「総括」要求の開始
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「山岳ベース事件」の記事における「「総括」要求の開始」の解説
12月2日 - 革命左派の軍事訓練参加組が新倉ベースへの山道に到着する。革命左派の者達が水筒を持っていなかったために、出迎えた赤軍派の植垣康博がベースに水筒を依頼した。 12月3日 - 早朝、植垣が革命左派の昼食のための握り飯をベースに依頼。赤軍派(B・C)は午前中に水筒を届けに来たが、水筒を用意していなかった革命左派を批判した(水筒問題)。昼に握り飯を届けに来た赤軍派(a)も、水筒問題で革命左派を批判する。こうした赤軍派メンバーによる相次ぐ水筒問題への批判は森の指示によるものだったという。革命左派は午後に新倉ベースに到着するが、出迎えた森らは水筒問題で革命左派を批判。永田は水筒問題について自己批判を行う。 夕食後に赤軍派9名(森・坂東・A・植垣・a・B・C・D(女性メンバー)・E)、革命左派9名(永田・坂口・F・吉野・G・H・b・c・e)による顔合わせ全体会議が行われた。赤軍派の9名は逮捕者を除いた同派非合法部の全メンバー。A・D・E・aは合法部から非合法部に移って間もなかった。革命左派の9名は同派非合法部の選抜メンバー。多くのメンバーは榛名ベースに残され、この時はベースの建設作業をしていた。 12月4日 - 朝、合同軍事訓練開始。森は永田を呼び止め2人で会議。森は赤軍派の合同軍事訓練参加メンバー全員が「革命戦士として戦っていける」と評価した上で永田に革命左派が保有していた銃を赤軍派に譲渡することを要請。永田はこの要請を保留し、赤軍派の女性メンバーDが合法時代と同じ指輪をしていたことを「革命的警戒心が足りない」として批判し、Dの革命戦士としての資質に疑問を投げかける。 夜の全体会議にて赤軍派は米子闘争を自己批判。森は革命左派にkの脱走と是政大量逮捕の総括を要求した。 12月5日 - 森は革命左派にkの脱走と是政大量逮捕の総括を再度要求する。永田は前日森に指摘していたにもかかわらずDが指輪をしていたことに気づき、他の革命左派メンバーと一緒にDの身なりや闘争に対する姿勢を批判した(D問題)。Cが「差し出がましいようですが、何が問題なんですか」と革命左派メンバーに尋ねた他、赤軍派メンバーの多くにはDの何を問題とされているのかがわからなかったという。最終的に永田は赤軍派批判を始め、「赤軍派は苦労してないのよ」「このままではとても一緒にやっていけない」と言って寝てしまう。 12月6日 - 赤軍派メンバーのみでD問題を話し合う。森は革命左派のD批判は赤軍派全体に対する批判でもあり、メンバー全体で責任を持って解決していくこと、D自身もこの批判に責任を持って応えていく必要があることを主張。この中で森は革命左派がベースを脱走したメンバーをすでに殺害している(印旛沼事件)ことを赤軍派メンバーに明らかにし、これを踏まえて「山を降りたものは殺す」と宣言。 森は革命左派に対して赤軍派が革命左派のD批判を受け入れ、Dが総括できるまで山から降ろさず、山を降りる者は殺すと確認したと表明する。これを受けて永田は「言葉だけではなく必ず総括させてほしい。総括できるまで山から降ろさないでほしいし、なるべく早く総括してほしい」と答える 。森はここで永田が言った「なるべく早く」という言葉を重く受け止め、以降の総括要求において「総括期間は短期間でなければならない」と考えるようになったとしている。森はこれに続いて、「作風・規律の問題こそ革命戦士の共産主義化の問題であり、党建設の中心的課題」であるとし、「各個々人の革命運動に対するかかわりあい方を問題にしなければならない」と表明。赤軍派メンバーは夕食後にDを、森はEを批判。 12月7日 - 共同軍事訓練最終日。全員が軍事訓練の感想を言い、感激した意見が続き、「全体に団結の雰囲気が盛り上がった」。森は自身の生い立ちから第2次ブントにおける敵前逃亡の総括まで長時間に渡り語る中で感極まって泣き出し、もらい泣きする者も出、坂口も胸を熱くしたというが、永田にはその涙の理由がよくわからなかったといい、坂東も泣いて感動するほど団結したとは思えず戸惑ったという。永田・坂口を除く革命左派メンバーは夕方に新倉ベースを去る。森、永田に対しBを批判。 12月8-10日- 森は永田・坂口や赤軍派メンバーに「銃による殲滅戦」のための主体の「共産主義化」の必要性を説く。これを聞いた永田は自身が革命左派内で掲げていた「銃を軸とした建党建軍武装闘争」をより一層理論化したものと考え、森に対する信頼を持ったという。森によるBとDとEへの批判は続き、森は3人に雪の降る屋外での射撃訓練(実弾は使用せず射撃の構えをひたすら繰り返すというもの)を命じる。