レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/04 00:11 UTC 版)
「ユーロブルン・ER189」の記事における「レース戦績」の解説
ER189は1989年ドイツグランプリでデビューし、全7戦に参加した。イエーガーマイスターがスポンサーとなり、カラーリングはオレンジ一色になった。ドライバーはグレガー・フォイテクが起用されたが、予備予選落ちした。フォイテクはその後も3戦連続で予備予選落ちし、ベルギーグランプリの後にチームを離脱した。イタリアグランプリから前年度チームに所属していたオスカー・ララウリがフォイテクの代わりとして復帰し、シーズン終了までドライブしたが、彼もまた予備予選を通過することはできなかった。 ER189は2戦を走った後に不具合が発見された。ブルンはER189に改修を施した。改修の中にはER188Bのリアアクスル移植も含まれた。改修を行う間のベルギーグランプリにチームはER188Bを投入した。
※この「レース戦績」の解説は、「ユーロブルン・ER189」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ユーロブルン・ER189」の記事については、「ユーロブルン・ER189」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 16:12 UTC 版)
ジャッキー・スチュワートは、この車を「私が運転した最も難しいF1カー」と表現している。ハードの設計妥協点は、オイルタンクとフィルターをできるだけ後方に配置することによって重いフロントマウントラジエターの重量バランスを取ったことを意味する。701の重心に対して最も外側の位置に2つの重量物を配置したことは、車に高い極慣性モーメントを与えた。これにより701は「運転しづらい」車となり、低速コーナーでのパフォーマンスに重大な影響を与えた。スチュワートは、彼とクリス・エイモンがシーズン序盤にそのドライビング・スタイルで701から発揮したスピードを競争相手と比較して、明らかに滑らかであると判断した。
※この「レース戦績」の解説は、「マーチ・701」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「マーチ・701」の記事については、「マーチ・701」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:52 UTC 版)
1982年 - レースデビュー。 1983年 - 全日本ロードレース選手権ノービス125ccランキング4位 1984年 - 全日本ロードレース選手権国際B級125ccチャンピオン 1985年 - 全日本ロードレース選手権国際A級250ccランキング4位(ホンダ・RS250R、ゼッケン72) 1986年 - 全日本ロードレース選手権国際A級250ccランキング3位 1987年 - 全日本ロードレース選手権国際A級250ccチャンピオン(AJINOMOTOホンダ TERRAレーシング、ホンダ・NSR250) ロードレース世界選手権GP250ランキング13位(スポット参戦) 1988年 - ロードレース世界選手権250ccランキング10位(AJINOMOTOホンダ TERRAレーシング、ホンダ・NSR250) 1989年 - ロードレース世界選手権250ccランキング6位(AJINOMOTOホンダ TERRAレーシング、ホンダ・NSR250) 1990年 - ロードレース世界選手権250ccランキング7位(AJINOMOTOホンダ TERRAレーシング、ホンダ・NSR250) 1991年 - ロードレース世界選手権250ccランキング5位(ホンダ・NSR250) 1992年 - ロードレース世界選手権250ccランキング9位(ホンダ・NSR250)
※この「レース戦績」の解説は、「清水雅広」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「清水雅広」の記事については、「清水雅広」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 02:56 UTC 版)
「アストンマーティン・レーシング」の記事における「レース戦績」の解説
2005年のセブリング12時間レースでのチームのレースデビュー以来、アストンマーティン・レーシングはキャリアにおいていくつかの重要な勝利を収めてきた。彼らは最初のレースで初勝利をもたらし、コルベット・レーシングチームにも勝利した。その年の後半に RACツーリストトロフィーでも優勝した。 2006年、アストンマーティン・レーシングはアメリカン・ル・マン・シリーズでプチ・ル・マン含みシーズン5勝し、GT1クラスで総合2位、3点差でコルベット・レーシングチームに敗れた。 2007年、アストンマーティンは、コルベット・レーシングチームを破り、1959年の総合優勝以来のル・マン24時間レースでLMGT1クラス優勝を収めた。 2008年、LMGT1クラスでル・マン連覇を達成したが、アストンマーティン・レーシングはチャロウズレーシングシステム(英語版)の助けを借りてル・マン・プロトタイプクラスへの参入を開始し、DBR9の6L V12エンジンをローラ・B08/60 LMP1マシンに搭載した。ル・マン・シリーズはクラス5位だった。 2009年1月27日、チームは、ローラ-アストンマーティン・B09/60を開発し、2009年のルマン24時間レースのLMP1クラスでワークス参戦を発表した。このエントリーは、ル・マンでの最後の総合優勝から50周年を迎えるために行われた。2009年シーズンは、3月8日のプレシーズンのポール・リカールテストでトーマス・エンゲが007号車をクラッシュし、不安なスタートを切った。その後、アストンマーティン・レーシングは、シャーシを交換するために新シャーシをローラから納入した。チームは、ガルフオイルの象徴的な青とオレンジのカラーリングを備えた2台のLMP1車で参戦。目的は、1959年のル・マン24時間レースでキャロル・シェルビーとロイ・サルヴァドーリ(英語版)がドライブするDBR1(英語版)でのル・マン総合優勝を再現することだった。ル・マンでは、ヤン・チャロウズ、トーマス・エンゲ、シュテファン・ミュッケがドライブするAMRイースタン・ヨーロッパの007号車がプジョーとアウディのファクトリーに次ぐ4位でフィニッシュし、ガソリンエンジン車では最高位だった。アンソニー・デビッドソンがGT1クラスのアストンDBR9と衝突するまで、008号台は総合3位まで走っていた。その後の修理と、接触を引き起こしたことによる5分間のストップ アンド ゴー ペナルティにより、上位争いから脱落した。009号車は252周でリタイアした。2009年のル・マン・シリーズ(LMS)では、初戦カタロニア 1000kmで優勝した。第4戦ニュルブルクリンクでは1-2-3位表彰台独占し、007号車のヤン・チャロウズ、トーマス・エンゲ、シュテファン・ミュッケが2009年ドライバーズタイトルを獲得、そしてローラ-アストンマーティン・B09/60のAMR・イースタン・ヨーロッパがチームタイトルを獲得した。岡山国際サーキットで行われた、アジアン・ルマン・シリーズにも参戦。レース2で、優勝を飾った。 2010年のルマン24時間レース(英語版)も3台がエントリーしたが、#007と#009がアストンマーティン・レーシングによって運営された。#008車はフランスのレージングチーム、シグナチュール・チームによって運営された。#008と#009、両方の車がトラブルを抱えてリタイアし、#007だけが総合6位でフィニッシュし、365周した。 2011年、B09/60は、小型の2.0L ターボチャージャー付き直列6気筒ガソリンエンジンを搭載した、アストンマーティン・AMR-Oneに引き継がれた。当初、マシンの走行は非常に悪かった。最初のレースである2011年のカステレ6時間では、予選ではLMP2マシンと同じ速さしかなく、メカニカルトラブルに悩まされていた。たった96周しか走行できなかった。そして、彼らは2011年ル・マンまで、インターコンチネンタル・ル・マン・カップに参戦中止を決定し、メカニカルトラブルを改善するために、問題を抱えた車のプライベートテストを続行できるようにした。そしてル・マン24時間レースに参戦したが、テストし、2台体制にもかかわらず、彼らは予選でまだLMP2の真ん中でタイムでラップしていて、レースではさらに悪いシナリオだった。009号車はサルト・サーキットを2周しただけでリタイアし、007号車は2周後に4周でリタイアした。この衝撃的な結果の後、チームは残りのシーズンの期間、旧型のB09/60でレースしたが、新しい2011年の規制に準拠するために大幅にダウングレードされた。 2012年、アストンマーティン・レーシングはヴァンテージGT2でGTレースに復帰した。そして2012年のル・マン24時間レースに、LMGTE-ProクラスとLMGTE-Amクラスに1台づつのマシンで参戦した。去年のAMR-Oneの1台がペスカロロ・スポールに売却された。ペスカロロ・スポールはそのマシンをモデファイし、ペスカロロ・03と名付けた。彼らは、アストンマーティンのエンジンではなく、ジャッドエンジンを使用。もう1つのAMR-Oneは、2012年にハイクロフトレーシング(英語版)がル・マンでデビューさせた、デルタウイングのベースとなった。デルタウイングはAMR-Oneのカーボンファイバータブを使用している。 2012年以来、アストンマーティン・レーシングはFIA世界耐久選手権でヴァンテージGTEでレースに参戦、勝利とタイトルを獲得している。 2012年のFIA 世界耐久選手権の開幕シーズンでは、アストンマーティン・レーシングはLMGTE-Proトロフィーで総合2位を果たした。 2013年、チームはル・マン24時間レースに、アストンマーティン創立100周年を祝うために、チームはLMGTE-Proクラスに3台の2013年仕様のヴァンテージGTEと、LMGTE-Amクラスに2台の2012年仕様のヴァンテージGTEで参戦。またチームはFIA世界耐久選手権にフルシーズンで参戦する。元F1ドライバーのブルーノ・セナがチームに参加し、GTE-Proクラスでフレデリック・マコヴィッキィとロバート・ベルともに参戦する。メインのGTE-Proマシンには、AMRの常連であるダレン・ターナーとシュテファン・ミュッケ、ピーター・ダンブレックはル・マン24時間レースとWEC第2戦スパ・フランコルシャンに参戦する。 2014年には、デンマークのクリスティアン・ポウルセンとデイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソンとともに、LM-GTEAmクラスでチーム、ドライバーのダブルタイトルを獲得した。シーズン中、彼らはLM-GTEAmクラスで2014年のル・マン24時間レースでもクラス優勝した。 2016年、ニッキー・ティームとマルコ・ソーレンセンとともに、世界耐久選手権でGTクラスドライバーズタイトルを獲得した。また、LM-GTEProチームのチャンピオンも獲得した。 2017年シーズンは、LM-GTEAmクラスでドライバーズ、チームチャンピオンシップの両方を獲得した。6月、ル・マン24時間レースでヴァンテージGTEをダレン・ターナー、ジョナサン・アダム、ダニエル・セラがドライブし、LM-GTEProクラスでクラス優勝した。 2018-19年FIA世界耐久選手権スーパーシーズンにLM-GTEProクラスで2台の新型ヴァンテージGTEで参戦した。 2019-20年シーズンはLM-GTEProクラスで、ドライバー、マニュファクチャラーのダブルタイトルを獲得した。
※この「レース戦績」の解説は、「アストンマーティン・レーシング」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「アストンマーティン・レーシング」の記事については、「アストンマーティン・レーシング」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 15:43 UTC 版)
シーズン開幕戦はコマス、アリオー共にリタイアとなったが、チームにとっては手応えのある展開であった。第2戦ブラジルでは両者共に完走し、アリオーは7位とあと僅かでポイントを得ることができた。第3戦ドニントンは雨のレースとなり、アリオーはクラッシュしたがコマスは4週遅れ、ローラのミケーレ・アルボレートを抑えて9位となった。ラルースの努力は第4戦イモラで実る。コマスはリタイアしたが、アリオーが5位入賞、値千金の2ポイントを獲得した。第5戦スペインでアリオーとコマスはテールツーノーズのバトルを繰り広げるが、26週目にアリオーのギアボックスが壊れリタイアとなった。コマスはマーク・ブランデル、クリスチャン・フィッティパルディ、鈴木亜久里とのバトルを制して9位でフィニッシュした。チームはこの後8戦連続で機械的トラブルが無くレースを終えることになる。この時点でチームは予算が尽き、ホッケンハイムまでパーツの更新が行えなかった。2台揃って完走するのは7ヶ月後のイタリアGPで、コマスはクラッシュが頻発する中生き残って6位入賞、チームにとってシーズン2度目のポイントを得た。残る4戦でリタイアは1度と、チームの状態は上向きにあるように見えた。ジェラール・ラルースはチーム運営資金を得るため日本とオーストラリアでアリオーに代えて鈴木利男を起用しなければならなかった。 LH93は信頼性が高く、アリオーが第4戦で5位、コマスが第13戦で6位入賞し合計3ポイントを獲得した。コンストラクターズランキングも1987年の初参戦以来となる10位を記録した。
※この「レース戦績」の解説は、「ラルース・LH93」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ラルース・LH93」の記事については、「ラルース・LH93」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 16:21 UTC 版)
ドライバーはエリック・コマスが前年に引き続いて起用され、セカンドドライバーは国際F3000に参戦し、資金を持ち込んだオリビエ・ベレッタが起用された。開幕戦ブラジルではコマスが9位完走し、次戦の英田では6位入賞でポイントを獲得した。しかしながらサンマリノ後のレギュレーション変更で車の開発が停滞し、またエンジントラブルもこの時期に合わせて発生、リタイアが続いた。ベネトン製のトランスミッションによる効率的なギアチェンジにも関わらず、LH94は代わらぬアンダーステアと貧弱なトラクションに苦しんだ。コマスは「車を運転するのが面白い」と語っている。ライバルチームが進歩するにつれて、ラルースは徐々にグリッド後方に向かって沈んでいった。しかしながらコマスはドイツグランプリで2度目のポイントを獲得している。 ラルースの危うい財政状況はシーズン終盤に顕わとなり、ベレッタからの持ち込み資金も尽きたため、チームは生き残るためにペイドライバーに頼らざるを得なくなった。ベレッタはかつてのラルースのドライバー、フィリップ・アリオー、ヤニック・ダルマスと交代し、彼らも終盤でルーキーの野田英樹と交代した。シーズン最終戦のオーストラリアGPではファーストドライバーのコマスもジャン=デニス・ドゥレトラーズと交代した。 ラルースは1995年シーズンへの継続参戦を模索したが、新車開発のための十分な資金を用意できなかった。チームはその後、シーズン開始前にジュニアF1チームと合併し、追加のスポンサーが現れるのを期待した。LH94は新レギュレーションに合わせて厳しいクラッシュテストをパスするよう改造され、新車は第3戦のイモラを焦点に開発しようとした。LH94の改造型は重量過多であり、競争力に欠けていた。しかしながら、ラルースは十分な資金を調達することができず、レースに参加すること無くF1から撤退した。
※この「レース戦績」の解説は、「ラルース・LH94」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ラルース・LH94」の記事については、「ラルース・LH94」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 15:26 UTC 版)
「フォンドメタル・フォメットF1」の記事における「レース戦績」の解説
フォメットF1のデビューは成功とは言えなかった。オリビエ・グルイヤールは3戦連続して予備予選落ちした。しかし、マニクールでのテストの後、グルイヤールはメキシコグランプリを10位で予選通過した。フォメットF1の最高位はベルギーグランプリでの10位であった。第14戦のスペイングランプリからグルイヤールに代わってガブリエル・タルキーニがドライブした。タルキーニは3戦中2戦で完走を果たした。
※この「レース戦績」の解説は、「フォンドメタル・フォメットF1」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「フォンドメタル・フォメットF1」の記事については、「フォンドメタル・フォメットF1」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 15:30 UTC 版)
「ヴェンチュリー・LC92」の記事における「レース戦績」の解説
前年度の成績により1992年シーズンラルースは予備予選の対象となった。しかしながらブラバムが破産し、アンドレア・モーダが追放となったため予備予選を免除されることとなった。右京がモナコで予備予選落ちした以外は、問題なく予備予選を通過している。ガショーは全てのレースで決勝進出したが、11戦でリタイアしている。第6戦モナコグランプリでは6位に入り、1ポイントを獲得した。右京は「速いが経験不足」であった。右京は6戦で完走し、第7戦カナダグランプリでレース終盤まで入賞圏内に走行するも、エンジントラブルでリタイヤした。最高位はブラジルでの9位であった。ラルースは1ポイントを得てコンストラクターズランキング11位になった。 ラルースとヴェンチュリーとの関係はわずか1年で終了し、翌年から「ラルース」として参戦することになる。
※この「レース戦績」の解説は、「ヴェンチュリー・LC92」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ヴェンチュリー・LC92」の記事については、「ヴェンチュリー・LC92」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/12/29 16:16 UTC 版)
ルネ・ボネ時代耐久レーサーとして使われ、1963年と1964年のル・マン24時間レースに参戦したが失敗であり、1963年に熱効率指数賞を獲得したのみで終わった。 マトラ時代には積極的にラリーに参戦したが、アルピーヌの敵ではなく、成果は上がらなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「マトラ・ジェット」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「マトラ・ジェット」の記事については、「マトラ・ジェット」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/30 22:20 UTC 版)
1968年シーズンの完走はリントとブラバムのそれぞれ1つのみであった。1969年には改善が見られ、新加入のジャッキー・イクスは2勝を挙げランキング2位となった。ブラバム・フォードはフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズのピアス・カレッジの助けも得てコンストラクターズランキング2位となった。 ブラバムは1970年に新型のBT33に切り替えたことで、BT26Aはプライベーターに放出された。その中でピーター・デ・クラークが南アフリカGPで最高位を記録した。1971年、BT26Aの最後のレースとなった南アフリカGPでジャッキー・プレトリウスは22周目にエンジントラブルでリタイアした。 ノンタイトル戦ではブラバムが1969年BRDCインターナショナルトロフィーで優勝し、イクスは1969年オウルトン・パークインターナショナルゴールドカップで優勝した。デクラークとプレトリアスは1970年と1971年に南アフリカのノンタイトル戦で3勝を挙げた。 1970年にデレック・ベルはDFVの2.5リッターバージョンであるコスワースDFWを搭載したBT26Aを使用してタスマンシリーズに参戦した。最高位はニュージーランドGPでの2位だったが、エンジントラブルのためシリーズ後半のオーストラリアでのレースはキャンセルを余儀なくされた。
※この「レース戦績」の解説は、「ブラバム・BT26」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ブラバム・BT26」の記事については、「ブラバム・BT26」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 07:11 UTC 版)
「コローニ・FC187」の記事における「レース戦績」の解説
エンツォ・コローニ・レーシングカーシステムは1987年イタリアグランプリでF1デビューした。ドライバーはフランコ・スカピーニを起用する予定であったが、スーパーライセンスが発給されなかったためテストドライバーを務めたラリーニが起用された。FC187は完全では無かったが、コローニは母国のイタリアグランプリでのデビューを望んでいた。グランプリではラリーニは予選落ちした。予選通過タイムからは2秒、ポールポジションのネルソン・ピケからは12秒遅れのタイムであった。次戦のポルトガルグランプリには車が間に合わず、空力デザインやラジエターの位置が変更された。第13戦スペイングランプリでラリーニはターボエンジンを搭載したオゼッラのアレックス・カフィ、フランコ・フォリーニを抑えて最下位で予選を通過した。決勝では8周目にサスペンショントラブルでリタイアした。このレースで最初にリタイアしたドライバーであった。残る3戦はヨーロッパ外で開催されるため、コローニは移動経費がかかると言うことで参加を取りやめた。FC187は1987年から1988年にかけて改良が行われ、翌1988年にはコローニ・FC188としてレースに投入された。
※この「レース戦績」の解説は、「コローニ・FC187」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「コローニ・FC187」の記事については、「コローニ・FC187」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 07:07 UTC 版)
AGSはJH22でシーズン全てを戦った。1台体制でドライバーは当初パスカル・ファブルを起用した。このマシンも戦闘力不足で、ファブルは常に予選最下位であった。しかしながらレースでは信頼性を発揮し、前半9戦中8戦で完走を果たした。ラップタイムは遅く、周回数も何周も遅れていた。例外はフランスグランプリで、ファブルはポールリカールのミストラル・ストレートにおいて自然吸気車中最速タイムを記録している。最高位は母国フランスと、次戦イギリスでの9位であった。第10戦オーストリアでもレースをフィニッシュしたが、最低周回数を満たさず完走扱いにはならなかった。後半戦ではオゼッラとラルースがセカンドカーの出走を決め、コローニも参戦したため予選通過は至難の業となった。ファブルは第11戦イタリアGPで予選落ちし、第14戦メキシコGPで3回目の予選落ちを喫した。 シーズン終盤の日本とオーストラリアでのレースに、チームはファブルに代えてロベルト・モレノを起用した。モレノは1982年オランダグランプリにロータスから参戦したが予選落ちしていた。今回はいずれも予選通過し、最終戦オーストラリアGPでは最後列からのスタートにもかかわらず完走9台のサバイバルレースで3周遅れの7位で完走した。しかしながら、2位のアイルトン・セナがブレーキダクトのサイズ違反で失格となり、モレノは繰り上げで6位入賞、ポイントを獲得した。これはAGSにとって初のポイントとなった。 シーズンが終了してAGSはコンストラクターズでランキング11位、コーリン・チャップマン・トロフィーではティレル、ラルースに次いで3位となった。ファブルはジム・クラーク・トロフィーで35ポイント、5位となり、モレノは4ポイントで6位となった。モレノはまたドライバーズランキングでも19位となった。
※この「レース戦績」の解説は、「AGS・JH22」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「AGS・JH22」の記事については、「AGS・JH22」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 14:53 UTC 版)
レイトンハウス・マーチ・レーシングチームはブラジルグランプリにイヴァン・カペリを起用して87Pを走らせると発表した。カペリは前年に国際F3000のタイトルを獲得し、以前にティレルおよびAGSからF1に出場していた。 予選でカペリは最も遅いドライバーだった。彼のラップタイム、1:43.58はナイジェル・マンセルがウィリアムズ・FW11Bで記録したポールタイムより17秒も遅かった。カペリはAGSのパスカル・ファブルから4秒遅れの最下位となった。 マーチは決勝には参加しなかった。予選でDFZエンジンはひどく損傷し修理することができなかった。チームは予備のエンジンを持っていなかったため、カペリはスタートすることができなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「マーチ・87P」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「マーチ・87P」の記事については、「マーチ・87P」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 07:17 UTC 版)
