思想形成
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平壌で最初の兵役に就いた際、丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたという。丸山は戦後、「実際、兵隊に入ると『地方』の社会的地位や家柄なんかはちっとも物をいわず、華族のお坊ちゃんが、土方の上等兵にビンタを食らっている。なんか、そういう擬似デモクラティック的なものが相当社会的な階級差からくる不満の麻酔剤になっていたと思われるのです」と語ったが、影響の大きさに「日本の軍隊の持っていた、そういうパラドキシカルな民主的性格というものを、もっと言っておかないといけないんじゃないか、と」とも述べた。
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思想形成
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プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って問答(エレンコス,ἔλεγχος)することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。 しかし、実際に賢者と世評のある政治家や詩人などに会って話してみると、彼らは自ら語っていることをよく理解しておらず、そのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですら、たしかにその技術については知者ではあるが、そのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。 こうした経験を経て、彼は神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているのだと理解しつつ、その正しさに確信を深めていくようになり、更には、「神託において神がソクラテスの名を出したのは一例」に過ぎず、その真意は、「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神の助力者」「神への奉仕」として、ソフィスト達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとするようになる。 これらの説明をそのまま鵜呑みにするならば、後世への影響のあり方はさておき、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、「神々(神託)への素朴な畏敬・信仰」と「人智の空虚さの暴露」(悔い改めの奨励、謙虚・節度の回復)を根本動機としつつ、「自他の知見・霊魂を可能な限り善くしていく」ことを目指すという。(彼の知の探求と神々への畏敬の関係は動機と手段の関係とも、手段と動機の関係とも言える) (古代ギリシャの伝統的な世界観・人間観では、例えばヘシオドスの『神統記』に、嘲笑的に「死すべき人間たち」という表現が繰り返し出てくること等からもわかるように、「世界を司り、恒久的な寿命と超人的な能力を持つ」神々に対し、人間は「すぐに死に行くはかなく無知な存在」「神々には決してかなわない卑小な存在」と考えられていた。また、ソクラテスも影響を受けたデルポイのアポロン神託所、その入り口に「汝自身を知れ」(分をわきまえろ、身の程を知れ)や「度を越すことなかれ」といった言葉が刻まれていることからもわかるように、古代ギリシャ人にとっては、「節制」(節度)がとても重要な徳目であった。ソクラテスの思想・言動は、基本的にはこれら古代ギリシャ当時の伝統的な考え方に則り、それを彼なりに継承・反復したものだったと言える。)
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思想形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:35 UTC 版)
「麻原彰晃#成人前」および「#他の終末預言宗教との比較」も参照 後にオウム真理教の教祖となる麻原彰晃こと、松本智津夫は、熊本県立盲学校小学部の時、文句を言わず思い通りに働いてくれるロボットをたくさん作って、ロボット帝国を築くと語っている。左目は緑内障で見えなかったが、右目の視力は0.3-0.4はあったとされ、ソフトボールを受け止めることができた。中等部では、5歳下の下級生を子分とし、金も渡さずに駄菓子屋に菓子や飲料を買いに行かせたり、カバンを持たせたり、殴ったりした。高2の時には光源氏について脚本を書き、麻原が主役を演じた。バンドをつくり下級生に楽器を弾かせ、西城秀樹を歌い、寮祭では西城秀樹の「ちぎれた愛」からタイトルをとった劇を自作自演した。高3時は身長175cm、体重80キロと体格はよく、柔道部でも活躍した。麻原の将来の夢は総理大臣で、田中角栄の伝記を読んだ。高等部(または専攻科)在籍時に生徒会長に立候補した時には、年下の女子生徒を4-5人引き連れて選挙活動をした。盲学校では児童会長、生徒会長、寮長と何度も選挙に立候補したが、一度も当選しなかった。専攻科では、自治会で忘年会や寮母への感謝行事の廃止や、寮祭予算の削減などを主張、議事が混乱した。 