9日に、次回指導部会議を赤軍派都内アジトまたは革命左派榛名ベースで12月20日に開催することが決定される(最終的に榛名ベースで行われることになった)。永田と坂口は10日に新倉ベースを後にする。ベースを後にする際、森は永田に「意識的な共産主義化の獲得の必要」を確認できたことの意義、革命左派が永田を中心に自然発生的とはいえ自己批判・相互批判を通して「共産主義化」へ向けた取り組みをしていたことを評価。その上で森は永田を「共産主義者」として評価した。永田はこれを好意的に受け入れた。 12月12日 - (榛名ベース)永田と坂口が榛名ベースに帰還。永田は新倉ベースで森と確認した「共産主義化」の重要性を革命左派メンバーに説明 。 12月14日 - (新倉ベース)Aが上京。森はB・D・EをAの足跡消しに向かわせた後、植垣らにBたちの逃亡の警戒の必要性を説き、彼らのナイフや金銭を取り出し、弾薬を隠すよう指示。 (榛名ベース)18日に行われる赤軍派と革命左派両派の救対による十二・十八柴野春彦虐殺弾劾追悼一周年集会に永田らが書いた革命左派のアピール文を届けるためGとeが上京。 12月中旬 - 是政アジトで逮捕されたI・dが釈放される。 (新倉ベース)この間も、B・D・Eに対する総括討論と射撃訓練が続けられた。森は3人の総括を聞き、「総括しつつある」あるいは「総括しうるだろう」と判断して坂東と共に榛名ベースに向かう。森は榛名ベースへ出発する際に植垣とaに、Bたちを厳しく監視すること、Dが植垣を「たぶらかして取り入ろうとするかも知れない」から注意することを指示。 12月17日 - (榛名ベース)永田達は18日の十二・十八柴野春彦虐殺弾劾追悼一周年集会で主催者名がこれまでの「京浜安保共闘と革命戦線」ではなく「革命左派と赤軍派」になっている事をKから知り、これを永田ら「軍」に確認せずに独断で決めた革命左派獄中指導部(川島豪ら)を批判。十二・十八集会にbとfを派遣し、先にGとeが提出した革命左派のアピール文とは別に「軍」としての発言を要求することを決める。 12月20日 - 森と坂東が革命左派との指導部会議のため榛名ベースに到着。森はDらは総括したと報告。森は全体での挨拶の中でのJの発言を問題視して批判、永田とFがJを擁護するが、森は撤回せず擁護した2人を批判した。森はHを全面評価する一方で、Hを除く革命左派メンバー、特にKを「軍人らしくない」として批判。赤軍派の評価基準で革命左派メンバーを評価されたことに反感を持った永田は、批判されたKを過去の自分を自己批判して「頑張っている」と擁護し、全面評価されたHを「第三者的に批判するところ」に問題があるとして森の評価に反論した。森は徹夜での会議を提起し、中国の革命戦争史を「共産主義化」の観点から理論化してみせた。これを聞いた永田は森が革命左派メンバーよりも毛沢東思想に対する理解が深いことに心酔し、理論的指導者としてより信頼するようになったという。 12月21日 - 十二・十八集会に参加していたbとfが帰還し、集会での軍としての発言を合法部に拒否されたことを報告する。これを聞いた森は赤軍派の救援対策組織であるモップルを批判し、「赤軍派と革命左派が別々に共産主義化を獲ち取るというようにするのではなく、銃と連合赤軍の地平で獲ち取っていくべき」と主張。これに共感した永田は赤軍派と革命左派が「我々になった」と発言し、森もこれに同意。路線問題を排除したまま「共産主義化」によって両派が合同する路線が定まった。 この後の雑談の中で、森が坂東に対して「結婚しても闘っていくことが指導者として必要なのではないか」と発言。永田がこれを受けて、「『我々になった』のだから」として坂東に革命左派メンバーのfとの結婚を提案。坂口が賛成し、森も勧めた。会議後、永田はfに坂東との結婚を提起。fは他の活動家に好意を持っていることを永田に明かしたが、その人と結婚する意思がないのならと改めて坂東との結婚を勧めた。坂東とfは2人で話し合い、この日の夜全体会議の後、坂東により2人が結婚することが発表された。 永田は「我々になった」ことを受けて森に革命左派のメンバーを指導することを要望し、森はこれを承諾。「我々になった」ことが公にされた全体会議において各自が発言する中でJが「2人の時(印旛沼事件において脱走メンバー2名を殺害したこと)にいてよかった」と発言し、森はJに対して「そんなこと言っていいのか」とその場で批判。この時、印旛沼事件に関しては実行メンバーと幹部を除く大半の革命左派メンバーが事件の存在すら知らなかった。 夜にIとeが榛名ベースに到着。G・eが連名で書き、I・dがその内容に同意したとする永田ら革命左派獄外指導部に対する「意見書」を永田らに提出。