ローラ・LC87はシーズン第2戦のサンマリノグランプリでデビューした。(開幕戦にマシンが間に合わず、初戦を欠場しておりFISAからは罰金を科せられていたため)当初ラルースはフィリップ・アリオーの1台体制でシーズンに臨んだ。戦闘力に劣るマシンであったにもかかわらず、アリオーはこのレースを10位でフィニッシュした。次戦ベルギーでは8位となっている。このときまでにベラミーはエンジンコンパートメントを減らして車重を15ポンド減量した。その後モノコックで4kg軽量化する。アリオーはシーズン15戦中9戦でリタイア、完走は6回で、最高位はホッケンハイム、ヘレス、メキシコでの6位であった。彼はこの新チームに3ポイントをもたらした。シーズン終盤3戦でラルースはセカンドカーを投入、ドライバーはヤニック・ダルマスを起用した。ダルマスは最終戦アデレードで5位に入ったが、コンストラクターズポイントの対象では無かったため、2ポイントは加算されなかった。ローラは1987年シーズンで3ポイントを獲得し、コンストラクターズランキング9位となった。自然吸気エンジンを対象とするコーリン・チャップマン・トロフィーではティレルに次ぐ2位となった。
※この「レース戦績」の解説は、「ローラ・LC87」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ローラ・LC87」の記事については、「ローラ・LC87」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 01:12 UTC 版)
「ブルモス・レーシング」の記事における「レース戦績」の解説
ピーター・グレッグとハーレー・ヘイウッドが共同オーナーとなって創設されたブルモス・レーシングは、ポルシェ・911やポルシェの水平対向エンジンを搭載したDP(デイトナ・プロトタイプ)でIMSA GT選手権、グランダム・シリーズに参戦。全6戦で争われた1971年には開幕5連勝を成し遂げるなど無類の強さをみせた。以後、シリーズ通算48勝と都合15回のクラスチャンピオン獲得という輝かしい成績を収めた。 ブルモスはデイトナ24時間レースで4度総合優勝した。1973年にピーター・グレッグとハーレイ・ヘイウッドがポルシェ・911カレラRSRで優勝し、1975年にも優勝した。1978年、ピーター・グレッグは、ロルフ・シュトメレンとトイン・ヘゼマンスとともに、ポルシェ・935/77で3度目の優勝を果たした。そして31年後、デイビッド・ダノヒュー、アントニオ・ガルシア、ダレン・ロー、バディ・ライスが、2009年のデイトナ24時間レースで、ポルシェエンジンを搭載した、ライリー・MkXIで総合優勝した。 1973年 ポルシェ・911 カレラRSR 2003年 ファブカー FDSC/03・ポルシェ 2008年 ライリー MkXI・ポルシェ 2011年 ポルシェ・911 GT3
※この「レース戦績」の解説は、「ブルモス・レーシング」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ブルモス・レーシング」の記事については、「ブルモス・レーシング」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/30 16:20 UTC 版)
JH21Cは実戦前にポール・リカール・サーキットでディディエ・ピローニによってテストされた。ピローニは1982年ドイツグランプリで骨折して以来のF1カーのドライブであった。しかしながら、ピローニによるテストはこれ1度きりで、実際のシートはカペリが獲得した。 JH21Cは1986年イタリアグランプリにデビューした。これはジョリークラブがイタリアのチームであり、ドライバーのイヴァン・カペリもイタリア人であることが理由であった。カペリは予選を25位で通過、決勝では31周後にパンクでリタイアしている。続くポルトガルグランプリでもカペリは予選を通過したが、決勝では6周後にサスペンションの破損でリタイアした。シーズン残りのメキシコとオーストラリアは予算の問題で参戦しなかった。 AGSは翌1987年にフル参戦することとなるが、1986年から87年にかけてコスワース DFZが準備され、JH21Cに代わる新型のJH222台が製作された。 JH21Cは現在フランス、イル=エ=ヴィレーヌ県ロエアックのマノワール・ドゥ・ロトモビルに展示されている。
※この「レース戦績」の解説は、「AGS・JH21C」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「AGS・JH21C」の記事については、「AGS・JH21C」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/02/23 14:04 UTC 版)
オゼッラ・FA1Fは、3年間で5名のドライバーがドライブした。1984年は最新型であったが、1985年と1986年は経験の浅いドライバーのバックアップ用として使用された。1987年シーズンはスペアカーとしていくつかのグランプリに準備されたが、決勝で使用されることは無かった。
※この「レース戦績」の解説は、「オゼッラ・FA1F」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「オゼッラ・FA1F」の記事については、「オゼッラ・FA1F」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/04 00:11 UTC 版)
「ユーロブルン・ER189」の記事における「レース戦績」の解説
ライトンは1990年シーズンに向けてER189を改修、ER189Bを作り上げた。チームは14戦で2台のER189Bを使用した。チームはブラジル人ドライバーのロベルト・モレノと、イタリア人ドライバーのクラウディオ・ランジェスを起用した。ランジェスはチームにスポンサーマネーを持ち込んだが、成績はモレノの方が上回り、その予算はモレノに集中した。カラーリングはメインスポンサーが無くなったため銀一色となった。ER189Bはオランダ人エンジニアのキーズ・ヴァン・デル・グリントの努力にも関わらず、予算不足のため開発は十分に行われなかった。モレノは予備予選を5回通過したが、決勝進出は2回のみであった。開幕戦のアメリカグランプリでモレノは予備予選を最速で通過、予選も16位で通過し決勝は13位でフィニッシュしたが、ER189Bが完走したのはこの1回のみであった。モレノは第3戦のサンマリノでも24位で予選を通過したが、決勝は1周目にエンジントラブルでリタイアとなった。その後も3戦連続で予備予選を通過したが、予選を通過することはできなかった。ランジェスは1度も予備予選を通過できなかった。チームはテストを十分に行うことができず、開発もほとんど進まなかった。ドライバーは車のハンドリングを「災難だ」と語っている。 ヨーロッパラウンドを終えたところでチームは予算が尽き、シーズン終盤の2戦に参加することはできなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「ユーロブルン・ER189」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ユーロブルン・ER189」の記事については、「ユーロブルン・ER189」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/02/14 13:48 UTC 版)
昨シーズンはアンドレア・デ・チェザリスの1台体制だったが、1989年は2台体制でシーズンに臨むこととなる。チェザリスはBMSスクーデリア・イタリアに移籍したため、経験豊富なドイツ人ドライバーのクリスチャン・ダナーが起用された。セカンドカーのドライバーはF1ルーキーのフォルカー・ヴァイドラーであった。 開幕戦のブラジルでダナーは予選を17位で通過、決勝はギアボックスのトラブルでリタイアとなったが、完走扱いの14位となった。この17位というのがリアルのシーズンを通しての予選最高順位となった。ドライバー両名共が予選通過に苦しみ、ヴァイドラーは至っては予備予選の通過もおぼつかなかった。ダナーが予選を通過したのはこのブラジルを加えても4戦のみで、全てがシーズン序盤のレースであった。メキシコでは決勝12位であったが、続くアメリカではトラブル連続のサバイバル戦となり、かろうじて生き残ったダナーは4位に入賞、ポイントを獲得する。第6戦のカナダでは8位でゴールしたが、ARC2が予選を通過したのはこれが最後となった。 ダナーはその後7戦連続して予選落ちし、ポルトガルGP後にチームを去った。彼の代役としてグレガー・フォイテクがスペインに出走、その後2戦にはベルトラン・ガショーが出走したが、両名とも予選を通過することはできなかった。もう1台のヴァイドラーは9戦連続で予備予選落ちし、10戦目は予選結果から除外された。11戦目から彼に代わってピエール=アンリ・ラファネルが起用されたが、ラファネルも予選通過することはできなかった。 ダナーがアメリカGPで獲得した3ポイントのおかげで、リアルはランキング13位となった。チームはシーズン終了後、F1から撤退した。
※この「レース戦績」の解説は、「リアル・ARC2」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「リアル・ARC2」の記事については、「リアル・ARC2」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/04/19 17:14 UTC 版)
チシタリアの財政難のため実戦で戦うことはなかった。 表・話・編・歴 ポルシェ A.G. 車両年表 1960年-タイプ 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 911(スポーツ) 901 930 964 993 996 997 991 スポーツ 356 928 エントリー 912 →E 924 924S 968 ケイマン(987c) →(981c) 914 944 ボクスター(986) →(987) →(981) セダン パナメーラ SUV カイエン(955) →(957) →(958) 高性能車 550 904 959 カレラGT コンセプトカー: 356/1 | 114 | 695 | 901 | EA266 | 989 | パナメリカーナ | 918 モータースポーツ: 64 | 360 | 550 | 718 | 787 | 804 | 904 | 906 | 907 | 908 | 909 | 910 | 914-6 GT | 917 | 934 | 935 | 936 | 953 | 956 | 961 | 962 | GT1 | WSC95 | RSスパイダー 人物: フェルディナント・ポルシェ | フェリー・ポルシェ | ブッツィー・ポルシェ | フェルディナント・ピエヒ | エルンスト・フールマン | ヴェンデリン・ヴィーデキング 軍用車両: ヤークトワーゲン トラクター: ユニオール | スーパー 機構: ティプトロニック | バリオカム | ポルシェのエンジン一覧 関連会社: ポルシェデザイン | ポルシェバイクス | フォルクスワーゲン | RUF | ヨースト その他: オフィシャルウェブサイト ポータル 自動車 / プロジェクト 乗用車 / プロジェクト 自動車 / プロジェクト バス車種 自動車メーカー・ブランド 自動車の車種 - 自動車の車種名一覧 自動車の歴史 モータースポーツ 自動車画像 自動車関連のスタブ項目
※この「レース戦績」の解説は、「ポルシェ・360」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ポルシェ・360」の記事については、「ポルシェ・360」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/19 20:07 UTC 版)
2000年 - カートレースデビュー 新東京サーキットを中心に FA2クラス等へ参戦 2003年 - ワコーズサポートドライバーオーディション合格(東日本代表) 2004年 - 「ワコーズプロジェクト」よりFJ1600 茂木シリーズ参戦 2005年 - 服部尚貴の立ち上げた「TeamNaoki」に抜擢される。「TeamNaoki with レプリスポーツ」よりFJ鈴鹿シリーズ参戦 2006年 -05年に続き「TeamNaoki」よりFJ鈴鹿シリーズ参戦。開幕戦ポールポジション獲得 日本一決定戦 第1レグ1位 2007年 -「TeamNaoki」よりフォーミュラ・トヨタ参戦ランキング8位 全戦ポイント獲得 スーパー耐久 第4、5戦 ST2クラス スポット参戦 全日本スポーツカー耐久選手権第3戦 LMP2クラス スポット参戦 2008年 -スーパー耐久(ST2クラス)参戦。第5戦、岡山3位 第6戦、菅生優勝 最終戦、茂木優勝(師匠、服部選手と組み2連勝3戦連続表彰台) フォーミュラ4西日本シリーズスポット参戦 フォーミュラ4日本一決定戦セミファイナル2位 2009年 - チームシーケンシャルより(2008年度ST2クラスチャンピオンチーム)スーパー耐久スポット参戦 2010年 - 新規チーム「KYOSHOアリスモータース」へ加入 スーパー耐久参戦 2011年 - KYOSHOアリスモータースよりスーパー耐久へ参戦 第5戦優勝 2012年 - ランナップスポーツよりSUPER GT300クラス(キャラウェイ コルベットZ06R GT3)スポット参戦 2013年 - ランナップスポーツよりSUPER GT300クラス(NISSAN NISMO GT-R GT3)参戦
※この「レース戦績」の解説は、「白坂卓也」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「白坂卓也」の記事については、「白坂卓也」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/15 14:17 UTC 版)
P61のデビューは1963年フランスグランプリで、チャンピオンのグラハム・ヒルがステアリングを握った。ヒルはスタート時にエンジンストールし、60秒のペナルティとプッシュスタートとなった。幸運にもヒルは3位に入賞し、4位のジャック・ブラバムには61秒の差を付けた。結果は有望だったが、隔壁無しのシャシーは急激な屈曲に悩まされ、問題点が直ちに明らかになった。P61は2戦をおいてイタリアグランプリに再び投入されたが、ヒルはクラッチの不具合でリタイアとなった。チームメイトのリッチー・ギンサーは旧型のP57で2位に入賞した。ギアボックスとシャシーの問題を直ちに解決することなく、BRMはP57でシーズンを終えた。
※この「レース戦績」の解説は、「BRM・P61」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「BRM・P61」の記事については、「BRM・P61」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/28 15:33 UTC 版)
タンベイとワーウィック(加えてテストドライバーのフィリップ・ストレイフがシーズン終盤のポルトガルでドライブした。)が獲得した34ポイントで、ルノーはコンストラクターズランキング5位となった。ワーウィックは23ポイント(2位2回、3位2回、4位1回)、タンベイは11ポイント(2位1回、5位2回、6位1回)を獲得し、両名ともファステストラップを1回獲得している。タンベイはフランスで84年シーズンチームにとって唯一のポールポジションを獲得した。彼はこのレースでトップを48周走行し、マクラーレンのニキ・ラウダに次ぐ2位を獲得した(ラウダはこの年、チームメイトのプロストを0.5ポイント差で抑えタイトルを獲得した。)。これはまた、第1期ルノーのターボエンジンにとって最後のポールポジションであった。 1985年にチームはRE50に代えてRE60を投入した。
※この「レース戦績」の解説は、「ルノー・RE50」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ルノー・RE50」の記事については、「ルノー・RE50」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/11 00:45 UTC 版)
「ザクスピード・871」の記事における「レース戦績」の解説
シーズン開幕戦のブラジルには間に合わず、前年型の861を使用したが、第2戦サンマリノグランプリではブランドルが871を使用し、15位で予選通過、決勝は5位で2ポイントを獲得した。この2ポイントはザクスピードがF1で獲得した唯一のポイントとなった。 前年型と比べると信頼性が向上したが、その反面ダウンフォース不足に悩まされ、リタイヤも少なくなかったが、終わってみればコンストラクターズ10位と前年よりも好成績を残した。 871は1988年シーズンには後継のザクスピード・881にとって代わられた。チームのメインスポンサーはドイツのたばこ会社、ウエストであった。
※この「レース戦績」の解説は、「ザクスピード・871」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ザクスピード・871」の記事については、「ザクスピード・871」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/19 14:01 UTC 版)
1974年シーズンの序盤2戦、新人のジャン=ピエール・ジャリエは前年のDN1を使用したが、いずれもリタイアとなった。第3戦以降はDN3をドライブしている。マクラーレンで優勝経験のあるピーター・レブソンが加入し、開幕戦からDN3をドライブした。レブソンは開幕戦で予選4位、第2戦ブラジルで予選6位となったが、決勝はいずれもリタイアとなっている。レブソンは第3戦南アフリカグランプリ前のテストで事故死し、シャドウは同GPをキャンセルした。 ブライアン・レッドマンがレブソンに代わって第4戦スペイングランプリから3戦に出場した。第7戦スウェーデングランプリでは地元ドライバーのバーティル・ルースが起用された。第8戦オランダグランプリ以降はトム・プライスが起用された。プライスは同年の第5戦ベルギーグランプリでトーケンからF1デビューを果たしている。プライスは第11戦ドイツグランプリで6位入賞、1ポイントを獲得し、チームはこの年合計7ポイントを獲得した。残る6ポイントはジャリエが獲得したが、彼はレブソンの死にも関わらず、シーズンの残りをファーストドライバーとして務めた。ジャリエはモナコで予選6位、決勝3位に入り、続くスウェーデンでも5位に入った。チームは結局ランキング8位でシーズンを終えた。 プライスは翌1975年シーズンの序盤2戦も改良型のDN3Bを使用したが、ポイントを獲得することはできなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「シャドウ・DN3」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「シャドウ・DN3」の記事については、「シャドウ・DN3」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/26 14:27 UTC 版)
DN5は予選で何度か好成績を残し、速い車であることを証明した。実際、シーズン開幕戦のアルゼンチングランプリではジャリエがポールポジションを獲得している。しかしながら決勝ではギアボックストラブルのためウォームアップラップを完了できず、スタートすることができなかった。次戦のブラジルでもジャリエはポールポジションを獲得し、決勝ではファステストラップも記録したが、32周目に燃料システムのトラブルでリタイアしている。結局車の低い信頼性と、いくつかのミスにより、ジャリエのこのシーズンの完走は2回のみであった。最高位はスペイングランプリの4位で、このレースは死亡事故が発生したことで途中で打ち切りとなり、ポイントは通常の半分であった。シーズン後半のオーストリアとイタリアでジャリエはDN5に代えてマトラV12エンジンを搭載したDN7をドライブしている。 トム・プライスはシーズンの序盤2戦を前年のDN3を改良したDN3Bで戦った。プライスは第3戦からDN5を使用したが、ジャリエよりも好成績を残した。プライスは6位を3回、ドイツグランプリでは4位、オーストリアグランプリでは3位に入賞している。彼はまた、イギリスグランプリではポールポジションを記録したが、ブラジルでのジャリエ同様レースの大半をリードしながらリタイアした。 1976年シーズン、DN5は「B」スペックへのアップデートが行われた。しかしながら、信頼性は大きく改善されたものの、競争力は不足し、シーズン後半には顕著になった。ジャリエはブラジルグランプリで予選3位となり、決勝の大半を2位で走行したものの結局はクラッシュ、リタイアとなった。プライスは3位に入ったが、これがこのシーズンにおけるチームの最高位となった。両ドライバーとも定期的にトップ10入りしたが、ポイントに繋がったのはプライスのブラジルでの3位とイギリスでの4位のみであった。プライスは第12戦オランダグランプリから新型のDN8にスイッチしたが、ジャリエはDN5Bに乗り続けた。 DN5Bは1977年シーズン序盤も使用され、新人のレンツォ・ゾルジが2戦でドライブした。開幕戦アルゼンチンはリタイアしたが、DN5B最後となったブラジルでゾルジは6位に入った。
※この「レース戦績」の解説は、「シャドウ・DN5」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「シャドウ・DN5」の記事については、「シャドウ・DN5」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/02 14:16 UTC 版)
「セオドール・TY01」の記事における「レース戦績」の解説
TY01はロングビーチで行われたアメリカ西グランプリがデビュー戦となり、驚くべきことにパトリック・タンベイが6位に入賞、1ポイントを獲得した。これはTY01の唯一の獲得ポイントであった。この他に、デレック・デイリーとマルク・スレールがTY01をドライブした TY01/1は翌年の開幕戦でも使用され、その後TY02に置き換えられた。
※この「レース戦績」の解説は、「セオドール・TY01」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「セオドール・TY01」の記事については、「セオドール・TY01」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/26 03:02 UTC 版)
チームオーナーのケン・ティレルは1970年シーズンに使用したマーチ・701に失望し、オリジナルシャシーの製作を決心した。彼はデレック・ガードナーをデザイナーとして採用し、自宅で秘密裏に設計を行わせた。計画は「スペシャル・プロジェクト」の頭文字を取って「SP」と呼ばれ、ティレルは22,000ポンド以上の自己資金を費やした。完成したマシンはオウルトン・パークで行われたノンタイトル戦でデビューしたが、リタイアとなった、第11戦のカナダグランプリでジャッキー・スチュワートいきなりポールポジションを獲得したが、アクセルの故障でリタイアした。アメリカグランプリでは再びレースをリードしたものの、オイル漏れでリタイアとなった。メキシコグランプリは200,000人の大観衆をコントロールするのが困難となり、レースがほぼキャンセル寸前となったため開始が遅れた。観衆はガードレールの前に押しかけ、コース際に座り、コースを走って横切ったりした。スチュワートと、地元のヒーローのペドロ・ロドリゲスが熱心に訴えたが、観衆は依然として混乱の状態にあった。レースが始まり、スチュワートは犬を轢いたためサスペンションを破損、リタイアとなった。 1971年シーズン開幕戦の南アフリカグランプリでスチュワートはポールポジションを獲得したが、フェラーリのマリオ・アンドレッティに敗れ2位となった。スチュワートはこのシーズンの残りを001に変えて003を使用した。シーズン最終戦のアメリカグランプリでピーター・レブソンが001をドライブしたが、クラッチトラブルでリタイアに終わった。
※この「レース戦績」の解説は、「ティレル・001」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ティレル・001」の記事については、「ティレル・001」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:37 UTC 版)
WGPやNR250ターボでの経験を生かし徹底的に熟成されたエンジンは、1986年10月の時点で156.5psを発揮。翌1987年4月のル・マン24時間レースではマルコム・キャンベル、ジルベール・ロイ、根本健という、職業ライダー1人にジャーナリスト2人の3人組をライダーに採用するなど、参戦はレース制覇だけではない違う目的を持っていたと考えられる。ゼッケン90で出場し、予選をトップのRVF750から0.3秒遅れの2位で通過。決勝ではスタートから3時間半後にエンジントラブルでリタイアという結果に終わった。 同年秋にはオーストラリアのスワンシリーズ3レースにも参戦し、第2戦第1ヒートでマルコム・キャンベルのライディングによって優勝。NR750が国内外のメジャー・レースで勝利したのはこの1勝のみである。
※この「レース戦績」の解説は、「ホンダ・NR」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ホンダ・NR」の記事については、「ホンダ・NR」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/27 04:36 UTC 版)