無許可薬品の販売で漢方薬局を閉鎖したり再開していた若い時期には、気学、四柱推命、奇門遁甲などの中国運命学、特に仙道を修行し、気を体内に循環させ尾骶骨付近に眠っている霊的エネルギーを一気に頭頂に突き抜消させる大周天を習得し、さらに幽体離脱、手当て療法などの超能力を身につけたという。 宗教団体GLAの教祖で釈迦の生まれ変わりとされた高橋信次の全集を読み、また長兄の影響で創価学会や阿含宗の著作にのめり込み、阿含宗に入った。教祖桐山靖雄はクンダリニーを覚醒させ即身成仏したとし、また意志すれば着火できるとも主張し、信者には千座行によってカルマから解放され、クンダリニー・ヨーガによってチャクラを覚醒し超人になることを説いた。また桐山は大脳生理学や深層心理学等も借用し、1970年代のオカルティズムと超能力の国際的ブームに乗って若者に影響を与えた。3年間(阿含宗側は3ヶ月とする)在籍した麻原は阿含宗が千座行で毎日金を寄付させるのを後に批判している。阿含宗からは仏教・密教以外にも、用語、ヨーガ、超能力、終末観などに関しても麻原は影響を受けたが、オウムでは終末を回避不能とするなど阿含宗とは教義上の違いがある。独立後の麻原は桐山よりもヨーガを重視しヨーガの主神シヴァを本尊とし、ヨーガと仏教を結びつけ、超能力を追求した。また、オウム信者には元阿含宗信者が多く、林郁夫、早川紀代秀、岡崎一明、新実智光、井上嘉浩らの教団幹部や高橋克也も阿含宗信者だった。オウムの教義や修行法を作ったのも翻訳研究班に所属する元阿含宗信者だった。1990年の石垣島セミナーの参加者500人のうち二百数十人が阿含宗元信者だった。 精神科医で予言研究者の川尻徹が書いた「滅亡のシナリオ―いまも着々と進む1999年への道」(1985年、原作=ノストラダムス 演出=ヒトラー) を麻原は著者と何度も文通するほど愛読し、自分もノストラダムスの予言に登場する人物であると信じており、麻原を救世主キリストとした一団が、復活したナチス帝国に勝利するとも述べたこともあった。ヒトラーの『我が闘争』も愛読していた。麻原はアニメ宇宙戦艦ヤマトのデスラー(ヒトラーがモデル)と自分が似ているとも語った。 麻原は長兄の影響で毛沢東を近代で最も尊敬すると述べた。一方で共産主義は良い点もあるがもうすぐ潰れると考えており、ソ連や中国は「物質主義で宗教を否定し、神の意思に反した悪の国」ともしていた。麻原は1994年に中国に行った時「毛沢東が亡くなったのは神が亡くなったようなものだ。自分が次の毛沢東になるようにという示唆を感じた」と「共産党の歌」を歌い始めたが、その後「でも毛沢東の最後はおかしくなっちゃうんだよな」と言い、以後朱元璋の転生というようになった。 麻原は天皇を敵視し、日本国を嫌っており、パイロットババにも日本は嫌いだと何度も語った。作家の藤原新也は、こうした麻原の反日的な思想の背景に目の病とその原因として水俣病があったのではないかと思い、麻原の長兄にそのことを質問すると、魚やシャコを大量に食べた幼少期の智津夫ははじめに手が痺れ、そのうち目の病となったため、水俣病患者として認定するよう役所に申請したが却下され、さらに申請したことで「アカ」と噂され肩身の狭い思いをしたと兄は証言した。 こうして、武力革命の肯定や反米主義、ユダヤ・フリーメーソン陰謀論などをミックスした終末思想を形成していった。 のちの上祐史浩と大田俊寛との対談 によれば、オウムの活動の最終目的は「種の入れ替え」であり、それは教団の上層部において、ある程度共有されていた。麻原の世界観では、人類全体が自らの霊性のレベルを高め、超人類や神仙民族と呼ばれる存在に進化する「神的人間」と、物質的欲望におぼれ動物化していく「動物的人間」の2種類に大別され、現在の世界は「動物的人間」がマジョリティを占めており、他方、「神的人間」はマイノリティとして虐げられている。この構図を転覆しようというのが、「種の入れ替え」であり、オウムでは数々の修行やイニシエーションによって、「神的人間」を創出・育成し、同時に人類の霊性進化の妨げとなる「動物的人間」を粛清する目的で、70トンのサリンを製造し、日本をサリンで壊滅させた後に「シャンバラ」や「真理国」と呼ばれるユートピア国家を樹立しようという最終目標を持っていた。
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思想形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 05:25 UTC 版)
「オットー・シュトラッサー」の記事における「思想形成」の解説
ドイツ革命当初、オットーが抱いたいまだ判然としなかった気持ちにその行手を示す斬新な衝撃を与えたのは、1920年10月、ザクセンのハレで開かれたUSPDの大会の席上で独ソの提携を説いた、このようなソビエトの政治路線にそうコミンテルンの使者ジノヴィエフの演説だった。この会議にオランダの新聞特派員という触れ込みで出席したオットーは、ジノヴィエフの演説から受けた感激の模様を次のように記している。 「私にとってジノヴィエフ演説は警告の信号だった。この男の講演内容は新しいメサイアの教えのような響きを持っていた。 私の政治探求において、私はこれまでドイツに存在しなかったような概念に突きあたった。その名は「国民社会主義 (National-Sozialismus)」であった。」と。こうして、まだ完全な形で綱領化されていないとはいえ、彼の心の中でソーシャリズムとヴェルサイユ条約に反発するナショナリズムが握手する。
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