「意見書」は「十二・十八集会の主催を『革命左派と赤軍派』としたことは死亡した柴野春彦が革命左派メンバーであったから当然であること」、「獄内指導部(川島ら)・合法部・非合法部(永田・坂口ら)は互いに連携を深めるべきであること」「十二・十八集会で発言を拒否されたbとfが合法部に対して『分派活動だ』と言ったことを自己批判すべきであること」を主張したものであったが、即座に永田に批判され、Iとeは意見書について自己批判をする。 Lが妻(以下h)と子供(乳児)を連れ榛名ベースに到着するが、Lは自分一人の判断で妻と子供を連れてきたことを自己批判。 永田は、Iが取り調べ中に雑談したこと、Kが警察によるベース発見を懸念して銃の埋めてある場所の地図を救対に渡したことを聞いて2人を批判し、Iに総括を要求する。Kが自己批判する。 12月22日 - 森はIとJが革命左派被指導部の歌をリードしているのを問題視してこの歌を批判し、Fが被指導部に歌をやめさせる。夜になって、Iは取調べでの雑談を自己批判し、森に追及される。森は各自に総括を要求。指導部会議(森・永田・坂口・坂東・F・吉野。23日からAも加わる)は未明前に終了。 12月23日 - 朝、指導部会議が始まる。夕方、Aが榛名ベースに到着。指導部会議は夕食後に再開され、未明近くに森はIとJを批判して指導部会議は終了した。この中で森は「上からの党建設」を強調。森は赤軍派が「上からの党建設」を追求してきたのに対し、革命左派は「下からの党建設」であるが故にその共産主義化の闘いも自然発生的に留まったとし、「上からの党建設」により共産主義化を推し進めることを主張した。 12月24日 - 昼に始まった指導部会議で、森は革命左派の最高指導者であった川島豪を批判。 その後森は1969年7月6日に起こった第二次ブンド内における赤軍派と他派間での内ゲバ事件である「七・六問題」を語る。森は「七・六問題」そのものではなく森自身がその時に「戦線逃亡」したことに対する総括を語り出し、自身が「戦線逃亡」したことを「一から十まで間違ったもの」として総括し、「別党コース」をもっと徹底すれば「戦線逃亡」することはなかったとし、「別党コース」の徹底には「共産主義化」の観点が必要だったと語った後、「もう総括できたもんね」と言った。永田はこの森の総括が内ゲバを正しいものと位置付けて徹底して行うべきだったとするものであり、暴力的分派闘争の強調に繋がったとしている。 夜遅く、被指導部がIのリードで歌を歌っているのを森が再び問題視し、Fに歌をやめさせる。森はIとJを改めて問題視。永田が2人で討論させて総括を深めさせるよう提案すると、森はこれに同意した上で2人を作業から外し討論させることを決定 。 12月25日 - 指導部会議において森は川島豪を改めて批判。革命左派結成当時に川島と共に指導的立場を担い川島による方針の過激化と共に1969年末に組織を離脱した河北三男に対して森は「脚の一本や二本へし折るくらいのことをすべきだった」と発言。坂口にとっては森の川島批判は「デタラメな決めつけ」でしかなく「新党など創れるはずがない」とまで考えていたが、これに反して永田は森の批判に迎合していき川島を批判しだしたという。 森は作業から外して討論させていたIとJが「総括する態度ではない」として、2人を別々に正座させることを決定。森はそれまで2人を「I君」「Jさん」と呼んでいたのをこの時から「I」「J」と呼び捨てにするようになり、次第に他のメンバーもこれに倣うようになった。さらに森は「総括に集中させるため」としてIとJに食事を与えないことを決定。 12月26日 - 森は永田が「自然発生的に共産主義化を獲ち取ってきた」経緯を明確にするためとして永田の生い立ちを尋ねる。森は永田が労働者の娘であったことを共産主義化の獲得に結びつけて解釈した。 指導部会議にて「共産主義化」の観点からAがタバコをやめると表明すると、坂口もこれに続く。タバコをやめることが「共産主義化」の獲得に必ずしも繋がるとは考えなかった永田が「自発的に行うべき」として自身はタバコをやめないことを表明すると森もタバコをやめないと表明。森、自身の妻子を入山させる意思を語り、Aにもこれを要求する。Aは承諾する。 夕食後、全体会議。森は赤軍派は「上からの党建設」、革命左派は「下からの党建設」であったとし、「共産主義化」の獲得には「上からの党建設」が必要であることを主張。全体会議後、被指導部メンバーは就寝、指導部メンバーは指導部会議に移った。森は改めて川島批判を展開し、革命左派に川島との訣別と分派闘争を迫る。
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