005のデビュー戦は1972年オーストリアグランプリで、スチュワートは7位に入った。イタリアグランプリではクラッチのトラブルが生じ、スチュワートはリタイアとなった。第11戦カナダグランプリでは優勝を遂げる。続くアメリカグランプリも優勝し、2連勝となった。 1973年シーズン、スチュワートは開幕2戦を005で戦った。アルゼンチングランプリで3位となり、ブラジルグランプリでは2位に入る。フランソワ・セベールは第3戦南アフリカグランプリで005をドライブしたが、非完走扱いとなった。クリス・エイモンはカナダグランプリでドライブ、10位に入った。エイモンは最終戦アメリカグランプリでもドライブする予定であったが、セベールが予選で事故死し、チームはレースから撤退した。 1974年、005は序盤3戦でパトリック・デパイユによって使用された。開幕戦アルゼンチングランプリでデパイユは6位となる。第2戦ブラジルでは8位、005の最終戦となった南アフリカでは4位に入った。チームはその後、005に代えて006を投入した。
※この「レース戦績」の解説は、「ティレル・005」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ティレル・005」の記事については、「ティレル・005」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/27 00:25 UTC 版)
004は基本となった001を元にして作られた4番目であり最終となったマシン。004は5戦に出走、ティレルからの出走は3戦で、1972年モナコグランプリでジャッキー・スチュワートが4位に入った。スチュワートはベルギーグランプリでも004を使用する予定であったが、胃潰瘍のため欠場しチームは代わりのドライバーを起用しなかった。パトリック・デパイユ はフランスグランプリとアメリカグランプリで004を使用したが、フランスは非完走扱い、アメリカでは7位に入った。 004は新型の005に置き換えられたが、1973年には南アフリカのチームに売却された。第3戦の南アフリカグランプリでエディー・ケイザンがドライブし、13位となった。翌年の南アフリカグランプリでもケイザンがドライブし、14位となる。ケイザンはこの他にも南アフリカF1選手権(英語版)に参戦、73年と74年で2勝を挙げ2位9回を記録している。004は現在アメリカ合衆国のコレクターが所有し、レストアを行いヒストリックカーレースに参加している。
※この「レース戦績」の解説は、「ティレル・004」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ティレル・004」の記事については、「ティレル・004」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/09 04:10 UTC 版)
1969年シーズン、P139は第6戦のイギリスグランプリで投入され、ジョン・サーティースがドライブした。予選6番手からスタートしたが、これはBRMにとってシーズンの予選における最高成績であった。決勝では1周目にフロントサスペンションが破損、リタイアとなっている。続くドイツグランプリでもサスペンショントラブルが発生、決勝を走行することはできなかった。イタリアグランプリでは2台目のP139が準備され、ジャッキー・オリバーもドライブすることとなった。サーティースは周回数不足で非完走扱いとなり、オリバーは油圧低下のためリタイアした。カナダでは両者ともエンジントラブルでリタイアした。アメリカグランプリではサーティースが3位に入賞するが、チームにとって今シーズン唯一の表彰台となった。最終戦のメキシコではオリバーが6位に入賞し、チームは7ポイントを獲得、ランキング5位となった。 1970年シーズン、チームはP153を使用し、P139は開幕戦でジョージ・イートンがドライブした。イートンは予選23位、決勝はリタイアとなった。
※この「レース戦績」の解説は、「BRM・P139」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「BRM・P139」の記事については、「BRM・P139」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/09 02:31 UTC 版)
1970年、P153はメインスポンサーのヤードレー・オブ・ロンドンのカラーである白地に金と黒のラインで塗装された。ドライバーはジャッキー・オリバーとペドロ・ロドリゲス、ジョージ・イートンが起用された。ロドリゲスは第4戦のベルギーで勝利を遂げ、チームはこの年コンストラクターズランキング6位となった。 1971年、チームはロドリゲス、ジョー・シフェールとハウデン・ガンレイを起用した。シフェールはオーストリアグランプリでP160をドライブし優勝している。ロドリゲスはシーズン途中に参戦したインターセリエで事故死し、代わってピーター・ゲシンが起用された。チームはこの年36ポイントを獲得してランキング2位となった。 1972年は前年に比べ大きく成績を落とす。新型マシンのP180が重量配分の不具合で思ったようなパフォーマンスを出せず、チーム体制も拡大したためP160やP153も使用された。P153は序盤の2戦に参戦している。
※この「レース戦績」の解説は、「BRM・P153」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「BRM・P153」の記事については、「BRM・P153」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/15 13:16 UTC 版)
「イソ-マールボロ・IR」の記事における「レース戦績」の解説
FX3Bは1973シーズンの序盤3戦で使用され、ハウデン・ガンレイとナンニ・ギャリがドライブした。南アフリカグランプリではギャリが負傷で欠場したため、ジャッキー・プレトリウスがドライブしている。IRは第4戦のスペイングランプリで初登場した。予選は最後方に2台並び、決勝ではギャリが11位、ガンレイは燃料切れでリタイアした。続くベルギー、モナコと連続して両名ともリタイアしている。ベルギーではギャリがエンジントラブル、ガンレイはスロットルがスタックしてクラッシュした。モナコはガンレイが予選10番手となったが、両名ともハーフシャフトのトラブルでリタイアとなった。ギャリはこのレースを最後にF1から引退した。 スウェーデングランプリではレースの前に新型の冷却システムが装着された。ドライバーはギャリに代わってトム・ベルソが起用されたが、スポンサーマネーでシートを得、プラクティスでは最下位であった。ガンレイはウォームアップでクラッシュしたためベルソの車を使用し、11位で完走した。ベルソは出走できなかった。フランスグランプリではアンリ・ペスカロロがチームに復帰したが、オーバーヒートのためリタイアした。ガンレイは14位で完走した。イギリスグランプリではグラハム・マクレーが起用されたが、予選最下位となり決勝は1周目にスロットルの問題でリタイアした。ガンレイは予選18位、決勝は9位となっている。 ウィリアムズは引き続いてセカンドドライバーにペイドライバーを起用し、オランダグランプリではジィズ・ヴァン・レネップがシートを得た。決勝はロジャー・ウィリアムソンが事故死し影を落とすことになったが、ヴァン・レネップは2周遅れではあるが6位に入り、ガンレイは9位で完走した。このレースはイソ-マールボロがポイントを獲得した初のレースとなった。ドイツグランプリでは再びペスカロロがステアリングを握った。ペスカロロは予選12位で決勝10位となるが、ガンレイはプラクティスでブレーキトラブルのため大きくクラッシュ、決勝は出走しなかった。交換部品はすぐに製作され、同じシャシー番号「02」を与えられた。オーストリアグランプリでは再びヴァン・レネップが起用され、決勝を9位で完走した。しかしガンレイは10周遅れで非完走扱いとなった。イタリアグランプリではガンレイは11周遅れで再び非完走扱いとなり、ヴァン・レネップはオーバーヒートでリタイアした。 カナダグランプリではヴァン・レネップに代わってティム・シェンケンが起用された。レースは非常にウェットな状態で開始され、後に多くの事故が発生し、フォーミュラ1の歴史上初めてセーフティカーが導入された。F1で公式にセーフティーカーが導入されたのは1993年であるが、このレースで使用されたのはポルシェ・914で、ドライバーは元F1プライベーターであったエーピー・ウィーツェスであった。ウィーツェスは先頭車両を確認するのを失敗し、誤ってガンレイの前に留まり、最終的に勝利したピーター・レブソンを含む何名かのドライバーは周回数を稼ぐことができた。その後の混乱で、何名かはガンレイがリーダーだと考えたし、チーム・ロータスのマネージャーのコーリン・チャップマンを含む何名かはエマーソン・フィッティパルディがリーダーだと考えた。順位は混乱していたが、セーフティーカーが撤収したときにはガンレイのIRがレースをリードしていた。ガンレイはその後「彼らは私が先頭にいると思ったので、おそらくもっと試してそこに留まることにした。」と言い、そのままフィッティパルディとジャッキー・スチュワートを従えて8ラップ走行した。両者に抜かれた後、ガンレイはスチュワート、マイク・ヘイルウッド、レブソン、ジェームス・ハントと最後までバトルを続けた。フィッティパルディがゴールラインを越えたが、チェッカーフラッグは振られなかった。フラッグはレブソンに振られ、ガンレイは6位に入賞、今シーズン彼にとって初であり、チームにとっては2度目のポイント獲得となった。シェンケンは5周遅れの14位であった。ラップチャートはそれぞれ異なっていたが、ガンレイのガールフレンドが管理していたチームのチャートを含むいくつかはガンレイが勝利していたことを示唆していた。彼は後に「私は優勝か3位で終えるべきだと思った。」と語っている。 最終戦のアメリカグランプリではシェンケンに代わってジャッキー・イクスが起用され、イクスは7位、ガンレイは12位で完走した。これはIRに取って最後のレースで、結局シーズンで2ポイントを獲得、ウィリアムズはコンストラクターズランキング10位となった。
※この「レース戦績」の解説は、「イソ-マールボロ・IR」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「イソ-マールボロ・IR」の記事については、「イソ-マールボロ・IR」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/10 15:05 UTC 版)
P67は1964年イギリスグランプリにリチャード・アトウッドのドライブで参加したが、予選の終了後BRMは決勝から撤退した。その後BRMは四輪駆動プログラムをお蔵入りとし、H16エンジンの開発に注力した。興味深いことにこのエンジンは4WD用の2本目のドライブシャフトが通るためのスペースが存在していた。 手本となったファーガソン・P99もヒルクライムで活躍しており、P67は後にヒルクライムで使用されることとなった。1967年には2リッターエンジンに換装されパワーアップが図られた。ファーガソン製トランスミッションのトルク配分を調整した後、P67はヒルクライムで大成功を収めた。ピーター・ローソンは1968年にイギリス選手権でタイトルを獲得した。
※この「レース戦績」の解説は、「BRM・P67」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「BRM・P67」の記事については、「BRM・P67」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/09 13:24 UTC 版)
MS11はジャン=ピエール・ベルトワーズが独占的に使用し、シーズン後半に製作された2台目をアンリ・ペスカロロがドライブした。デビュー戦はモナコグランプリで、ベルトワーズはアクシデントのため11周でリタイアした。ベルギーグランプリでは8位となった。オランダグランプリではスチュワートに次ぐ2位となり、ファステストラップも記録、マトラの1-2フィニッシュとなった。これがMS11の最高位となった。イタリアグランプリでは5位となっている。シーズン後半に2台目のMS11が完成し、アンリ・ペスカロロがドライブした。マトラのワークス活動は1年で終了し、1969年シーズンはコスワースDFVを搭載したMS80の開発に集中した。ティレルはMS80でドライバーおよびコンストラクターズタイトルを獲得することとなる。 ギャラリー マトラ・MS11、2012年 ジャン=ピエール・ベルトワーズ(前)とジャッキー・スチュワート(後)、1968年オランダグランプリ。 ジャン=ピエール・ベルトワーズがドライブするMS11、1968年ドイツグランプリ。 マトラ V12エンジン
※この「レース戦績」の解説は、「マトラ・MS11」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「マトラ・MS11」の記事については、「マトラ・MS11」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 14:59 UTC 版)
「セオドール・TY02」の記事における「レース戦績」の解説
ドライバーはシーズンを通して予選通過のために苦戦した。開幕戦南アフリカには間に合わず、第2戦ブラジルからの投入となった。デレック・デイリーは2戦でリタイアしている。第4戦はFOCAのボイコットに応じて不参戦となった。ヤン・ラマースは6戦中予選通過は1回、トミー・バーンは5戦中2回、ジェフ・リースは第8戦カナダのみの参加であり予選通過したが、いずれのドライバーも完走できなかった。 1983年に入るとチームは元々エンサインのマシンであったN183を投入、N183はチームにポイントをもたらした。 セオドールがF1を撤退した後、TY02は1984年にビル・テンペロに売却されCan-amに参戦した。
※この「レース戦績」の解説は、「セオドール・TY02」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「セオドール・TY02」の記事については、「セオドール・TY02」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/03 14:15 UTC 版)
マーチ・821は、ジョン・マクドナルドのファクトリーチームだけでなく、カスタマーのLBTチーム・マーチも使用した。いずれのドライバーもポイントを獲得することはなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「マーチ・821」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「マーチ・821」の記事については、「マーチ・821」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/04 00:15 UTC 版)
ライフは1台体制でシーズンに望んだ。ドライバーにはゲイリー・ブラバムを起用したが、開幕戦から予備予選落ちした。2戦を走った時点でブラバムはチームに見切りを付けて離脱する。第3戦からブルーノ・ジャコメリがドライブするが、ジャコメリは6年ぶりのF1復帰であった。ドライバーが代わっても戦闘力は向上せず、予備予選落ちを続ける。チームはW12エンジンの使用を諦め、第13戦ポルトガルでジャッドエンジンを搭載したマシンを投入するが、それでも予備予選を通過することはできなかった。第14戦スペインを終えたところで、チームはF1から撤退する。L190は結局全戦で予備予選落ちし、決勝を走ることは無かった。
※この「レース戦績」の解説は、「ライフ・L190」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ライフ・L190」の記事については、「ライフ・L190」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 00:27 UTC 版)
1985年 - スターレットノーマルカップシリーズでデビュー (デビューレースは10位スタートで3位表彰台) 1990年前後 - VW GOLFポカール 、ミラージュカップなどワンメイクレースで活躍 1994年 - 全日本GT選手権・GT1クラス CCI あめんぼうシルビアで参戦 1998年 - 全日本GT選手権・GT300クラス イエローマジックF355GTでRd.4にスポット参戦 1999年 - N1耐久レース Class4にFALKENブースカCIVIC(EK9)で参戦。嵐の仙台ハイランドで初優勝 2000年 - スーパー耐久シリーズ クラス3 BPビスコガンマ RX-7で参戦(シリーズチャンピオン) 2001年スーパー耐久シリーズ・クラス3 BPビスコガンマ RX-7で参戦(シリーズチャンピオン) ニュルブルクリンク24時間耐久レース Porsche993 SuperCup(総合12位、クラス6位) 2002年スーパー耐久シリーズ・クラス3 FORTUNE 科芸専 RX-7で参戦(シリーズ6位) ニュルブルクリンク24時間耐久レース RX-7(クラス4位) 2003年全日本GT選手権・GT300クラス 雨宮マツモトキヨシアスパラRX-7で参戦(シリーズ15位) ニュルブルクリンク24時間耐久レース Porsche996 Cup 完走 2004年 - 全日本GT選手権・GT300クラス ARKTECH Porsche968で参戦 2005年SUPER GT・GT300クラス ARKTECH PorscheBoxsterで参戦 スーパー耐久シリーズ・クラス3 TOTAL SPORTS ingsZで最終戦にスポット参戦(クラス優勝) ニュルブルクリンク24時間耐久レース Suzuki SwiftSport(クラス優勝) 2006年 - スーパー耐久シリーズ・クラス3 eeiA ingsZで参戦(シリーズ2位、ドライバーとしては最多ポイント獲得) 2007年スーパー耐久シリーズ・クラス3 カルラレーシング☆ings北海Zで参戦(シリーズチャンピオン) SUPER GT・GT300クラス NobelBiocareSpecialOlympicsGT3でRd.8とRd.9にスポット参戦 ポルシェCUPのF1前座レースにスポット参戦 ポールポジション獲得 決勝2位 2008年SUPER GT・GT300クラス 4CARAT SON GT3でRd.1にスポット参戦 スーパー耐久シリーズ・クラス1 こばやし歯科 PORSCHE GT3 WITH COXでRd.5にスポット参戦 2012年 - スーパー耐久シリーズ 鈴鹿にNOPROデミオでスポット参戦 2位 2013年 - スーパー耐久シリーズ 富士にTracy S2000でスポット参戦 予選2位、決勝はトップを快走するがサスペンショントラブルでリタイヤ 2014年 - スーパー耐久シリーズに埼玉トヨペット GreenBrave86でフル参戦。ベストリザルト2位ニュルブルクリンク24時間耐久レースにS2000で参戦 予選3位、決勝は相棒のクラッシュでリタイヤ 2015年 - ニュルブルクリンク24時間耐久レースにBMW M3で参戦。マシントラブルでリタイヤ 2016年 - スーパー耐久 富士にオートファクトリー86でスポット参戦 予選で全体ベストをマーク 2018年 - スーパー耐久 SUGOにオートファクトリー86でスポット参戦 決勝2位 富士24時間耐久にオートファクトリー86で参戦。予選で全体2位。決勝レースではクラス優勝 2019年 - スーパー耐久 最終戦岡山に5ZIGEN AMG GTでST-Zクラスにスポット参戦。マレーシアチャンピオンシップシリーズにRiyoz Racing SWIFTでスポット参戦。クラス優勝 マレーシアSepang1000kmにRiyoz Racing SWIFTで参戦。クラス2位 2021年 - 富士24時間耐久にBMW M2CS Racingでクラス1に参戦。3位完走
※この「レース戦績」の解説は、「大井貴之」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「大井貴之」の記事については、「大井貴之」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/14 14:54 UTC 版)
「ザクスピード・891」の記事における「レース戦績」の解説
ザクスピードはシーズン前に新車で一連のテストを行った。1989年2月から3月にはエンジンでは多くの問題が発生した。開幕戦直前のリオデジャネイロにおけるテストでは、エンジンに8回のトラブルが生じ、数Kmしか走行できなかった。 前年の成績により、1989年のザクスピードは予備予選への出走を課された。ドライバーはフル参戦2年目のベルント・シュナイダーとフル参戦初年度の鈴木亜久里だったが、両者ともマシンの競争力に苦しめられた。全16戦のうちシュナイダーがブラジルGPと日本GPの2戦で決勝に進出した他は、全て予備予選不通過となった。また、決勝に進出した2レースはいずれもリタイアに終わった。 ザクスピードは1990年1月にポールリカールで修正型の891でテストを行った。しかしながら新シーズンの前にF1から撤退した。 ヤマハ・OX88は再利用されなかった。ヤマハは1990年シーズンへの参加を取りやめたが、1991年には新設計の12気筒エンジン、OX99をブラバムに供給した。
※この「レース戦績」の解説は、「ザクスピード・891」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ザクスピード・891」の記事については、「ザクスピード・891」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/20 16:02 UTC 版)
「ザクスピード・861」の記事における「レース戦績」の解説
1985年はヨーロッパで開催されたレースにのみ1台体制で参戦していたが、1986年は2台体制に拡大された。開幕戦のブラジルと第2戦のスペインはジョナサン・パーマーの1台体制であったが、第3戦サンマリノからはヒューブ・ロテンガッターも起用された。ロテンガッターは自らの資金をチームにもたらした。861は両名合わせて完走が10回であった。最高位はデトロイトグランプリでのパーマーと、オーストリアグランプリでロテンガッターが記録した8位であった。861は1987年シーズンも開幕戦と第2戦で使用された。その後はデトロイトグランプリでマーティン・ブランドルが871をプラクティスでクラッシュさせた後、861をスペアカーとして使用した。決勝ではターボトラブルでリタイアしている。
※この「レース戦績」の解説は、「ザクスピード・861」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ザクスピード・861」の記事については、「ザクスピード・861」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/25 01:41 UTC 版)
2000年 - 地方カート競技選手権参戦(シリーズ6位) 2001年全日本カート選手権・東地域 FJ日本一決定戦で4輪レースデビュー(決勝17位) 2002年 - エッソ・フォーミュラ・トヨタシリーズ(シリーズ6位) 2003年 - エッソ・フォーミュラ・トヨタシリーズ(シリーズ3位) 2004年全日本F3選手権(NOW MOTORSPORT #33 SSR DeoDEO 童夢F106/06)(シリーズ11位) 第51回F3マカオGP(SSR DeoDEO 童夢F106/06)(決勝DNF) 第1回バーレーンスーパープリ(SSR DeoDEO 童夢F106/06)(決勝DNF) スーパー耐久シリーズ(スポット参戦) 2005年TDPドライバー契約を締結する。 全日本F3選手権(TOM'S #38 TDP TOM'S ダラーラF305)(シリーズ7位) 第52回F3マカオGP(#26 TDP TOM'S ダラーラF305)(決勝17位) スーパー耐久シリーズスポット参戦(第7戦SUGOにてST5クラスのクラス優勝を飾る、パートナーは黒澤琢弥) 2006年全日本F3選手権(エクシードモータースポーツ #75 EMS ダラーラF306)(シリーズ10位) SUPER GTシリーズ・GT300クラス(#55 DHG ADVANFORD GT)(シリーズ16位) 第53回F3マカオGP(EMS ダラーラF306) 2007年 - SUPER GTシリーズ・GT300クラス(#55 DHG ADVAN FORD GT)(27位) 2008年 - SUPER GTシリーズ・GT300クラス(#110 KUMHO BOXSTER-GT)(シリーズ26位) 2009年 - SUPER GTシリーズ・GT300クラス(#110 KUMHO "ARKTECH SG-1")<第1戦>、(#111 石松 with ARKTECH GT3)<第2~4戦>
※この「レース戦績」の解説は、「池田大祐」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「池田大祐」の記事については、「池田大祐」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 04:41 UTC 版)
「エンサイン・N173」の記事における「レース戦績」の解説
エンサイン・N173は1973年から1974年にかけて3名のドライバーがドライブした。3名ともN173での出走がデビュー戦であった。
