらえて正当化した将軍二人を、レーバー退役させた。この人事に保守系野党反対して反対動議提出したものの、連邦議会における僅差議決承認された(ルーデルスキャンダル)。 1978年連邦軍防諜課が彼の女性秘書東ドイツ国家保安省協力者疑い、その自宅許可なく盗聴していたことが発覚レーバー自身関与していなかったが、シュミット首相反対にかかわらず2月16日責任取って国防相辞任した。のちにこの秘書無実であると判明した。この事件雑誌による暴露発覚したもので、同時に西ドイツ共産主義者連盟対す盗聴報じられたが、これについては彼は沈黙した関与していなかったとも、また合法思っていたともいう)。のちにこれは違法であると判断されている。なおレーバー1969年自分選挙区選対事務局長ギュンター・ギヨーム首相府スタッフ推薦しギヨームはのちにブラント首相個人秘書になるが、実は東ドイツ送り込んだスパイであることが判明しブラント辞任する事件発展している(ギヨーム事件)。この事件はそうした世相の中で起こったものであった

※この「「兵士の父」」の解説は、「ゲオルク・レーバー」の解説の一部です。
「「兵士の父」」を含む「ゲオルク・レーバー」の記事については、「ゲオルク・レーバー」の概要を参照ください。

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