※この「レース戦績」の解説は、「エンサイン・N173」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「エンサイン・N173」の記事については、「エンサイン・N173」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:26 UTC 版)
1999年 - フェラーリチャレンジ(優勝3回、ポールポジション3回)/フェラーリ世界戦inイタリア(120台中12位、国別対抗戦2位)MVP of The Year受賞 2000年 - イギリス・フォーミュラ・ルノー参戦 2001年 - フランスF3参戦(SIGNATURE-RENAULT)入賞4回 2002年 - AF2000参戦 参戦レース全戦表彰台獲得・2勝/AF2000世界戦マカオGP(3位) 2003年 - フォーミュラBMWアジアシリーズ(Team Yellow Hat)(シリーズ3位・シリーズ全戦表彰台) 2005年 - イギリスF3選手権・チャンピオンシップクラス(Carlin Mortorsports)入賞7回 2006年 - イギリスF3選手権・チャンピオンシップクラス(Carlin Mortorsports)入賞4回 2008年 - アストンマーティンアジアカップ チャリティーゲスト参戦 2009年 - フォーミュラ・ル・マン・カップ <Rd.3> (Exagon Engineering/Oreca FLM09) 入賞 2012年 - WEC参戦シリーズ7位・入賞3回 (Gulf racing middle east/Lola NISSAN) 2013年 - WEC参戦入賞5回(OAK RACING/Morgan NISSAN)入賞5回 ドライバーズランキング22位、女性世界最高位 2014年 - WEC第3戦ルマン24時間レース日本人最高位総合14位で完走。WEC日本戦・バーレーン戦3位連続表彰台獲得(世界女性初)。アジアンルマンシリーズ総合優勝(世界女性初)。 2016年 - IMSAスポーツカーチャンピオンシップ第2戦「セブリング12時間レース」結果は8位。 2017年 - アジアンルマンシリーズ4位 2018年 - WEC5位
※この「レース戦績」の解説は、「井原慶子」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「井原慶子」の記事については、「井原慶子」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 22:57 UTC 版)
「ステファン・ペテランセル」の記事における「レース戦績」の解説
1988パリダカ18位(二輪・ヤマハ) インターナショナル・シックスデイズ・エンデューロ 総合優勝 2ストローク500クラス優勝(二輪・ヤマハ) 1989パリダカ4位(二輪・ヤマハ) インターナショナル・シックスデイズ・エンデューロ 総合優勝 2ストローク500クラス優勝(二輪・ヤマハ) 1990チュニジアラリー優勝(二輪・ヤマハ) アトラスラリー優勝(二輪・ヤマハ) 1991パリダカ優勝(二輪・ヤマハ、初) インターナショナル・シックスデイズ・エンデューロ 総合優勝 2ストローク250クラス優勝(二輪・ヤマハ) 1992パリダカ優勝(二輪・ヤマハ、2回目) パリ・モスクワ・ペキン優勝(二輪・ヤマハ) 1993パリダカ優勝(二輪・ヤマハ、3回目) 1994(パリダカ不参加) チュニジアラリー優勝(二輪・ヤマハ、2回目) インターナショナル・シックスデイズ・エンデューロ 総合優勝 2ストローク250クラス優勝(二輪・ヤマハ) 1995パリダカ優勝(二輪・ヤマハ、4回目) インターナショナル・シックスデイズ・エンデューロ 総合優勝 2ストローク250クラス優勝(二輪・ヤマハ) 1996パリダカリタイヤ(二輪・ヤマハ) UAEデザートチャレンジ優勝(二輪・ヤマハ、初) 1997パリダカ優勝(二輪・ヤマハ、5回目) エンデューロ世界選手権 2ストローク250チャンピオン(二輪・ヤマハ、初) UAEデザートチャレンジ4位(二輪・ヤマハ、初) 1998パリダカ優勝(二輪・ヤマハ、6回目) シャモニー24時間レース優勝(四輪) 1999パリダカ7位(四輪・ニッサン) 2000パリダカ2位(四輪・メガ) 2001パリダカ総合12位、T1クラス優勝(四輪・ニッサン) エンデューロ世界選手権優勝(二輪・ヤマハ、2回目。4スト250cc) 2002チュニジアラリー優勝(四輪・三菱) *UAEデザートチャレンジ優勝(四輪・三菱) 2003パリダカ3位(四輪・三菱) バハイタリア2位(四輪・三菱) UAEデザートチャレンジ優勝(四輪・三菱、2回目) 2004パリダカ優勝(四輪・三菱、初) チュニジアラリー優勝(四輪・三菱、2回目) モロッコラリー優勝(四輪・三菱) UAEデザートチャレンジ8位(四輪・三菱) 2005パリダカ優勝(四輪・三菱、2回目) パタゴニア=アタカマラリー2位(四輪・三菱) モロッコラリーリタイヤ(四輪・三菱) UAEデザートチャレンジ優勝(四輪・三菱、3回目) 2006パリダカ4位(四輪・三菱) チュニジアラリー優勝(四輪・三菱、3回目) UAEデザートチャレンジ2位(四輪・三菱) 2007パリダカ優勝(四輪・三菱、3回目) 2008パリダカは開催中止 2012パリダカ優勝(四輪・MINI、4回目) 2013パリダカ優勝(四輪・MINI、5回目)
※この「レース戦績」の解説は、「ステファン・ペテランセル」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ステファン・ペテランセル」の記事については、「ステファン・ペテランセル」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 16:43 UTC 版)
「ダッジ・バイパー GTS-R」の記事における「レース戦績」の解説
1996年にデビューした2つのレーシングチームは、競争のためにクライスラー・バイパーGTS-Rを別々に開発した。カナスカサウスウィンドは、IMSA GT選手権のGTS-1クラスに参戦し、1996年デイトナ24時間レースで総合29位でフィニッシュした。またチームは続くセブリング12時間レースで総合12位でフィニッシュし順位をあげた。バイパー・チーム オレカもル・マン24時間レースから参戦を始めた。 両チームはそれぞれ2台のエントリーで1996年ルマン24時間レースにLMGT1クラスで出場した。4台のうち3台は完走し、最高位総合10位で結果を出した。その後、2チームはそれぞれのシリーズに戻り、バイパー・チームオレカは、BPRグローバルGTシリーズのレースで、ブランズハッチで8位、スパで9位、ノガロで6位を獲得してた。カナスカサウスウィンドは、モスポートでクラス2位、総合6位でシーズンを締めくくった。 1997年、カナスカサウスウィンドチームはバイパーでの参戦を終了した。これで、バイパーはオレカがデイトナ24時間レースで唯一のエントリーとなり、総合15位でフィニッシュし、IMSA GTのバイパーの唯一の参戦となった。デイトナの後、チームはヨーロッパに戻り、BPRシリーズに取って代わったFIA GT選手権に参戦した。チームはGT1クラスに参加していた、ポルシェとメルセデスベンツが強力な為、彼らのいないGT2クラスに切り替えると同時に、カスタマーチームのチェンバレン エンジニアリングチームが加わった。オレカは初戦、ロックレーシング ポルシェ・911GT2を抑え、クラス1-2位フィニッシュでシーズンをスタートし、11レースで通算7勝を挙げ、GT2クラスのドライバー、チームのダブルタイトルを獲得した。チームオレカは3台のマシンで1997年ルマン24時間に参戦、LMGT2クラス5位、総合14位でフィニッシュした。別のカスタマーであるチームタイサンのバイパーは全日本GT選手権のGT500に出場し、2戦出場し、最高位は8位だった。 1998年、チームオレカはFIA GT選手権で10レース中、1戦を除き9勝を挙げタイトルを獲得した。ルマン24時間レースでは、初のLMGT2クラス優勝を収め、総合11位でフィニッシュした。プライベーターのチェンバレンはFIA GTで数ポイントを獲得し、デイトナ24時間では総合14位でフィニッシュした。 1999年、オレカの取り組みはさらに拡大し、チームは2つのチャンピオンシップに参戦。新たに始まるアメリカンルマンシリーズに2台と、FIA GT選手権ではさらに2チーム、計4チームで参戦した。 FIA GTでは、GT1クラスが廃止されたこの年、GTクラス1つになり、バイパーは再びシリーズを席巻し、チームオレカが9勝を上げドライバーズ、チームのダブル優勝した。ポールベルモンドレーシングが1勝を挙げた。チェンバレンはチームを改善してチャンピオンシップ2位に終わり、GLPKカースポーツは4番目のバイパーのカスタマーチームだった。ALMSでも、GTSクラスでチームオレカは、6連勝を上げ、チームチャンピオンシップも獲得した。そしてオレカは、ルマン24時間レースでLMGTSクラスで2連勝を達成し、その他出場したバイパーもクラス上位6位でフィニッシュした。ニュルブルクリンク24時間レースでは、ザクスピードのバイパーGTS-Rが総合優勝した。 2000年、オレカは北米に集中することを選択し、FIA GT選手権はプライベーターに任せた。チームは、デイトナ24時間での開幕戦、シボレー・コルベットのファクトリーチームをわずかに上回り、デイトナ24時間レースで総合優勝した。オレカはアメリカンルマンシリーズでGTSクラス10勝し、再びチームチャンピオンシップを獲得した。オレカはまた、ル・マン24時間レースでコルベットを上回り、LMGTSクラス1位、総合7位で3連覇を達成した。FIA GT選手権では、ポール・ベルモンドレーシングとカースポーツ・ホランドチームが走り、計6レースで勝利したが、リスターストームが5勝を上げ、2チームはチャンピオンシップでGTクラス2位と3位になった。 2001年、クライスラーはパートナーのオレカとともに、ルマン・プロトタイプでの参戦のみに専念することを決定し、バイパーでの参戦を終了した。アメリカンルマンシリーズでは、アメリカン・バイプレーシングが参戦、しかし勝利を収めることはなく、チャンピオンシップ3位だった。しかし、FIA GT選手権は、8チームがバイパーで参戦。ラルブル・コンペティションは4戦で(スパ24時間レースを含む)で優勝してダブルタイトルを獲得し、カースポーツ・ホランドは2レースで優勝して2位を獲得した。ザクスピードはニュルブルクリンク24時間で2度目の優勝を果たした。しかし、ルマン24時間レースではファクトリーチームのコルベットレーシングがクラス優勝し、バイパーは完走が1台だけだった。 2002年、ラルブルコンペティションはFIA GT選手権チャンピオンシップを防衛したが、シーズン1勝だった。カースポーツホランドとポールベルモンドも勝利を収めたが、新規参戦したフェラーリ・550マラネロは4勝を上げ今後の可能性を示した。ザクスピードはニュルブルクリンク24時間で連覇を果たした。ルマン24時間レースでは、オレカが支援し参戦したバイパーが、2台のファクトリーコルベットから数周遅れたものの、LMGTSクラス3位でフィニッシュした。 2003年、プロドライブ製のフェラーリ・555マラネロが強さを発揮。バイパーはFIA GT選手権でラルブルコンペティションのチャンピオンシップ7位が最高になった。JGTCではチームタイサンのバイパーが、第4戦富士スピードウェイでGT300クラスで初勝利を手にした。そしてルマン24時間レースに参戦、ラルブルがクラス4位でフィニッシュした。ALMSでは、カースポーツ・アメリカがGTSクラス4位だった。 2004年、バイパーGTS-Rは段階的に参戦が廃止され始めた。ツワーンズレーシングだけが、FIA GT選手権のフルシーズンに参戦し、チャンピオンシップで9位だった。ALMSでは、カースポーツ・アメリカがGTSクラスランキング3位だった。 2005年、FIA GT選手権のバイパー参戦はスパ24時間レースのみで12位だった。ALMSでは、カースポーツ・アメリカがGT1クラスランキング3位だった。 2006年、バイパーGTS-RはフランスGTとイタリアGTで参戦したが、勝利は減少し続けた。 2007年、ダッジ・バイパーGTSのボディスタイルが5年前モデルチェンジしたため、バイパーGTS-Rのホモロゲーションは終了した。 2008年、1999年のオレカの仕様に完全に復元されたバイパーGTS-Rがグッドウッドフェスティバルオブスピードに招待され、1999年ルマン24時間のドライバーであるジャスティンベルがその時のカラーリングのマシンで運転した。 2010年、グッドウッドフェスティバルオブスピードに再び参加し、デイトナ24時間レース総合優勝10周年を祝った。
※この「レース戦績」の解説は、「ダッジ・バイパー GTS-R」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ダッジ・バイパー GTS-R」の記事については、「ダッジ・バイパー GTS-R」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 09:35 UTC 版)
1984年に2輪ロードレース開始。 1985年、ノービス125ccにデビュー。 1986年には全日本ロードレースシリーズ選手権ジュニア125ccクラスで8戦中4勝と圧勝シリーズチャンピオンを獲得。 1997年に国際A級250ccに転向するも、BIG2&4レース第2戦で大クラッシュ。大怪我を負ってしまい引退。この年、全日本では押しがけスタート方式から、クラッチスタートに変更された年だった。 その後、趣味でカートを始め、ヒストリクカーレースにも参戦、ネオヒストリックカージネッタG12でマイスターカップシリーズチャンピオン獲得 1998年からFJ1600に参戦。デビューレース エビス選手権でいきなり優勝、富士選手権でも勝利を収める。 1999年モテギ7時間耐久オートバイレースに参戦前哨戦の3時間耐久で優勝、決勝では僚友によるタイムレースでポールポジションを獲得 翌年2000年モテギ7時間耐久オートバイレースに参戦 2000年から2002年には、関東F4選手権に参戦し、2002年にシリーズチャンピオンを獲得。 それを手土産に2003年、スーパー耐久シリーズにフル参戦、オガワランサーでシリーズ2クラス6位を獲得 フォーミュラ・ニッポンにノバ・エンジニアリングから参戦。出場ドライバーの中では最年長で話題になった(藤澤を除いて最年長だった服部尚貴よりも年上だった)。
※この「レース戦績」の解説は、「藤澤哲也」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「藤澤哲也」の記事については、「藤澤哲也」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 01:45 UTC 版)
2000年 - レーシング・カートでの活動を開始。 2001年 - 中九州カートウェイKT83クラス(シリーズ6位) 2002年 - 中九州カートウェイKT83クラス(シリーズ2位) 2003年中九州カートウェイPCRクラス(シリーズ2位) ソニックパーク安心院PCRクラス(シリーズ2位) 2004年 - 中九州カートウェイPCRクラス(シリーズチャンピオン) 2005年全日本カート選手権FAクラス(シリーズチャンピオン) CIK-FIAアジア・パシフィック・カート選手権ICAクラス(決勝3位) フォーミュラトヨタレーシングスクール受講(スカラシップ獲得) 2006年エッソ・フォーミュラ・トヨタシリーズ(#8 TDPスカラシップFT/FT30)(シリーズ6位) フォーミュラチャレンジ・ジャパン(#16 TDPスカラシップFCJ/FC106)(シリーズ10位) 2007年エッソ・フォーミュラ・トヨタシリーズ(#8 TDPスカラシップFT/FT30)(シリーズ3位・1勝) フォーミュラチャレンジ・ジャパン(#21 TDPスカラシップFCJ/FC106)(シリーズ6位・2勝) 2008年全日本F3選手権・全日本選手権クラス(PETRONAS TEAM TOM'S #37 TDPトムスF308/ダラーラF308 1AZ-FE)(シリーズ3位・3勝) SUPER GT・GT300クラス<Rd.3〜9>(TEAM TAKEUCHI with SHIFT #52 GREEN TEC KUMHO IS350/レクサスIS350 RV8J)(シリーズ32位) 2009年全日本F3選手権・Cクラス(PETRONAS TEAM TOM'S #36 PETRONAS TOM'S F308/ダラーラF308 1AZ-FE)(シリーズ2位・5勝) SUPER GT・GT300クラス(apr #74 COROLLA Axio apr GT/トヨタカローラアクシオ NZE141 2GR-FSE)(シリーズ10位) 2010年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(DELIZIEFOLLIE/CERUMO・INGING #29/スウィフト017.n RV8K)(シリーズ13位) SUPER GT・GT300クラス(apr #74 COROLLA Axio apr GT/トヨタカローラアクシオ NZE141 2GR-FSE)(シリーズ5位・1勝) 2011年 - SUPER GTシリーズ・GT500クラス(LEXUS TEAM SARD #39 DENSO SARD SC430/LEXUS SC430 UZZ40 RV8KG)(シリーズ7位) 2012年SUPER GTシリーズ・GT300クラス(LMP TRMORSPORT #27 PACIFIC NAC イカ娘 フェラーリ/Ferrari F430 GTC F136GT)(シリーズ21位) ニュルブルクリンク24時間レース ディビジョン2・SP3クラス(GAZOO Racing #166 トヨタ・86/FA20)(総合46位・クラス優勝) スーパー耐久シリーズ第6戦アートポリス・ST-4クラス(GAZOO Racing #86 トヨタ・86/FA20)(総合11位・クラス3位) バンセン4時間耐久レース Division 1(GAZOO Racing #38 トヨタ・ヴィオス)(総合優勝・クラス優勝) 2013年スーパー耐久シリーズ・ST-4クラス(GAZOO Racing #86 トヨタ・86/FA20)(シリーズ6位・1勝) SUPER GTシリーズ・GT300クラス(Rd.05鈴鹿にスポット参戦)(R&D SPORT #61 SUBARU BRZ R&D SPORT/SUBARU BRZ ZC6 EJ20)(シリーズ10位・1勝) ニュルブルクリンク24時間レース ディビジョン2・SP3クラス(GAZOO Racing #135 トヨタ・86/FA20)(予選リタイヤ) インタープロトシリーズ(開幕戦のみ出場) 2014年SUPER GTシリーズ・GT300クラス(R&D SPORT #61 SUBARU BRZ R&D SPORT/SUBARU BRZ ZC6 EJ20) スーパー耐久シリーズ・ST-4クラス(GAZOO Racing #86 トヨタ・86/FA20) ニュルブルクリンク24時間レース ディビジョン2・SP PROクラス(GAZOO Racing #53 レクサス・LFA Code X/1LR-GUE)(総合12位・クラス優勝) ニュルブルクリンク耐久レースシリーズ VLN3・SP PROクラス(GAZOO Racing #53 レクサス・LFA Code X/1LR-GUE)(総合67位・クラス3位) 2015年SUPER GTシリーズ・GT300クラス(R&D SPORT #61 SUBARU BRZ R&D SPORT/SUBARU BRZ ZC6 EJ20) スーパー耐久シリーズ・ST-4クラス(GAZOO Racing #86 トヨタ・86/FA20) ニュルブルクリンク24時間レース ディビジョン2・SP PROクラス(GAZOO Racing #53 レクサス・LFA Code X/1LR-GUE)(総合14位・クラス優勝) 2016年SUPER GTシリーズ・GT300クラス(R&D SPORT #61 SUBARU BRZ R&D SPORT/SUBARU BRZ ZC6 EJ20) スーパー耐久シリーズ・ST-4クラス(TOYOTA Team TOM'S SPIRIT #86 トヨタ・86/FA20) ニュルブルクリンク24時間レース ディビジョン2・SP PROクラス(TOYOTA GAZOO Racing with TOM'S #36 RC F/LEXUS RC F USC10 2UR-GSE)
※この「レース戦績」の解説は、「井口卓人」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「井口卓人」の記事については、「井口卓人」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 02:45 UTC 版)
1969年 公認取得の条件となる25台製造に手間取り、実戦投入のタイミングが遅れた。メイクス国際選手権第6戦フランコルシャン1000キロメートルでデビューしたが、1周のみでリタイア。参戦初年度は主戦の908と併用されつつ、実戦で開発が続けられた。当初はエンジンパワーにシャーシが追いつかずハンドリングに問題があり、最終戦オーストリアの1勝に終わった。ル・マン24時間ではプライベーターのジョン・ウルフが炎上死し、首位を独走していたヴィック・エルフォード/リチャード・アトウッド組も残り3時間でリタイアした。 カナディアン-アメリカン・チャレンジカップには、シリーズ後半戦から917PAスパイダーで参戦。ポルシェのディーラーチームとして出場し、ジョー・シフェールがシリーズ総合4位を獲得した。 1970年 メイクス国際選手権でのワークス参戦を休止。前年までフォード陣営にいたジョン・ワイヤ率いるJWオートモーティヴ・エンジニアリング (JWA) と提携し、レース活動を委託。マシンはガルフ石油の水色×オレンジ色のスポンサーカラーに塗装された。また、ピエヒ一族が経営するディーラー系チームであるポルシェ・コンストルクチオネン・ザルツブルクもセミワークスとして参戦した。 JWAの提案によりショートテールの917Kに改良されたのが功を奏し、走行安定性が大幅に改善。メイクス国際選手権ではライバルのフェラーリ・512を寄せ付けず、10戦中7勝(ほかに908/03でも2勝)を挙げてチャンピオンシップを獲得した。ル・マン24時間ではザルツブルクチームのハンス・ヘルマン/リチャード・アトウッド組の917Kが優勝し、ポルシェ悲願のルマン総合優勝を果たした。 1971年 メインチームのJWAに加え、ザルツブルクチームの解散によりマルティーニ・インターナショナルがセミワークス待遇となった。メイクス国際選手権では11戦中7勝(908/03でも1勝)し、マニュファクチャラーズチャンピオン3連覇を達成した。連覇を果たしたル・マン24時間では、マルティーニチームのヘルムート・マルコ/ジィズ・ヴァン・レネップ組の917Kが走行距離5,335.313Kmを達成。この記録は2010年に塗りかえられるまで39年の間最長であった。また、JWチームのジャッキー・オリバーがユノディエールで記録した246mph (396km/h) も1988年まで最高速記録であった。 カナディアン-アメリカン・チャレンジカップにはペンスキー・レーシングに917/10スパイダーを委託して参戦。優勝はできなかったが、シフェールがシリーズ総合4位を獲得した。 1972年 メイクス国際選手権がメイクス世界選手権への名称変更に伴いスポーツカーが排除されたため、917は選手権に参戦できなくなり、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップへ集中して参戦するようになった。ターボチャージャーを搭載した917/10Kを投入し、ペンスキーチームのジョージ・フォルマーが5勝してシリーズチャンピオンを獲得。シリーズを支配し続けていたマクラーレンをついに破った。 1973年 カナディアン-アメリカン・チャレンジカップシリーズ用に917/10Kより大幅に馬力を増大させたポルシェ917/30Kを追加。ペンスキーチームのマーク・ダナヒューが全8戦中6勝しシリーズチャンピオンを獲得した。残りの2勝も917/10Kが挙げ、シリーズ完全制覇を成し遂げた。 しかし、翌年から燃費に関するレギュレーション変更が行われることになり、ポルシェはシリーズからの撤退を決め、917のレース活動も最後となった。
※この「レース戦績」の解説は、「ポルシェ・917」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ポルシェ・917」の記事については、「ポルシェ・917」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 06:48 UTC 版)
2002年 - コンストラクターズランキング3位。最上位は梁明の2位(第1戦日本GP)。 2003年 - コンストラクターズランキング5位。最上位はジョン・ホプキンスの7位(第3戦スペインGP)。 2004年 - コンストラクターズランキング5位。最上位はジョン・ホプキンスの6位(第11戦ポルトガルGP)。 2005年 - コンストラクターズランキング5位。最上位はケニー・ロバーツJr.の2位(第9戦イギリスGP)。 2006年 - コンストラクターズランキング4位。最上位はクリス・バーミューレンの2位(第14戦オーストラリアGP)。 2007年 - コンストラクターズランキング4位。第5戦フランスGPにてクリス・バーミューレンがGSV-Rの初優勝を記録。 2008年 - コンストラクターズランキング4位。3位表彰台を3回記録(クリス・バーミューレンが2回、ロリス・カピロッシが1回)。 2009年 - コンストラクターズランキング4位。5位を5回記録(ロリス・カピロッシが4回、クリス・バーミューレンが1回)。 2010年 - コンストラクターズランキング4位。最上位はアルバロ・バウティスタの5位(第7戦カタルーニャGP)。 2011年 - コンストラクターズランキング4位。最上位はアルバロ・バウティスタの5位(第6戦イギリスGP)。
※この「レース戦績」の解説は、「スズキ・GSV-R」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「スズキ・GSV-R」の記事については、「スズキ・GSV-R」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/17 19:35 UTC 版)
1978年シーズンの開幕2戦、セオドールはアメリカ人ドライバーのエディ・チーバーを起用した。チーバーはアルゼンチンとブラジル、共に予選落ちしている。ブエノスアイレスでは最下位で予選通過したブレット・ランガーより1秒遅れであったが、リオデジャネイロでは最下位のルパート・キーガンから0.08秒遅れであった。このレースの後チーバーはヘスケスに移籍した。 チーバーに代わってフィンランド人ドライバーのケケ・ロズベルグが起用され、南アフリカグランプリでF1にデビューした。ロズベルグは新造された2台目のTR1をドライブし、24位で予選を通過した。ロズベルグはヘスケス・308Eをドライブしたチーバーよりも上位で予選を通過した。決勝でロズベルグは15周目にメカニカルトラブルでリタイアした。公式記録ではクラッチにトラブルが生じたとされるが、他の記録ではブレーキが故障したとされる。その結果ロズベルグのマシンは壁に激突した。車はひどく破損した。ロズベルグは無事だったものの、気化したガソリンのガスを吸い込み呼吸器に刺激を受けた。 ロスベルグの次のレースは2週間後にシルバーストンで行われたBRDCインターナショナル・トロフィーで、これはノンタイトル戦であった。このレースにはブラバム、エンサイン、ロータス、マクラーレン、シャドウ、ティレルといったイギリスのチームが参加し、フェラーリとルノーは参加しなかった。セオドールはロズベルグを起用してTR1で参加した。レースには17台が参加し、ロズベルグは予選12番手となった。決勝でロズベルグは悪天候の恩恵を受けることとなった。土砂降りの雨の中13台がリタイアしたが、この中にはブラバム、ロータス、マクラーレンが含まれた。4台のみが完走し、その内2台はプライベーターであった。ロズベルグはレースの大半をリードし、そのままフィニッシュした。この勝利は最初で唯一のセオドールのフォーミュラ1における勝利であった。 しかしながらこの勝利は繰り返されなかった。アメリカ西、モナコ、スペインとロズベルグは予備予選落ちする。ベルギーでは予備予選を通過したものの、予選落ちした。スペイングランプリの後、テディ・イップはTR1に見切りを付けた。チームはスウェーデン、フランス、イギリスと欠場し、ドイツグランプリからはウォルター・ウルフ・レーシングから購入したWR3で戦った。
※この「レース戦績」の解説は、「セオドール・TR1」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「セオドール・TR1」の記事については、「セオドール・TR1」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:12 UTC 版)
2002年 - カートレースデビュー東日本ジュニアチャンピオンカップ スーパーJrクラス参戦シリーズランキング 3位 2003年 - NTCカップ Sクラス参戦 シリーズチャンピオン(優勝2回、2位3回) 2004年ジャパンオープンマスターズ RSOクラス参戦シリーズランキング 8位(優勝1回、表彰台1回) 11月 CIK-FIA アジアパシフィック選手権 Rokクラス 47台中5位入賞 2005年 - ジャパンオープンマスターズ RSOクラス参戦シリーズランキング 2位(全5戦中、優勝1回、2位4回) 2006年全日本カート選手権 FAクラス参戦シリーズランキング 9位(3位2回、PP2回) 12月 NDDP(ニッサン・ドライバー・デベロップメント・プログラム)のオーディションに参加 NDDPスカラシップを獲得 2007年 - フォーミュラチャレンジ・ジャパン参戦 シリーズランキング 15位(入賞3回) 2008年 - フォーミュラチャレンジ・ジャパン参戦 シリーズランキング 3位(優勝3回、2位2回、3位1回) 2009年 - 全日本F3選手権 Nクラス参戦 シリーズランキング 6位(2位3回、3位2回) 2010年 - 全日本F3選手権 Nクラス参戦 シリーズランキング 3位(優勝1回、2位4回、3位2回、PP1回) 2011年 - 全日本F3選手権 Nクラス参戦 シリーズチャンピオン(優勝5回、2位1回、3位4回、PP5回) 2012年 - SUPER GT・GT300クラス(NDDP RACING #3 S Road NDDP GT-R/NISSAN GT-R NISMO GT3)(シリーズ4位・1勝) 2013年SUPER GT・GT300クラス(DIJON Racing #48 DIJON Racing IS GT-R/NISSAN GT-R NISMO GT3)(シリーズ28位) スーパー耐久・GT3クラス<Rd.1,3,4>(KONDO RACING #24 スリーボンド 日産自動車大学校GT-R/NISSAN GT-R NISMO GT3) 全日本F3選手権・Cクラス(B-MAX ENGINEERING #50 B-MAX F312)(シリーズ3位) マレーシア・メルデカ耐久レース「セパン12時間」(#35 NISMO GLOBAL ATHLETE TEAM/NISSAN GT-R NISMO GT3)(決勝6位) 2014年ブランパン耐久シリーズ・PRO-AMクラス(#35 NISSAN GT Acodemy Team RJN/NISSAN GT-R NISMO GT3) バサースト12時間耐久レース(#32 NISMO GLOBAL ATHLETE TEAM/NISSAN GT-R NISMO GT3)(決勝DNF) ニュルブルクリンク24時間耐久レース(#30 NISSAN GT-R NISMO GT3)(決勝DNF) 2015年ブランパン耐久シリーズ・PROクラス(#23 NISSAN GT Academy Team RJN/NISSAN GT-R NISMO GT3)(シリーズチャンピオン・1勝) バサースト12時間耐久レース(#35 NISMO GLOBAL ATHLETE TEAM/NISSAN GT-R NISMO GT3)(総合優勝) ※日本人初 SUPER GT・GT300クラス<Rd.1-2,4-5,7-8>(GAINER #10 GAINER TANAX GT-R/NISSAN GT-R NISMO GT3)(チームチャンピオン/ドライバーズランキング2位・2勝)※チームメイトのアンドレ・クートがドライバーズタイトルを獲得。 全日本F3選手権<Rd.12-13スポット参戦>(B-Max Racing Team #50 B-Max F312) 2016年バサースト12時間耐久レース(#1 Nissan Motorsports Intl/NISSAN GT-R NISMO GT3)(総合2位) SUPER GT・GT500クラス(MOLA #46 S Road CRAFTSPORTS GT-R)(シリーズ12位) 2017年ブランパン耐久シリーズ・PROクラス(#23 Team RJN NISSAN/NISSAN GT-R NISMO GT3)(シリーズ42位) バサースト12時間耐久レース(#23 Nissan Motorsports Intl/NISSAN GT-R NISMO GT3)(総合32位) SUPER GT・GT500クラス(MOLA #46 S Road CRAFTSPORTS GT-R)(シリーズ12位) 2018年全日本スーパーフォーミュラ選手権(B-MAX Racing team #50) SUPER GT・GT500クラス(NDDP RACING with B-MAX #3 CRAFTSPORTS MOTUL GT-R)(シリーズ17位) 2019年ブランパン耐久シリーズ・PROクラス<Rd.4>(#35 KCMG/NISSAN GT-R NISMO GT3) インターコンチネンタルGTチャレンジ(#35 KCMG/NISSAN GT-R NISMO GT3)(シリーズ21位) SUPER GT・GT500クラス<Rd.6>(TEAM IMPUL #12 カルソニック IMPUL GT-R) 2020年 - SUPER GT・GT500クラス(NDDP Racing with B-MAX #3 CRAFTSPORTS MOTUL GT-R/GT-R R35 NR20B)(シリーズ13位) 2021年 - SUPER GT・GT500クラス(NDDP Racing with B-MAX #3 CRAFTSPORTS MOTUL GT-R/GT-R R35 NR4S21)(シリーズ10位) 2022年 - SUPER GT・GT500クラス(NDDP RACING #3 CRAFTSPORTS MOTUL Z/フェアレディZ Z34 NR4S21)
※この「レース戦績」の解説は、「千代勝正」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「千代勝正」の記事については、「千代勝正」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:22 UTC 版)
2005年関西キッズカートシリーズ GT-1クラス(シリーズ2位) 北神戸キッズカートシリーズ GT-1クラス(シリーズ2位) 2006年大阪SLシリーズ コマークラス(シリーズ2位) M-4カデットクラス全国大会(チャンピオン) 2007年SL大阪シリーズ ヤマハジュニアクラス(シリーズチャンピオン) SL琵琶湖シリーズ ヤマハジュニアクラス(シリーズチャンピオン) M-4シリーズ カデットクラス西地域(シリーズチャンピオン) M-4シリーズ カデットクラス総合(シリーズチャンピオン) 2008年 - 第32回 TOYOTA SLカートミーティング全国大会 YAMAHAジュニアクラス(チャンピオン) 2010年JAFジュニアカート選手権(シリーズ5位) JAFジュニアカート選手権西地域(2勝) 2011年 - 全日本カート選手権 FS125クラス(シリーズチャンピオン) 2012年 - 全日本カート選手権 KF-1クラス(シリーズ4位) 2013年 - 全日本カート選手権 KF-1クラス(シリーズ6位) 2014年JAF地方選手権 スーパーFJ 岡山シリーズ(シリーズチャンピオン) JAF F4 西日本シリーズ(シリーズ9位) スーパーFJ ドリームカップレース(優勝) スーパーFJ 日本一決定戦(優勝) 2015年FIA-F4選手権(シリーズ2位) JAF F4 東日本シリーズ(シリーズチャンピオン) JAF F4 西日本シリーズ(シリーズチャンピオン) JAF F4 日本一決定戦(優勝) 鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ 卒業 スカラシップ獲得 2016年全日本F3選手権(TODA RACING #12/Dallara F314 Toda TR-F301)(シリーズ5位) SUPER GT・GT300クラス(Rd.6)(Cars Tokai Dream28 #2 シンティアム・アップル・ロータス/LOTUS SGT-EVORA) SUPER GT・GT500クラス(Rd.7,3代替,8)(Drago Modulo Honda Racing #15 ドラゴ モデューロ NSX CONCEPT-GT/NSX CONCEPT-GT) マカオグランプリ(TODA RACING #19/Dallara F316 Toda TR-F301)(決勝14位) 2017年ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権(Hitech Grand Prix #11/Dallara F317 Mercedes-Benz F3 414)(シリーズ15位) マカオグランプリ(Motopark with VEB #16/Dallara F317 Volkswagen Spiess 0XY)(決勝9位) 2018年 - FIA フォーミュラ2選手権(Russian Time #2/Dallara F2/18 Mecachrome V634T)(シリーズ13位、第10戦イタリアにおいて、日本人初フィーチャーレース優勝を果たす。) 2019年全日本スーパーフォーミュラ選手権(TCS NAKAJIMA RACING #65/Dallara SF19)(シリーズ16位) SUPER GT・GT500クラス(Modulo Nakajima Racing #64 Modulo Epson NSX-GT/NSX-GT)(シリーズ12位) インターコンチネンタルGTチャレンジ<Rd.4 スポット参戦>(Team UpGarage #18/NSX GT3 Evo JNC1)(決勝14位) 2020年全日本スーパーフォーミュラ選手権(Rd.1~6)(TCS NAKAJIMA RACING #64/Dallara SF19)(シリーズ12位) SUPER GT・GT500クラス(TEAM KUNIMITSU No.100 RAYBRIG NSX-GT/NSX-GT HR-420E(NC型FR))(シリーズチャンピオン・1勝) 2021年全日本スーパーフォーミュラ選手権(Rd.3-5)(DOCOMO TEAM DANDELION RACING #6/Dallara SF19 HR-417E)(シリーズ9位) SUPER GT・GT500クラス(TEAM KUNIMITSU #1 STANLEY NSX-GT/NSX-GT HR-420E(NC型FR))(シリーズ4位) 2022年全日本スーパーフォーミュラ選手権(DOCOMO TEAM DANDELION RACING #5/Dallara SF19 HR-417E) SUPER GT・GT500クラス(TEAM KUNIMITSU #100 STANLEY NSX-GT/NSX-GT HR-420E(NC型FR))
※この「レース戦績」の解説は、「牧野任祐」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「牧野任祐」の記事については、「牧野任祐」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 00:57 UTC 版)
クライスラーとのパートナーシップで、ダラーラは2001年のル・マン24時間レースで使用する3台のSP1を供給した。しかし、ル・マンでのデビューに備えて、クライスラーは新たに始まったヨーロピアン・ル・マン・シリーズに参戦し、新車をレースでテストする機会を得た。ドニントンパークに登場したクライスラー・LMPは、3台のアウディ・R8に次ぐ4位で予選を通過した。しかし、メカニカルトラブルにより、優勝したR8から40周近く遅れ、順位は大幅に下回った。ドニントンでのデビューに続いてさらにテストを行い、チームは改善することができ、3台のクライスラー・LMPがル・マンに登場し、スピードを見せた。3台のうちの1台が、ベントレー・スピード8の2台を破って、予選6番手タイム(ドライバー、オリビエ・ベレッタ)を獲得した。レースではクライスラーは、メカニカルトラブルでレースの途中で1台がリタイヤするまでは、トップ10に留まることができた。最後の数時間、4番手と5番手で走っている間に、クライスラー・LMPはユノディエールで、エンジントラブルでリタイア(ドライバーは、荒聖治、近藤真彦、ニ・アモリム)。残った唯一のクライスラー・LMPは、優勝したアウディ・R8から23周遅れて、4位でフィニッシュした。クライスラーは、ルマンで4位に入賞したものの、ル・マンプロジェクトはもはや有益ではないと判断し、2001年末にプログラム全部をキャンセルした。 クライスラーのパートナーだったオレカは、2002年はプライベーターとしてプログラムを続行することを決定し、モパー製V8エンジンを、ジャッド製GV4 V10エンジンに変更した。3台のSP1を購入したが、オレカはル・マンに2台の車を使用することを決定し、3台目の車はFIA スポーツカー選手権で使用された。シーズンの初戦で、SP1はペスカロロ・スポールに次ぐ2位でフィニッシュし、次戦のエストリルで初優勝を果たした。2002年ル・マン24時間では、アウディ・R8の3台に次ぐ予選4位のタイムを記録した。レースでは、2台のSP1がトップのR8とベントレー・スピード8に続き、どちらの車も勝者から16周遅れの、総合5位と6位でフィニッシュし、好成績を収めた。しかしオレカは、他のプロジェクトに取り組むためにSP1を継続させず、プロトタイプを休止することにした。 この年はオレカに加えてSP1は、グランダム・シリーズで使用するためにドライバーのディディエ・セイスとマウロ・バルディを要するアメリカのチーム、ドランレーシングに購入された。SRP規定を満たすために小変更され、オレカと同じくジャッドGV4(後にGV5にアップグレードされた)エンジンを搭載するドランのSP1は、シリーズのチャンピオン候補だった。2002年のデイトナ24時間レースでのデビュー戦で、ドランは2位に6周差をつけ総合優勝を果たし、ダラーラにデイトナ初勝利をもたらした。ドランレーシングはさらに、ホームステッド=マイアミ・スピードウェイとカリフォルニアスピードウェイと3連勝し、モントランブランでも勝利した。ドランはチームチャンピオンシップで2位になり、ダイソン・レーシングにわずか9ポイント差で敗れた。しかしディディエ・セイスが、ドライバーズタイトルを獲得した。ドランレーシングは、アメリカン・ル・マン・シリーズのセブリング12時間レースにも参戦したが、リタイヤに終わった。 2003年、ダラーラ・SP1を使用するのはドランレーシングだけになった。チームはアメリカン・ル・マン・シリーズに参戦、2003年のセブリング12時間レースから参戦を開始した。マシンは1台で、アウディ・R8 3台と、ベントレー・スピード8 2台、パノス・LMP1の後ろ、7位フィニッシュした。次の2ラウンドでは、ドランは総合5位、4位でフィニッシュした。しかしチームはシーズンの残りをキャンセルし、2003年限りでダラーラとの関係は終了した。 2004年、2台のSP1が新しく英国チームの、ロールセンターレーシングによって購入された。ロールセンターはセブリング12時間レースでデビューし、総合5位になりセブリングでSP1のパフォーマンスを示した。その後、ロールセンターは、ルマン耐久シリーズに参戦、モンツァで5位が最高位で、チームチャンピオンシップで8位になった。2004年のル・マン24時間では、ロールセンターは1台で参戦し、日曜日の午前6時30分までは、総合4位(チーム初のルマン24時間レースで)で走っていた。セバスチャン・ボーデがドライブしたペスカロロC60と接触、左リアサスペンションにダメージを与え、その後ポルシェカーブでリタイヤした。その後ロールセンターは、残りの期間、2台目のダラーラシャーシ#006に切り替えた。2004年は、ル・マン耐久シリーズとル・マン24時間レースで使用するために、別のSP1がイタリアのチーム、Spinnaker Clandesteamに購入された。ルマン耐久シリーズ初戦で20周後にリタイヤした。チームはル・マン24時間のエントリーを取り下げ、解散した。 2005年、ロールセンターレーシングはルマン耐久シリーズで2台のマシンで参戦の為に、SP1シャーシ#004を修理した。シャーシ#004では、ジャッド製V10から新たに日産エンジンに変更した。ニスモと提携してエンジンをテストし、将来的に日産がカスタマー供給することが可能かをテストした。またSP1のギアボックスをパドルシフトにアップグレードし2台に搭載した。2005年セブリング12時間レースで日産エンジンのSP1をデビューさせたが、エンジントラブルによりリタイヤした。タイヤを、ダンロップからミシュランに切り替え、ルマン耐久シリーズでは、ロールセンターのジャッドエンジンを搭載したマシンは、3戦連続3位表彰台フィニッシュを含むパフォーマンスを発揮し、チームチャンピオンシップで4位を獲得した。日産エンジンのマシンは、シーズンを通してさまざまなトラブル抱えて、日産が正式にプロジェクトを終了し、ジャッドエンジンに戻されるまで、ポイントを獲得できなかった。2005年ル・マン24時間では、2台がエントリー。日産エンジン車はリタイヤ。一方、ジャッドエンジンのSP1は、16位でフィニッシュした。一時は2位を走っていたが、夜になるとパワーステアリングのフルード漏れが深刻な問題を引き起こし、チームは2倍近くのピットストップを余儀なくされ、レースは終了した。 2005年シーズン後、「ル・マン」プロトタイプ規定が変更され、SP1は規定外になった。その為ロールセンターレーシングは、新しいクラスで新しいマシンに切り替えることを決定した。このようにして、ダラーラ・SP1のキャリアは終わりを迎えた。
※この「レース戦績」の解説は、「ダラーラ・SP1」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ダラーラ・SP1」の記事については、「ダラーラ・SP1」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 04:40 UTC 版)
「アルファロメオ・177」の記事における「レース戦績」の解説
シーズン第6戦のベルギーでジャコメリは、ポールポジションを獲得したジャック・ラフィットのリジェからわずか2秒遅れの14番手となり、多くのベテランがドライブするマシンを抑えた。その中には2台のマクラーレンも含まれた。決勝ではスタートに失敗、1周目で18位に沈んだが、他車が不運に見舞われる中徐々に順位を上げていった。21周目には13位まで浮上し、エリオ・デ・アンジェリスのシャドウが彼を激しく追い上げた。デ・アンジェリスはシケインでジャコメリを追い抜こうとしたが、接触しジャコメリのリアウィングを破壊、両者共にリタイアとなった。 チームは2週間後のモナコグランプリを欠場したが、フランスグランプリで復帰した。ジャコメリの予選は振るわず、ポールポジションとなったジャン=ピエール・ジャブイーユのルノーから3.5秒遅れの17番手からスタートとなった。このレースもスタートに失敗、1周目で20位に沈むが、すぐに苦戦するヤン・ラマースのシャドウを追い抜いた。ジャコメリは徐々に順位を上げ、他車のリタイアにも助けられ20周目には17位に戻った。しかし、ペースが上がらずにアロウズのリカルド・パトレーゼとヨッヘン・マス、ロータスのヘクトール・レバーク、そして前戦の因縁があるデ・アンジェリスに抜かれ、26周目には20位に沈む。彼は再び徐々にペースを上げ、51周目にはデ・アンジェリスを抜き返した。両者は他の車のリタイアにも助けられ、16位、17位となる。2人のイタリア人ドライバーはその後もバトルを続け、その間にトップのジャブイーユから5回パスされた。ジャブイーユがフィニッシュラインを越えた時点で両者は5周遅れとなり、デ・アンジェリスはジャコメリを抜いて16位、ジャコメリは17位となった。 アルファロメオは最初の2戦の結果に失望し、続く4戦を欠場、9月のイタリアグランプリで復帰した。このグランプリでチームは2台を投入、ジャコメリは新型の179をドライブし、ヴィットリオ・ブランビラが起用されて177をドライブした。ブランビラはロニー・ピーターソンが死亡することとなった1978年イタリアグランプリの多重事故以来F1を離れていたが、それ以来の復帰であった。ブランビラはポールポジジョンのジャブイーユから4秒遅れで22番手となり、ジャコメリの新車からは0.5秒遅れであった。決勝では11周目にエマーソン・フィッティパルディとデ・アンジェリスに抜かれたが、29周目にスピンアウトしたジャコメリを含む他車のリタイアに助けられ、唯一のアルファロメオとしてコースに残った。彼はウィリアムズのアラン・ジョーンズを抜き、その他のリタイアで12位に浮上、優勝したジョディ・シェクターのフェラーリからは1周遅れであった。この12位という結果は、後に両ドライバーに新型の179が与えられたにも関わらず、1979年シーズンにおけるアルファロメオの最高成績となった。 1980年シーズンは179が使用されることとなり、177が使用されたのは1979年シーズンの3戦のみとなった。
※この「レース戦績」の解説は、「アルファロメオ・177」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「アルファロメオ・177」の記事については、「アルファロメオ・177」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 04:53 UTC 版)
ヴォルフガング・フォン・トリップスとダン・ガーニーのドライブで1960年フォーミュラ2のコンストラクターズ・チャンピオンを取得した。
※この「レース戦績」の解説は、「ポルシェ・787」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ポルシェ・787」の記事については、「ポルシェ・787」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 04:54 UTC 版)
ダン・ガーニーにより802-02がフランスグランプリで1勝したのみに留まった。
※この「レース戦績」の解説は、「ポルシェ・804」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ポルシェ・804」の記事については、「ポルシェ・804」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/04 18:31 UTC 版)
ATSは1979年シーズン、ハンス=ヨアヒム・スタックの1台体制で戦った。D2は総じて信頼性に欠け、決勝進出7戦の内完走したのは2戦のみであった。開幕戦のアルゼンチンと第9戦のイギリスでは予選落ちしている。最高位の8位となったベルギーでは、予選は20位で通過している。スタックはシーズンの大半をグリッドの後方3列からスタートすることとなったが、モナコでは予選を12位で通過している。 オーストリア以降、チームは新型のD3にスイッチしている。
※この「レース戦績」の解説は、「ATS・D2」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ATS・D2」の記事については、「ATS・D2」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/04 18:36 UTC 版)
リアルは経験豊富であるが不安定なイタリア人ドライバーのアンドレア・デ・チェザリスを起用し、1台体制でシーズンに臨んだ。チェザリスは個人スポンサーのマールボロの資金をチームにもたらした。開幕戦のブラジルをチェザリスは予選14位で通過したが、決勝はエンジントラブルでリタイアした。このレースでチェザリスはタイヤ交換のストップ前に一時6位を走行している。チェザリスのドライブするARC1は予選で問題を生ずることは無く、いずれのレースも中団を走行した。予選の最高位は12位であるが、5回記録している。 ARC1は信頼性が低く、多くのクラッシュの原因となったため、チェザリスは「デ・クラッシェリス "de Crasheris"」というありがたくない渾名を頂戴している。シーズンを通して完走は5回のみで、そのうち2回は燃料切れのためゴールできなかったものの、完走扱いとなっている(ARC1は1988年の自然吸気車中最小の燃料タンクを装備していた。)。しかしながら、デトロイトでは4位に入賞している。この入賞でチームは3ポイントを獲得、ランキングは13位となっている。
※この「レース戦績」の解説は、「リアル・ARC1」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「リアル・ARC1」の記事については、「リアル・ARC1」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/04 18:35 UTC 版)
前年までの2台体制に変わって1983年はドイツ人ドライバーのマンフレッド・ヴィンケルホック1台体制で戦うこととなった。ヴィンケルホックは予選では好位置に付けるものの、チームは信頼性に欠ける車に苦しめられた。独善的で悪名高いオーナーのギュンター・シュミットは、チーム運営上の決定を数多く下したが、結果にインパクトを与えることは無かった。 ヴィンケルホックは予選で常にトップ10入りした。予選最上位は7位が3回で、サンマリノ、ベルギー、カナダであった。完走したのは4回のみで、ヨーロッパグランプリでの8位が最高であった。
※この「レース戦績」の解説は、「ATS・D6」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ATS・D6」の記事については、「ATS・D6」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 08:33 UTC 版)
「ローラ-アストンマーティン・B09/60」の記事における「レース戦績」の解説
2009年にデビューし、同年のル・マン24時間レースに参戦。プジョー・908やアウディ・R15 TDIなどディーゼル・エンジンカーが優位に立つなか、ヤン・チャロウズ組の007号車がガソリンエンジンながら4位と健闘した。 ルマン・シリーズでは、 AMRイースタンヨーロッパがLMP1クラス、ドライバー、チームのダブルタイトルを獲得した。 岡山国際サーキットで行われた、アジアン・ルマン・シリーズにも参戦。レース2で、優勝を飾った。 2010年も引き続きル・マン24時間レースに参戦するが、トラブルに泣きリザルトは6位にとどまった。セブリング12時間レースでは3位を獲得。 ルマンシリーズでは008号車が総合2位を獲得した。 2011年はアメリカン・ルマン・シリーズへ参戦。総合2位を獲得した。 ルマン24時間レースは後継機、AMR-Oneが参戦したが、2台ともリタイア。プライベーターのクロノス・レーシングがB09/60で参戦し、総合7位となった。
※この「レース戦績」の解説は、「ローラ-アストンマーティン・B09/60」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ローラ-アストンマーティン・B09/60」の記事については、「ローラ-アストンマーティン・B09/60」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/04 18:31 UTC 版)
レギュラードライバーのジャン=ピエール・ジャリエとヨッヘン・マスはシーズンをHS1で苦戦していた。D1はオランダグランプリのプラクティスで初めて使用され、ケケ・ロズベルグのドライブで終盤2戦に出走した。アメリカグランプリでは予選15位、決勝はギアボックスのトラブルでリタイアとなった。最終戦のカナダでは予選21位、決勝は完走したものの規定周回数を満たすことはできなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「ATS・D1」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ATS・D1」の記事については、「ATS・D1」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/13 14:08 UTC 版)
1999年 - ニュージーランドカート選手権ICAクラス 2000年 - ニュージーランドカート選手権FAクラス 2001年 - ニュージーランド・フォーミュラ・フォード 2002年 - ニュージーランド・フォーミュラ・フォード(シリーズチャンピオン) 2003年ニュージーランド・フォーミュラ・フォード(シリーズチャンピオン) オーストラリアF4000(シリーズ2位) 2004年 - ユーロ3000シリーズ(シリーズ4位・1勝) 2005年全日本F3選手権(INGING MOTORSPORT #5 INGING F107/DOME F107 3S-GE)(シリーズ8位・1勝) 2005-2006年A1グランプリ(LOLA ZA1348)(A1チーム・ニュージーランド シリーズ4位)* 2006年全日本F3選手権(INGING MOTORSPORT #3 INGING F306/ダラーラF306 3S-GE)(シリーズ8位) 2006-2007年A1グランプリ(LOLA ZA1348)(A1チーム・ニュージーランド シリーズ2位)* 2007年 - 2007-2008年A1グランプリ(LOLA ZA1348)(A1チーム・ニュージーランド シリーズ2位) 2008年 - インディ・ライツ(シリーズ22位) *2005-06年、2006-07年シーズンはマット・ハリデイの成績も含む。
※この「レース戦績」の解説は、「ジョニー・リード」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ジョニー・リード」の記事については、「ジョニー・リード」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 05:22 UTC 版)
ドライバーは前年に引き続いてエリック・ベルナールと鈴木亜久里が起用された。1991年の戦績は前年より劣るものとなった。ベルナールは15戦中2戦で予選落ち、11戦でリタイアし、完走は2戦のみであった。亜久里は16戦中4戦で予選落ち、11戦でリタイアし、完走は1戦のみ。最終戦でベルナールに代わってドライブしたベルトラン・ガショーは予選落ちした。リタイアは大半が技術的な理由で、ほとんどがギアやエンジンのトラブルであった。 開幕戦アメリカグランプリはフェニックス市街地コースで行われ、ベルナールは予選19位、亜久里は予選21位であった。ベルナールは4周目にエンジントラブルでリタイアしたが、亜久里はトップに2週遅れの6位に入賞し、初のポイントを獲得した。 次戦ブラジルではベルナールが1'19.291の予選11位、亜久里は1'19.832の予選17位となる。これは両名ともシーズンでの予選最高位となった。決勝で亜久里はスタート前に燃料圧が低下しスタートできなかった。ベルナールは10位で走行中の34周目にクラッチの油圧低下でリタイアとなった。 第3戦サンマリノではベルナールは予選17位、亜久里は予選20位となった。決勝で亜久里は3周目にスピンしてリタイア、ベルナールは17周目にエンジントラブルでリタイアした。第4戦モナコでは亜久里が予選19位でベルナールが予選21位となり、亜久里が初めてベルナールを上回った。決勝で亜久里は25周目にエンジントラブルでリタイア、ベルナールは9位で完走した。 第5戦カナダで亜久里は予選22位、ベルナールは予選19位となり、決勝で亜久里は17位で走行中の4周目に燃料漏れでマシンが炎上、マシンを止め脱出し、自分で消火した。ベルナールは9位で走行中の30周目にギアボックストラブルでリタイアした。第6戦メキシコではベルナールが予選18位、亜久里が予選19位となり、亜久里は9位走行中の49周目にギアボックストラブルでリタイアした。ベルナールは6位で完走した。これはチームにとってシーズン2度目のポイント獲得となり、このシーズン最後の完走となった。 第7戦フランスで亜久里は1:18.224で予選22位、ベルナールはそれより0.3秒遅れの予選23位となり、決勝で亜久里は33周目、ベルナールは44周目にリタイアした。両者ともリタイア原因はトランスミッションであった。第8戦イギリスでラルースは2台が11列目に並んだ。ベルナールは17位走行中の21周目にギアボックストラブルで、亜久里は29周目にアクシデントでリタイアした。第9戦ドイツでは亜久里が再びベルナールを上回り、1:42.474で予選22位、ベルナールは1:43.321で予選25位となった。決勝でベルナールは10周目にディファレンシャルトラブルでリタイア、亜久里は19周目にエンジントラブルでリタイアした。第10戦ハンガリーで両ドライバーは再び11列目に並ぶ。決勝も両者共に39周目でエンジントラブルのためリタイアした。 第11戦ベルギーで亜久里は予選落ちする。ベルナールは1:53.309で予選20位、決勝は16位走行中の22周目にギアボックストラブルでリタイアした。第12戦イタリアで亜久里は再び予選落ち、ベルナールは予選24位、決勝は21周目にエンジントラブルでリタイアした。第13戦ポルトガルではベルナールが予選落ちし、亜久里は1:17.434で予選25位、決勝は20位走行中の41周目にギアボックストラブルでリタイアした。第14戦スペインで亜久里は3度目の予選落ち、ベルナールは予選23位で通過するが、決勝では1周目にリジェのティエリー・ブーツェンとクラッシュし、リアウィングとホイールを破損してリタイアした。 第15戦日本でベルナールは金曜プラクティスで事故のため左足を負傷、予選に出走しなかった。最終戦オーストラリアでは彼に代わってベルトラン・ガショーが起用された。亜久里は母国で1:40.255の25位スタート、17位走行中の27周目にエンジントラブルでリタイアした。最終戦オーストラリアでは亜久里は27位、ガショーは30位と共に予選落ちした。
※この「レース戦績」の解説は、「ローラ・LC91」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ローラ・LC91」の記事については、「ローラ・LC91」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 05:20 UTC 版)
LC90はシーズン序盤2戦で使用されたLC89Bに代わって、第3戦1990年サンマリノグランプリでデビューした。シーズン前半、ラルースは前年の獲得ポイントが1ポイントのみであったため、予備予選での戦いを強いられた。しかしながら、他チームとは桁違いの速さを示す。ランボルギーニエンジンの開発が進むにつれて予備予選は問題ではなくなり、予選でもトップ10に加わることができるようになっていった。 鈴木亜久里は地元の鈴鹿でチーム初(ランボルギーニにとっては唯一)の表彰台を獲得した。主要なチームの大半(マクラーレン・ホンダおよびフェラーリ)がレースをリタイアした後、亜久里はホームグランプリでベネトンのネルソン・ピケとロベルト・モレノに次ぐ3位でフィニッシュした。これはルノーV10を搭載したウィリアムズのリカルド・パトレーゼ、ティエリー・ブーツェンを抑えてのものであった。 亜久里はまたイギリスとスペインでもポイントを獲得した。エリック・ベルナールはモナコ、イギリス、ハンガリーでポイントを獲得した。チームは11ポイントを獲得し、コンストラクターズランキング6位でシーズンを終えた。 しかし、ローラの車体を使用しながらコンストラクターを「ラルース」として登録していたことが問題視され、1991年3月にコンストラクターズポイントとランキングを剥奪された(ただし、ドライバーズランキングはそのまま)。
※この「レース戦績」の解説は、「ローラ・LC90」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ローラ・LC90」の記事については、「ローラ・LC90」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 05:20 UTC 版)
ランボルギーニ製V12エンジンを搭載したLC89は第3戦のモナコグランプリでデビューした。空力特性に優れエンジンも600 bhp (447 kW; 608 PS)の出力を発揮するなど良好なパフォーマンスを示したが、不幸なことにLC89は信頼性に欠けていた。 フィリップ・アリオーとヤニック・ダルマスの2台体制であったが、ダルマスは4戦連続で予選落ちし、第7戦フランスと第8戦イギリスではエリック・ベルナール、第9戦以降はミケーレ・アルボレートがドライブした。最高位は第14戦スペインでアリオーが記録した6位で、1ポイントを獲得。これがLC89の獲得した唯一のポイントであった。5度の優勝経験のあるアルボレートはスペインとオーストラリアで予備予選、日本で予選落ちした。アルボレートはまた、ハンガリーでは縁石を超えた際に肋骨を骨折している。 LC89は改良が施され、LC89Bとして1990年の序盤2戦で使用された。LC89Bは第3戦サンマリノグランプリからローラ・LC90と置き換えられた。
※この「レース戦績」の解説は、「ローラ・LC89」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ローラ・LC89」の記事については、「ローラ・LC89」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 07:16 UTC 版)
チームは前年と異なり2台体制でシーズンに臨んでいた。ドライバーは1980年のチャンピオンであるオーストラリア人ドライバーのアラン・ジョーンズと、チームメイトはフランス人ドライバーのパトリック・タンベイであった。THL2はジョーンズの手によって第3戦サンマリノグランプリでデビューした。 ジョーンズは1975年から81年にかけて12勝を挙げ、チーム・ハースでの初戦は1985年イタリアグランプリであった。タンベイはルノーファクトリーで2シーズンを過ごし、それ以前はフェラーリにも在籍していた。彼は3勝を挙げていたが、全てがフェラーリ在籍時代の物であった。 1986年シーズン、ジョーンズは4ポイントを獲得し、シーズン終了後にF1を引退した。タンベイはオーストリアで5位に入り2ポイントを獲得した。タンベイもシーズン終了後にF1を離れる。チーム自体もメインスポンサーのベアトリス・フーズが手を引いたことでF1から撤退する。THL2の予選における最高成績は、ハンガリーにおけるタンベイの6位で、パワーよりもハンドリングか重要となるハンガロリンクでこの成績を出したことはTHL2のハンドリングの良好さを証明することとなった。 前作のTHL1同様、THL2もローラと呼ばれたが、ローラ・カーズとの接点はチームオーナーのカール・ハースがローラ創設者のエリック・ブロードレイと知り合いであったという点しかなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「ローラ・THL2」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ローラ・THL2」の記事については、「ローラ・THL2」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/30 03:58 UTC 版)
2001年 - フォーミュラ・トヨタ(シリーズ6位) 2002年 - フォーミュラ・トヨタ(シリーズチャンピオン) 2003年 - 全日本F3選手権(TOM'S #8 ESSO トムスF302/ダラーラF302・トヨタ3S-GE)(シリーズ11位) 2004年全日本F3選手権(NOW MOTOR SPORT #32 DeoDEO・SSR・F106/ローラ童夢F106/03・トヨタ3S-GE)(シリーズ12位) 十勝24時間レース・グループNプラス(#36 FTRS SPIRIT ALTEZZA)(総合21位・クラス4位) 2006年 - 全日本F3選手権(Rd.9~10 #74 EMS F306/ダラーラF306・トヨタ3S-GE)(シリーズ16位) この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
※この「レース戦績」の解説は、「小早川済瑠」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「小早川済瑠」の記事については、「小早川済瑠」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:08 UTC 版)
「ダラーラ・BMS189」の記事における「レース戦績」の解説
1989年シーズン、BMSスクーデリア・イタリアは2台体制に拡大した。アレックス・カフィが残留し、経験豊富なアンドレア・デ・チェザリスが加わった。カフィは昨シーズンポイントを獲得することはできなかったが、チェザリスはリアルで3ポイントを獲得していた。そのためカフィはシーズン前半予備予選に回らなければならなかったが、良い車とピレリの強力な予選用タイヤもあって、若いイタリア人ドライバーにとって問題にはならなかった 。開幕戦でチェザリスは予選15位、決勝はエンジントラブルでフィニッシュできなかったものの完走扱いで13位となった。チェザリスのベストレースはカナダグランプリで、雨天のレースであった。予選は9位(シーズン最高予選順位)で、決勝は3位となった。これは彼にとってシーズン唯一のポイント獲得となり、スクーデリア・イタリアにとっては初の表彰台となった。次戦のフランスでは予選落ちを喫したが、その他のレースは大半が予選を中位で通過している。 一方のカフィは開幕戦ブラジルで予備予選落ちし、この他にも第8戦イギリスでも予備予選落ちを喫した。しかしこの他のレースでは通常チェザリスよりも上位で予選を通過し、いくつかのケースではグリッド上位を記録している。第10戦ハンガリーではウィリアムズのリカルド・パトレーゼ、マクラーレンのアイルトン・セナに次く予選3番手をマークするなど速さを見せたが、決勝ではポイント外の7位に終わった。カフィは結局シーズンにおいてポイントを獲得したのは2回で、モナコでの4位とカナダでの6位であった。カナダはスクーデリア・イタリアの2人のドライバーが共にポイントを獲得した唯一のレースとなった。カフィとチェザリスは共に4ポイントを記録し、ランキング16位となった。カフィはこれらのポイントを得たことで予備予選を「卒業」し、シーズン後半は予選からの出場となった。スクーデリア・イタリアは参戦2年目でコンストラクターズ8位を記録した。
※この「レース戦績」の解説は、「ダラーラ・BMS189」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ダラーラ・BMS189」の記事については、「ダラーラ・BMS189」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:08 UTC 版)
「ダラーラ・BMS188」の記事における「レース戦績」の解説
スクーデリア・イタリアは1988年、アレックス・カフィの1台体制でシーズンに臨んだ。開幕戦ブラジルGPのみF3000用マシン、ダラーラ・3087を使用し、第2戦サンマリノGPから投入された。サンマリノでは予選24位、決勝はリタイアという結果だった。BMS188は安定した性能を発揮し、予選落ちは第5戦カナダの一回だけであった。1年を通して入賞はなかったものの、第10戦ハンガリーGPでは予選10番手、第13戦ポルトガルGPでは決勝7位と、1年目ながら健闘ぶりを見せた。
※この「レース戦績」の解説は、「ダラーラ・BMS188」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ダラーラ・BMS188」の記事については、「ダラーラ・BMS188」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:06 UTC 版)
3087は車検に合格し、カフィは予備予選に参加した。彼は予想通り、アイルトン・セナのポールポジションタイムより18秒遅い最下位となり、予備予選落ちした。 BMS188は3.5リッターのコスワースDFZを搭載し、次戦のサンマリノに投入された。BMS188はシーズンの残り全てを戦った。 ダラーラ・3087は、F1グランプリに参加した最後の非F1マシンである。
※この「レース戦績」の解説は、「ダラーラ・3087」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ダラーラ・3087」の記事については、「ダラーラ・3087」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 08:32 UTC 版)
「ローラ・B08/60」の記事における「レース戦績」の解説
2007年11月、アストンマーティンはローラから初号機のB08 / 60を購入し、レースカーのアストンマーチン・DBR9から6.0L,V12を搭載することに合意した。これは、1989年のAMR1以来のスポーツプロトタイプマシンで参戦するアストンマーティンの最初の試み。アストンマーティンのパートナーであるプロドライブは、チャロウズレーシングシステムと手を組み、ル・マン・シリーズとル・マン24時間レースへのエントリーのために新しいチームを運営した。 B08 / 60は、アストンV12エンジンを念頭に置いて設計されていないため、標準のローラ製ギアボックスをよりコンパクトなエクストラック製6速ギアに交換する必要があった。ローラ・アストンマーティンは、量産車由来のエンジンに大きなエアリストリクターを与える規定の変更により有利になった。 2008年のLMSで、チャロウズレーシングはグリッド上で最速のガソリン車であることが証明されたが、それでもアウディ、プジョーのディーゼルエンジン勢に匹敵することはできなかった。 2008年のル・マン24時間ではB08 / 60はアウディ#1を上回ってたが、クラッシュとその後の修理により、順位は後退した。その後順調なドライブで、総合9位だった。LMSのシルバーストーンでは、チャロウズがアウディに次ぐ総合2位でフィニッシュした。チャロウズレーシングは2008年のLMSチャンピオンシップで5位に終わった。 さらにB08 / 60は他のカスタマーにも利用可能になり、さまざまなエンジンをシャーシに適合させることができる。 B08 / 60は、ローラとプロドライブが共同開発したローラ-アストンマーティン・B09/60のベースにもなっている。 2009年のLMS、B08 / 60でスピーディー・セバーレーシングチームが参戦した。年間ランキングは5位に終わった。ル・マン24時間は総合14位に終わった。 2010年、レベリオン・レーシングは、2つのモデェファイをB08 / 60に施し、マシンはB10 / 60と呼ばれた。アストンV12エンジンはジャッド製をレベリオンにリバッジした5.5L V10エンジンに置き換えられた。2010年のLMSは総合3位と5位だった。2010年のル・マン24時間では、2台ともリタイア。2年前のチャロウズレーシングに比べてラップタイムが8秒遅かった。 2010年のアメリカン・ル・マン・シリーズにB08 / 60は、ドレイソンレーシングによってエントリーされた。第7戦ロード・アメリカでポールトゥウィンで初勝利を挙げた。年間ランキングは3位。ドレイソン・ローラは、ALMSのルールにより、LMP1とLMP2の車を同等の速さにし、両クラス間で同じペースにしようとしたために制限を受けた。 2011年のLMSは、レベリオン・レーシングはエンジンをトヨタ製3.4L V8エンジン(トヨタ・RV8K)に変更。そしてLMP1クラスチームチャンピオンに輝いた。ル・マン24時間ではガソリン車トップの6位とリタイヤだった。また、インターコンチネンタル・ル・マン・カップでは、総合3位を獲得した。 2012年と2013年は、B08 / 60はB12 / 60としてアップグレードされたマシンで参戦した。FIA 世界耐久選手権とル・マン24時間レースにレベリオン・レーシングが参戦、2012年のル・マン24時間は総合4位。12,13年にはプチ・ル・マンにも参戦、総合優勝を収めている。アメリカン・ル・マン・シリーズにはダイソンレーシングがマツダ・AER製2L,直4ターボMZR-Rエンジンで参戦、12,13年ともにクラス2位だった。ダイソンレーシングはまた、短距離のレースでは2011年仕様のB11 / 66を走らせた。
※この「レース戦績」の解説は、「ローラ・B08/60」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ローラ・B08/60」の記事については、「ローラ・B08/60」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:10 UTC 版)
「ダラーラ・BMS190」の記事における「レース戦績」の解説
ドライバーはアンドレア・デ・チェザリスとジャンニ・モルビデリが起用されたが、モルビデリは第3戦サンマリノグランプリでエマニュエル・ピロと交代した。BMS190のデビュー戦は開幕のアメリカグランプリで、チェザリスは雨天の予選を3位で通過した。決勝は5位走行中にエンジントラブルでリタイアとなった。 チームはBMS190でポイントを得ることはできなかった。マシンは信頼性が低く、全16戦中完走したのは7回のみであった。フランスグランプリでチェザリスは重量違反のため失格となっている。最高位はハンガリーグランプリのピロと、イタリアグランプリのチェザリスで、共に10位となっている。
※この「レース戦績」の解説は、「ダラーラ・BMS190」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ダラーラ・BMS190」の記事については、「ダラーラ・BMS190」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:12 UTC 版)
「ダラーラ・BMS191」の記事における「レース戦績」の解説
1991年シーズン、チームは昨年に引き続いて21号車にエマニュエル・ピロを起用した。一方アンドレア・デ・チェザリスに代わって22号車にJ.J.レートが起用されたが、レートはシーズン前のテストで幾度となくクラッシュした。チームは前シーズンにポイントを獲得できなかったため、シーズンの前半は予備予選に出走しなければならなかった。レートはサンマリノグランプリでチームの最高位となる3位を記録し、4ポイントを獲得したためドイツグランプリ以降は予備予選を免除された。予備予選はレートにとって壁では無かったが、ピロは3回予備予選落ちしている。決勝ではピロはマシントラブルも無く大半を完走したが、一方のレートは対照的に完走したのは5回のみであった。ピロの最高位はモナコでの6位で、1ポイントを獲得している。コンストラクターズもタイ記録である8位という成績を収めた。
※この「レース戦績」の解説は、「ダラーラ・BMS191」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ダラーラ・BMS191」の記事については、「ダラーラ・BMS191」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 04:19 UTC 版)
RAMは1985年、2台体制でシーズンに臨んだ。ドライバーはマンフレッド・ヴィンケルホックとフィリップ・アリオーを起用した。アリオーは以前もRAMでフル参戦したが、ヴィンケルホックがナンバー1ドライバーの役割を獲得した。 1985年のRAM・03が完走したのは3回のみであった。開幕戦のブラジルでヴィンケルホックが13位、アリオーが9位であった。その後ヴィンケルホックは5戦でリタイアし、アリオーは12戦でリタイアした。いずれも技術的なトラブルが原因であった。 ヴィンケルホックが8月にモスポートで行われたスポーツカーレースで事故死し、ケネス・アチソンが代役として彼の後を引き継いだ。アチソンは3戦に参加、予選を通過したのは2度で、いずれもリタイアした。チームは資金が不足し、ベルギーグランプリとヨーロッパグランプリにアリオー1台で参加した。アリオーは予選通過したが、いずれも異なるエンジントラブルが原因でリタイアとなった。シーズンの終盤2戦はヨーロッパ以外で開催されたため、チームは欠場した。チームはその後資金不足のため破産した。年間予算の大半はエンジンの修理に費やされた。
※この「レース戦績」の解説は、「RAM・03」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「RAM・03」の記事については、「RAM・03」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 04:10 UTC 版)
RAM・01はジョナサン・パーマーがドライブした。チームメイトのフィリップ・アリオーは同じエンジンを搭載するRAM・02をドライブした。 開幕戦のブラジルでパーマーはアリオーよりも1.7秒遅れで予選を通過した。RAMの両名とも参加ドライバーの中で最も遅かった。ターボエンジンを搭載していたものの、自然吸気エンジンを搭載するオゼッラ、アロウズ、ティレルにも後れを取った。決勝でアリオーはターボトラブルでリタイアしたが、パーマーは9位でフィニッシュした。ティレルのマーティン・ブランドルが失格となったため、パーマーは繰り上がって8位となる。これはRAM・01の最高成績だった。次戦の南アフリカでパーマーは新型02をドライブするアリオーを上回り、21位で予選を通過した。決勝では10周目にギアボックストラブルでリタイアする。これが01の最後のレースとなり、第3戦ベルギーからパーマーにも02が与えられた。
※この「レース戦績」の解説は、「RAM・01」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「RAM・01」の記事については、「RAM・01」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 04:20 UTC 版)
01はRAMレーシングによって運用され、RAMオートモーティブ・チーム・マーチとしてエントリーした。1983年のRAMレーシングのスタッフは25名で、最小のF1チームであった。 前年とは異なり、RAMレーシングは1台体制で1983年シーズンに臨んだ。第3戦のフランスのみセカンドカーが投入された。 レギュラードライバーのエリセオ・サラザールは1981年にRAMからデビューした。サラザールが予選を通過したのは2回のみであった。開幕戦のブラジルで彼は予選27位となり、ポールポジションのケケ・ロズベルグからは6.2秒遅れであった。最後尾からスタートしトップから4周遅れの15位でフィニッシュしたが、ロータスのエリオ・デ・アンジェリスが失格となり14位に繰り上がった。続くロングビーチでも予選を通過したものの、決勝では25周目にギアボックストラブルでリタイアとなった。その後4戦連続で予選落ちし、サラザールはベルギーグランプリの後チームを離脱した。第7戦のデトロイトをチームは欠場する。これは短期間に代わりのドライバーを確保することができなかったためであった。 一週間後のカナダにチームは再び現れた。1981年にアロウズから2戦に参加したことがあるカナダ人ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴを起用する。ヴィルヌーヴはチームに個人スポンサーの資金をもたらした。チームはモスポートでの短いテストでヴィルヌーヴの起用を決定した。フリープラクティスで何周か周回したが、ヴィルヌーヴは自らの兄の名を冠するサーキットで、0.4秒の差で予選落ちした。彼よりも後にいたのはオゼッラのピエルカルロ・ギンザーニのみであった。ヴィルヌーヴ自身の言によると、予選落ちしたのはタイヤを十分温められなかったためとある。 その後、イギリスグランプリからはケニー・アチソンが起用された。アチソンはこれがF1デビューであった。アチソンは6戦連続で予選落ちし、最終戦の南アフリカでようやく決勝進出した。これはスピリットとセオドールが撤退したことで出走台数が減少したことによる。アチソンは24位で予選を通過した。決勝は優勝したブラバムのリカルド・パトレーゼから6週遅れの12位であった。 フランスでチームはジャン=ルイ・シュレッサーを起用してセカンドカーを投入した。シュレッサーはノンタイトル戦のレース・オブ・チャンピオンズに参戦しており、13名が参加したブランズ・ハッチで6位となっている。RAMはその1週間後にシュレッサーをスポット参戦させることとした。これはシーズン中RAMが2台を投入した唯一のレースであった。シュレッサーは結局予選落ちしたが、同じく予選落ちしたチームメイトのサラザールより0.7秒遅く、ポールポジションのアラン・プロストからは9.1秒遅れであった。RAMは2台を継続して走らせる余裕が無かったため、シュレッサーはその後出場することはできなかった。 シーズンを終え、RAMの最高位は12位でありこれは、コンストラクターズランキングの最下位であった。
※この「レース戦績」の解説は、「RAM・マーチ01」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「RAM・マーチ01」の記事については、「RAM・マーチ01」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 04:11 UTC 版)
前年とは異なり1984年は2台体制でシーズンに臨んだが、02は開幕に1台しか間に合わず、フィリップ・アリオーがドライブした。第3戦のベルギーで2台目が投入され、ジョナサン・パーマーも02をドライブした。第9戦のカナダではパーマーに代わってマイク・サックウェルが起用された。 予選落ちはアリオーが2回、パーマーが1回、アリオーは第9戦アメリカグランプリでは土曜日の予選でクラッシュし決勝は出走しなかった。02の最高位は9位が3回でいずれもパーマーによるものであった。リタイアはアリオーが10回、パーマーが7回、サックウェルが1回であった。02はポイントを獲得することができなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「RAM・02」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「RAM・02」の記事については、「RAM・02」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/26 09:36 UTC 版)
「ブリッテンV1000」の記事における「レース戦績」の解説
※以下はBritten Motorcycle CompanyのWEBサイトの記述より作成し、基本的に国際レースのみ記述。ニュージーランド等の国内レースでは、ほとんど1位あるいは2位である。 1990年 USA Battle of the Twins Daytona, 3rd & 5th (ゲイリー・グッドフェロー、ロバート・ホールデン) 1991年 USA Battle of the Twins Daytona, 2nd (ポール・ルイス) 1992年 USA Battle Of The Twins Round 1, Daytona, リタイア(バッテリー上がりが原因) Round 2, Leguna Seca, 2nd Battle of the Twins Assen, 1st (国際レースでの初勝利) 1995年 European Pro Twins Assen, 1st BEARS World Championship Round 1, Daytona, 1st Round 2, Monza, 2nd Round 3, Thruxton, 1st Round 4, Zeltweg, 1st Round 5, Brands Hatch, 1st Round 6, Assen, 1st Battle of the Twins Daytona, 2nd & 3rd 1996年 BEARS World Championship Round 1, Daytona, 1st Round 5, Assen, 1st AHRMA Battle of the Twins Daytona, 1st 1997年 AHRMA Battle of the Twins - Open Race 1, Mid Ohio, 1st Race 2, Mid Ohio, 1st AHRMA Sound of Thunder Race 1, Mid Ohio, 1st Race 2, Mid Ohio, 1st Sound of Thunder World Series Round 1, Daytona, 1st & 2nd AHRMA Battle of the Twins Daytona, 1st 1998年 Japan Battle of the Twins Round 16 Tsukuba, Japan, 4th (国際レースではないが記述) AHRMA Sound of Thunder Daytona, 1st 1999年 March 99 Sound of Thunder Daytona, 1st
※この「レース戦績」の解説は、「ブリッテンV1000」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ブリッテンV1000」の記事については、「ブリッテンV1000」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 08:52 UTC 版)
「アストンマーティン・ヴァンテージ GT2」の記事における「レース戦績」の解説
アストンマーティン・ヴァンテージ GT2は、英国の元国務大臣であるポール・ドレイソンと、2004年の英国GTチャンピオンであるジョニーコッカーが2008年ALMS、ロングビーチでレースデビューを果たした。マシンはE85燃料でレースした。 2008年、ルマン・シリーズで、ジェームズワットオートモーティブは、ヴァンテージGT2を走らせたが 、メカニカルトラブルの為にデビューレースを完走できなかった。 2009年、ドレイソンレーシングは、ルマンシリーズでヴァンテージ GT2を走らせた。 2010年、スーパーGT GT300クラスに、A speedがヴァンテージ GT2で参戦した。マシン名はtripleA ヴァンテージ GT2。 2010年のルマンシリーズに、JMWモータースポーツがヴァンテージ GT2を走らせた。 [[ファイル:PLM_2011_60_Aston_Martin.jpg|サムネイル|2011年プチ・ルマン、ガルフAMRミドルイースト、ヴァンテージ GT2 ]]ヴァンテージGT2は、ルマンシリーズやインターコンチネンタル・ルマンカップなど、多くのシリーズにも参戦した。2011年のルマン24時間レースでは、Jotaレーシング・AMRとガルフAMRミドルイーストの2台のヴァンテージGT2がレースを行った。両方のマシンは最終的にリタイアした。1台はメカニカルトラブルがあり、もう1台はコントロールを失ってサーキットをスピンオフし、ドライバーのマークウェインライトは負傷し、マシンは深刻なダメージを受け続行できなかった。 2012年、アストンマーティン・レーシングは、ワークスチームとして、初開催の世界耐久選手権(WEC)に、アップグレードされたLM-GTEスペックのヴァンテージ GTEで参戦した。アップグレードされたマシンは、1月にテストでデビュー。そのマシンは、以前のアストンマーティン・DBR9やスポーツプロトタイプカーと同じように、ガルフカラーだった。 2014年の世界耐久選手権で、LM-GTEAmクラスで、ドライバー、チームのダブルタイトルを獲得した。 2016年の世界耐久選手権で、LM-GTEProクラスで、ドライバー、チームのダブルタイトルを獲得した。
※この「レース戦績」の解説は、「アストンマーティン・ヴァンテージ GT2」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「アストンマーティン・ヴァンテージ GT2」の記事については、「アストンマーティン・ヴァンテージ GT2」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 08:01 UTC 版)
「ホンダ・RC211V」の記事における「レース戦績」の解説
随所に最新のメカニズムを搭載したこの車両は、投入直後から圧倒的な強さを見せつけている。デビューイヤーの2002年、翌年の2003年、バレンティーノ・ロッシにより勝者となった。その後2年間はヤマハへ移籍したロッシが駆るYZR-M1の後塵を拝するが、2006年にはニッキー・ヘイデンの手によりチャンピオンを奪還した。 マニュファクチャラーズ・ランキング ホンダ優勝/レース優勝ライダー2002年 1位※注 14/16 バレンティーノ・ロッシ(11勝)、宇川徹(1勝)、アレックス・バロス(2勝) 2003年 1位 15/16 バレンティーノ・ロッシ(9勝)、セテ・ジベルナウ(4勝)、マックス・ビアッジ(2勝) 2004年 1位 7/16 セテ・ジベルナウ(4勝)、マックス・ビアッジ(1勝)、玉田誠(2勝) 2005年 2位 4/17 マルコ・メランドリ(2勝)、ニッキー・ヘイデン(1勝)、アレックス・バロス(1勝) 2006年 1位 8/17 マルコ・メランドリ(3勝)、ニッキー・ヘイデン(2勝)、ダニ・ペドロサ(2勝)、トニ・エリアス(1勝) ※NSR500(未勝利)での獲得ポイントを含む ライダーチャンピオン 2002年 - バレンティーノ・ロッシ(レプソル・ホンダ) 2003年 - バレンティーノ・ロッシ(レプソル・ホンダ) 2006年 - ニッキー・ヘイデン(レプソル・ホンダ)
※この「レース戦績」の解説は、「ホンダ・RC211V」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ホンダ・RC211V」の記事については、「ホンダ・RC211V」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 18:40 UTC 版)
1984年までにル・マン24時間レース、デイトナ24時間レース、セブリング12時間レース、シルバーストーン6時間レースを含む150以上のレースで勝利を収めた。また1977年と1979年のドイツのDRMで不敗であり、IMSA GTXのクラス優勝、ニュルブルクリンク1000kmでの勝利も獲得している。 また1976年から1979年までFIAワールドチャンピオンシップの優勝をポルシェにもたらした。 1979年のル・マン24時間レースではワークスのポルシェ・936が全車リタイアし、クラウス・ルートヴィヒ(Klaus Ludwig )/ビル・ウィッティントン(Bill Whittington )/ドン・ウィッティントン(Don Whittington )組が乗る935 K3が全てのプロトタイプカーに打ち勝ち優勝、この時の2位もロルフ・シュトメレン/ポール・ニューマン/ディック・バブアーのドライビングしたファクトリースペックの935/77A、3位も935/77Aだった。
※この「レース戦績」の解説は、「ポルシェ・935」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ポルシェ・935」の記事については、「ポルシェ・935」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 14:10 UTC 版)
2017年:鈴鹿クラブマンレース4戦出場(うち、1戦は台風のため中止)。優勝1回、PP2回。
※この「レース戦績」の解説は、「天川翔貴」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「天川翔貴」の記事については、「天川翔貴」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:13 UTC 版)
「ベントレー・4½リットル」の記事における「レース戦績」の解説
1928年のル・マン24時間レースに総合優勝、1929年のル・マン24時間レースに2、3、4位。
※この「レース戦績」の解説は、「ベントレー・4½リットル」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ベントレー・4½リットル」の記事については、「ベントレー・4½リットル」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:11 UTC 版)
「ベントレー・3リットル」の記事における「レース戦績」の解説
1922年にワークスチーム「ベントレー・ボーイズ」が結成され、最初のル・マン24時間レースとなった1923年のル・マン24時間レースにジョン・ダフ(Capt. John F. Duff )/フランク・クレモン(Frank Clement )組がゼッケンNO.8で参戦、燃料タンクが壊れてガソリンが漏れたため優勝を逃したものの23時間を走破した辺りで当時のコースレコードとなる平均107.328km/hを記録するなど実力を見せつけながら4位入賞した。 1924年のル・マン24時間レースにはジョン・ダフ/フランク・クレモン組の8号車が総合優勝した。 1927年のル・マン24時間レースには「スーパースポーツ」でダドリー・ベンジャフィールド(Dudley Benjafield )/サミー・デイヴィス(Sammy Davis )組が多くの車両がメゾン・ブランシュの玉突き事故でリタイヤする中で幸運にもリタイヤを免れ、シャシが歪んだまま走行を続けて総合優勝した。
※この「レース戦績」の解説は、「ベントレー・3リットル」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ベントレー・3リットル」の記事については、「ベントレー・3リットル」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:13 UTC 版)
「ベントレー・ブロワー」の記事における「レース戦績」の解説
1930年のル・マン24時間レースにドロシー・パジェ(Dorothy Paget )のチームにより8号車と9号車の2台が参戦した。特にヘンリー・バーキン(Sir Henry Birkin )/ジャン・シャサーニュ(Jean Chassagne )組が乗る9号車は4周目に平均144.352km/h、1周たったの6分48秒で周回しコースレコードとするなど圧倒的な速さを見せたがクランクシャフト不調のため21周目にリタイヤ、ダドリー・ベンジャフィールド(Dudley Benjafield )/ジュリオ・ランポーニ(Giulio Ramponi )組の乗る8号車は元々不調だったピストンが144周目にシリンダーを破壊し、2台ともリタイヤとなった。 1932年のル・マン24時間レースにジャン・トレヴォー(Jean Trévoux )/メアリー(Mary )組の5号車が出場したが1周目メゾン・ブランシュで事故を起こし、乗っていたトレヴォーはヘルメットを被っていたため顔と手に負傷しただけで済んだがリタイヤとなった。 1933年のル・マン24時間レースにジャン・トレヴォー/ルイ・ガス(Louis Gas )組の乗る5号車として出場したが、ルイ・ガスが運転中横滑りさせて車軸を損傷しリタイヤとなった。
※この「レース戦績」の解説は、「ベントレー・ブロワー」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ベントレー・ブロワー」の記事については、「ベントレー・ブロワー」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 13:41 UTC 版)
「ローラ・B11/40」の記事における「レース戦績」の解説
2011年のアメリカン・ル・マン・シリーズにレベル5モータースポーツが参戦。LMP2クラスで2度のクラス優勝をした。 2011年のル・マン・シリーズでは、ぺコムレーシングが参戦。LMP2クラス開幕戦で2位を記録した。2011年のル・マン24時間レースでは、リタイヤとなった。
※この「レース戦績」の解説は、「ローラ・B11/40」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ローラ・B11/40」の記事については、「ローラ・B11/40」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 04:10 UTC 版)
「KTM・1190RC8」の記事における「レース戦績」の解説
2010年、ドイツスーパーバイク選手権では、その基本性能の高さを遺憾なく発揮し、マニファクチャラーズタイトルを獲得した。 2014年、HAMAGUCHIレーシングチームが鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場。
※この「レース戦績」の解説は、「KTM・1190RC8」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「KTM・1190RC8」の記事については、「KTM・1190RC8」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 04:23 UTC 版)
シーズンシリーズチームレース勝利PPFL表彰台ポイント順位2008Formula First Manfeild Winter Series Sabre Motorsport(英語版) 12 3 2 2 9 782 1位 2008–09Formula First New Zealand 24 8 2 8 16 1439 2位 2009Tony Oliver Contracting Formula Ford NZ Winter Series ? 6 3 2 3 3 225 7位 2009–10Weldwell New Zealand Formula First Championship ? 3 1 1 1 3 195 26位 Western Springs Speedway – F2 Midgets HLR Racing 8 7 0 7 8 290 1位 ZOAGN NZ Formula Ford Championship BNT/Fuchs Motorsport 18 8 3 5 14 1090 2位 2010Australian Formula Ford Championship Evans Motorsport Group 3 0 0 0 1 26 15位 2010–11Western Springs Speedway – Midgets HLR Racing 3 0 0 0 1 36 20位 Western Springs Speedway – International Midget Series 4 0 0 0 0 25 14位 2011トヨタ・レーシングシリーズ Giles Motorsport 15 2 1 3 7 805 2位 Australian Formula Ford Championship Evans Motorsport Group 2 0 0 0 1 22 14位 Formula Abarth European Series Composit Motorsport 2 0 0 0 0 6 17位 Campionato Italiano Formula ACI-CSAI Abarth 2 0 0 0 0 6 17位 ADAC Formel Masters ma-con Motorsport 3 0 0 0 0 8 22位 V8 Supercar Series Greg Murphy Racing(英語版) 5 0 0 0 0 153 31位 2012トヨタ・レーシングシリーズ Giles Motorsport 14 4 0 3 9 914 1位 V8SuperTourers Endurance Championship(英語版) M3 Racing(英語版) 2 1 0 0 2 1852 1位‡ フォーミュラ・ルノー 2.0 ユーロカップ Fortec Motorsport(英語版) 6 0 0 0 0 8 24位 2013トヨタ・レーシング・シリーズ Giles Motorsport 15 2 0 6 10 915 1位 ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権 EuroInternational(英語版) 3 0 0 0 0 0 NC† Carlin(英語版) 3 0 0 0 0 フォーミュラ・ルノー 2.0 ユーロカップ AVF(英語版) 2 0 0 0 0 0 NC† 2014トヨタ・レーシング・シリーズ Neale Motorsport 2 1 2 1 1 91 24位 ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権 ThreeBond with T-Sport 6 0 0 0 0 0 NC† フォーミュラ・ルノー 2.0 ユーロカップ Koiranen GP(英語版) 10 0 0 0 0 20 18位 フォーミュラ・ルノー2.0 アルプス China BRT by JCS 2 0 0 0 0 0 33位 マカオグランプリ ThreeBond with T-Sport 1 0 0 0 1 N/A 3位 2014–15Toyota Finance 86 Championship(英語版) Neale Motorsport 6 3 1 4 6 202 11位 2015ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権 プレマ・パワーチーム 6 0 0 0 2 43 16位 SUPER GT TEAM UPGARAGE with BANDOH 1 0 0 0 0 0 NC 全日本F3選手権 トムス 17 7 7 6 13 129 1位 マカオグランプリ トムス 1 0 0 0 0 N/A 12位 2016ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権 Prema Powerteam 30 1 1 1 8 254 4位 マカオグランプリ 1 0 0 0 0 N/A DNF SUPER GT LEXUS TEAM TOM'S 8 0 0 0 2 54 5位 2017スーパーフォーミュラ KONDO Racing 9 0 1 0 1 8 10位 SUPER GT LEXUS TEAM KeePer TOM'S 8 2 1 0 4 84 1位 2018スーパーフォーミュラ KONDO Racing 7 1 1 1 4 37 2位 SUPER GT LEXUS TEAM KeePer TOM'S 8 1 0 0 4 75 2位 2019スーパーフォーミュラ VANTELIN TEAM TOM'S 7 1 0 1 4 36 1位 SUPER GT LEXUS TEAM KeePer TOM'S 8 1 0 1 4 83 2位 2020スーパーフォーミュラ VANTELIN TEAM TOM'S 7 1 1 2 2 50 4位 SUPER GT TGR TEAM KeePer TOM'S 6 1 1 1 1 46 8位 † : ゲストドライバーとしての出走であるため、ポイントは加算されない。 * : 今シーズンの順位。(現時点)
※この「レース戦績」の解説は、「ニック・キャシディ」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ニック・キャシディ」の記事については、「ニック・キャシディ」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 13:14 UTC 版)
「ファン・パブロ・モントーヤ」の記事における「レース戦績」の解説
1995年イギリス・フォーミュラ・ボクスホールにポール・スチュワート・レーシングより参戦。3勝、3PPを記録しシリーズ3位。 1996年イギリスF3にフォーテック・モータースポーツシリーズ(ダラーラF396・三菱HKS)より参戦。2勝、1PPを記録しシリーズ5位。 マルボーロ・マスターズ・F3に同チームより参戦し、総合4位。 国際ツーリングカー選手権にメルセデス-AMG(Cクラス)を駆ってスポット参戦。 1997年国際F3000にRSM Marko(ローラT96/50・ザイテック)から参戦。3勝、2PP、3FLを記録しシリーズ2位。 ウィリアムズのテストドライバーに抜擢される。 1998年国際F3000にスーパーノヴァ(ローラT96/50・ザイテック)より参戦。4勝、7PP、5FLを記録しチャンピオンを獲得。 引き続きウィリアムズのテストドライバーを務める。 1999年CARTシリーズにチップ・ガナッシ(レイナード99I・ホンダ)より参戦。7勝、7PPを記録して参戦初年度でチャンピオンを獲得。 2000年CARTシリーズにチップ・ガナッシ(ローラB2K/00・トヨタ)から参戦。3勝、7PPを記録しシリーズ 7位。 インディ500に同チーム(Gフォース・オーロラ)より参戦。LLを記録してデビュー戦で優勝。 2001年F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW23・BMW)より参戦。1勝、3PP、3FLを記録しシリーズ6位。 2002年F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW24・BMW)より参戦。入賞12回(最高位 2位)、7PP(5連続を含む)を記録しシリーズ3位。 2003年F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW25・BMW)より参戦。2勝(モナコGPを含む)、1PP、3FLを記録しシリーズ3位。 2004年F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW26・BMW)より参戦。1勝、2FLを記録しシリーズ 5位 。 2005年F1世界選手権にマクラーレン(マクラーレンMP4-20・メルセデス)より参戦。3勝、2PP、1FLを記録しシリーズ4位。 2006年F1世界選手権にマクラーレン(マクラーレンMP4-21・メルセデス)より参戦し、シリーズ8位。第10戦アメリカGPを最後にチームを離脱し、残りレースのシートをペドロ・デ・ラ・ロサに譲った。 アメリカに戻ってストックカーに転向することを発表。デビュー戦のARCAフードワールド250シリーズで予選2位、決勝3位を記録。 2007年デイトナ24時間レースにテルメックス・チップ・ガナッシ(レクサス-ライリー)より参戦し、初出場で総合優勝。 NASCAR・ブッシュシリーズのメキシコ戦で初優勝を挙げる。 6月24日 NASCAR・ネクステルカップシリーズにチップ・ガナッシから参戦し、ソノマ(インフィニオン・レースウェイ(ロードコース))で優勝。カップ戦では初となるアメリカ人以外の優勝者となる。 2008年デイトナ24時間レースにテルメックス・チップ・ガナッシ(レクサス-ライリー)より参戦し、2連覇を達成する。 2009年NASCARスプリントカップ・シリーズにチップ・ガナッシから参戦。チェイス・フォー・ザ・スプリントカップ(プレーオフ)にアメリカ人以外で初めての進出を決める。 2010年NASCARスプリントカップ・シリーズにチップ・ガナッシから参戦し、シリーズランキング17位。第22戦ワトキンスグレン(ロードコース)で優勝。 2014年NASCARを離れインディカー・シリーズに復帰、チップ・ガナッシのライバルチームであるペンスキーから参戦、第11戦ポコノで優勝。シリーズランキングは4位だったが、オーバルコースでの獲得ポイントに限れば1位であった。 2015年前年に引き続きペンスキーから参戦、インディ500において15年ぶり、自身2度目の優勝。シリーズでは2勝含め表彰台4回で安定した成績を残し、シリーズランキングは2位とシリーズチャンピオンにあと一歩及ばず。 2016年2年連続で開幕戦セントピーターズバーグで勝利するが、今シーズンはこの1勝にとどまりシリーズランキングは8位に後退。この年を持ってレギュラードライバーの座をジョセフ・ニューガーデンに明け渡すこととなった。 2017年レース・オブ・チャンピオンズにて、インディ所属選手としては初のウィナーとなる。
※この「レース戦績」の解説は、「ファン・パブロ・モントーヤ」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ファン・パブロ・モントーヤ」の記事については、「ファン・パブロ・モントーヤ」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 08:25 UTC 版)
「ダラーラ・BMS192」の記事における「レース戦績」の解説
ダラーラ・BMS192はレースにおいて中団を走ることが多く、ポイントを獲得したのは2回のみであった。いずれもミナルディから新加入のピエルルイジ・マルティニによるもので、雨中のレースとなったスペインと、次戦のサンマリノでの6位であった。チームメイトのJ.J.レートは大半をトップ10でフィニッシュしたが、最高位はベルギーでの7位であった。
※この「レース戦績」の解説は、「ダラーラ・BMS192」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ダラーラ・BMS192」の記事については、「ダラーラ・BMS192」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 07:04 UTC 版)
シャドウは1980年シーズン、アイルランド人ドライバーのデビット・ケネディとスウェーデン人ドライバーのステファン・ヨハンソンを起用した。両名ともF1での経験は無く、シャドウでデビューを果たした。第3戦からヨハンソンに代わってジェフ・リースが起用された。 ヨハンソンは開幕戦から2戦連続で予選落ちした。後任のリースは予選を通過し、決勝は13位でフィニッシュした。続くアメリカでは予選落ちし、第5戦ベルギーで彼は新型のDN12を走らせた。 ケネディは開幕から6戦連続で予選落ちした。第7戦フランスから彼も新型のDN12を走らせた。 個々のシャシーは以下のように使用された: グランプリShadow DN11/1Shadow DN11/2Shadow DN11/3アルゼンチン デヴィッド・ケネディ ステファン・ヨハンソン ブラジル デヴィッド・ケネディ ステファン・ヨハンソン 南アフリカ ジェフ・リース デヴィッド・ケネディ アメリカ西 ジェフ・リース デヴィッド・ケネディ ベルギー デヴィッド・ケネディ モナコ デヴィッド・ケネディ
※この「レース戦績」の解説は、「シャドウ・DN11」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「シャドウ・DN11」の記事については、「シャドウ・DN11」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 06:23 UTC 版)
車のテストはジャンフランコ・ブランカテリ、ハラルド・アートルとパトリック・ネーヴによって1978年11月に始まった。 1979年4月初旬、カウーゼンはイギリス国内選手権としても知られるオーロラF1のレースに出場した。ゾルダー・サーキットで行われたこのレースでブランカテリは8位で予選を通過したが、2周目にリタイアした。 カウーゼンはF1世界選手権にスペイングランプリでデビューした。WK004とWK005の2台を持ち込み(WK005はスペアカー)、グッドイヤーにタイヤ料金の全額を支払うことができなかったため、チームには中古タイヤが供給された。WK004を走らせることができず、ブランカテリはWK005で予選に参加した。予選では最下位で通過したヤン・ラマースのシャドウよりさらに5秒も遅く、予選落ちとなった。スペイングランプリの後、クルト・シャベックはチームを去った。 ベルギーグランプリではWK005のみが使用された。予選セッションでクラッチに問題があり、予選最下位タイムより9秒も遅く、ブランカテリは再び予選落ちとなった。 ベルギーグランプリの後、カウーゼンはF1から撤退した。
※この「レース戦績」の解説は、「カウーゼン・WK」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「カウーゼン・WK」の記事については、「カウーゼン・WK」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/24 22:31 UTC 版)
ゲルハルト・ミッターが1966年、1967年と連続してヒルクライム・チャンピオンシップを獲得した。
※この「レース戦績」の解説は、「ポルシェ・909」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ポルシェ・909」の記事については、「ポルシェ・909」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:18 UTC 版)
1994年 - フォルクスワーゲンカップ ゴルフクラス(シリーズチャンピオン) 1995年 - アメリカ スキップ・バーバー・イースタンシリーズ 1997年 - F4選手権(#96 R&D FW/97)(2勝) 1998年 - 全日本F3選手権<Rd.7~10>(チームGRP #61 セントラルパークダラーラ/ダラーラF398 3S-G) 1999年全日本F3選手権(TOM'S #7 TOM'S F399/ダラーラF399 3S-GE)(シリーズ6位) F3マカオGP F3コリアSP 鈴鹿1000kmレースINTクラス(#21 ポールベルモンドクライスラー)(総合8位・クラス2位) ル・マン富士1000kmレースGTSクラス(#60 CHRYSLER VIPER GTS-R)(総合7位・クラス優勝) スーパー耐久シリーズ・N1プラスクラス(クラフト #7 TOYOTA CELICA) 2000年全日本F3選手権(戸田レーシング #2 戸田無限ホンダ/ダラーラF300 MF204B)(シリーズ3位) F3マカオGP(戸田レーシング #16 ダラーラF300/ダラーラF300 MF204B)(決勝20位) F3コリアSP(戸田レーシング ダラーラF300/ダラーラF300 MF204B) 全日本GT選手権・GT500クラス(TOM'S #37 カストロール トムス スープラ/スープラ JZA80 3S-GTE)(シリーズ21位) スーパー耐久シリーズ・Group N+<Rd.2,6,7 スポット参戦>(#36 上野クリニックALTEZZA)(シリーズ10位) 第7回十勝24時間レース(#10 エンドレスアドバンスープラ)(優勝) 2001年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(COSMO OIL RACING TEAM CERUMO #12/レイナード99L MF308)(シリーズ12位) 全日本GT選手権・GT500クラス(土屋エンジニアリング #25 FK/マッシモADVANスープラ/スープラ JZA80 3S-GTE)(シリーズ19位) 第8回十勝24時間レース(#38 JIC クリスタルアルテッツァ)(総合16位) 第30回鈴鹿1000kmレース(TOYOTA TEAM SARD #39 大塚家具サードスープラ/スープラ JZA80 3S-GTE)(総合5位) マツダロードスターフェスタ イン 筑波(決勝DNF) ル・マン24時間耐久レース・LMP900クラス(バイパー・チーム・オレカ #14)(決勝DNF) デイトナ24時間耐久レース・GTSクラス(決勝DNF) 2002年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(Olympic KONDO Racing Team #3/レイナード01L 無限MF308)(シリーズ11位) 全日本GT選手権・GT500クラス(土屋エンジニアリング #25 FK/マッシモADVANスープラ/スープラ JZA80 3S-GTE)(シリーズ14位) ル・マン24時間耐久レース・LMP900クラス(総合6位) 第31回鈴鹿1000kmレース・INTクラス(チーム郷 #61 AUDI R8)(決勝DNF) クラシックカー サマーフェスティバル(KONDO RACING #0)(決勝7位) マツダロードスターフェスタ 2002(#38 レーシングオン・ロードスター)(決勝4位) 2003年全日本GT選手権・GT500クラス(土屋エンジニアリング #25 ADVANスープラ/スープラ JZA80 3UZ-FE)(シリーズ13位) 第10回十勝24時間レース(#109 ランドリーOGBアドバンGT3/ポルシェ911GT3)(総合2位) ル・マン24時間耐久レース・LMP900クラス(総合4位) ル・マン1000kmレース・LMP900クラス(優勝) 2004年全日本GT選手権・GT500クラス(TOYOTA TEAM CERUMO #38 auセルモスープラ/スープラ JZA80 3UZ-FE)(シリーズ5位) 第11回十勝24時間レース(#33 FALKEN☆PORSCHE/PORSCHE911 JGN)(総合優勝) ル・マン24時間耐久レース・LMP900クラス(総合優勝) ル・マン耐久選手権・LMP1クラス(シリーズ5位) 2005年SUPER GT・GT500クラス(KRAFT #34 バンダイスープラ/スープラ JZA80 3UZ-FE)(シリーズ19位) スーパー耐久シリーズ・ST-1クラス(FALKEN MOTOR SPORTS #1 FALKEN☆PORSCHE/PORSCHE911 JGN) Le Mans Classic Japan(#5 Porusche906 Carrera6/1966年式)(ヒート1:2位/ヒート2:1位) ル・マン24時間耐久レース・LMP1クラス(決勝DNF) 2006年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン<Rd4より>(KONDO Racing #3/ローラB06/51 RV8J)(ノーポイント) SUPER GT・GT500クラス<Rd.5より>(KONDO RACING #24 WOODONE ADVAN KONDO Z/フェアレディZ Z33 VQ30DETT)(シリーズ16位)(注)当初はチーム郷より参戦予定であった。マシンはマセラティ・MC12。しかし開幕前のテストで日本車とのタイム差が大きく、チームは参戦を延期。第5戦菅生に代替ドライバー(エリック・コマスが腰痛で欠場の為)として出場し10位。さらに、第6戦鈴鹿1000kmにも第3ドライバーとして参戦し5位。第7戦から正ドライバー(エリック・コマスが腰痛治療専念の為離脱)となる。 全日本スポーツカー耐久選手権SP1クラス(#16 無限COURAGE LC70)(シリーズ4位) 2007年全日本選手権フォーミュラニッポン(DHG TOM'S RACING #37/ローラB06/51 RV8J)(シリーズ11位) SUPER GT・GT500クラス(KONDO RACING #24 WOODONE ADVAN Clarion Z/フェアレディZ Z33 VQ30DETT→VK45DE)(シリーズ10位・1勝) 全日本スポーツカー耐久選手権・SP1クラス<Rd.2 スポット参戦>(#16 無限COURAGE LC70)(決勝DNF) 2008年全日本選手権フォーミュラニッポン(PETRONAS TEAM TOM'S #37/ローラB06/51 RV8J)(シリーズ15位・1勝) SUPER GT・GT500クラス(KONDO RACING #24 WOODONE ADVAN Clarion GT-R/GT-R R35 VK45DE)(シリーズ14位・1勝) 2009年SUPER GT・GT500クラス(KONDO RACING #24 HIS ADVAN KONDO GT-R/GT-R R35 VK45DE)(シリーズ8位・1勝) 世界ツーリングカー選手権・インディペンデントクラス<Rd.21,22 スポット参戦>(ウィッチャース・スポーツ #450 /BMW 320si) ル・マン24時間レース・LMP2クラス(NAVI TEAM GOH/ポルシェ・RSスパイダー)(決勝DNF) 2010年 - FIA GT1選手権(Swiss Racing Team #4/NISSAN R35 GT-R) 2011年 - SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM WedsSport BANDOH #19 WedsSport ADVAN SC430/LEXUS SC430 RV8KG)(シリーズ13位) 2012年 - SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM WedsSport BANDOH #19 WedsSport ADVAN SC430/LEXUS SC430 RV8KG)(シリーズ9位) 2013年 - SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM WedsSport BANDOH #19 WedsSport ADVAN SC430/LEXUS SC430 RV8KG)(シリーズ14位) 2014年SUPER GT・GT300クラス(BMW Sports Trophy Team Studie #7 Studie BMW Z4/BMW Z4 GT3)(シリーズ3位) インタープロトシリーズ(シリーズ6位) 2015年 - SUPER GT・GT300クラス(BMW Sports Trophy Team Studie #7 Studie BMW Z4/BMW Z4 GT3)(シリーズ7位) 2016年 - SUPER GT・GT300クラス(BMW Team Studie #7 Studie BMW M6/BMW M6 GT3)(シリーズ13位) 2017年 - SUPER GT・GT300クラス(BMW Team Studie #7 Studie BMW M6/BMW M6 GT3)(シリーズ14位) 2018年 - スーパー耐久・ST-Xクラス(D'stationPORSCHE) 2019年 - SUPER GT・GT300クラス(McLaren Customer Racing Japan #720 McLaren 720S/McLaren 720S GT3)(シリーズ15位) 2020年 - SUPER GT・GT300クラス(BMW Team Studie ✕ CSL #7 Studie PLUS BMW/BMW M6 GT3)(シリーズ26位) 2021年 - SUPER GT・GT300クラス(BMW Team Studie ✕ CSL #7 Studie PLUS BMW/BMW M6 GT3) 2022年 - SUPER GT・GT300クラス(BMW Team Studie ✕ CSL #7 Studie BMW M4/BMW M4 GT3)
※この「レース戦績」の解説は、「荒聖治」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「荒聖治」の記事については、「荒聖治」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:44 UTC 版)
マキエンジニアリングは、1976年10月24日に富士スピードウェイで開催された日本グランプリにF102Aをエントリーした。 1975年のレース以来、F1グランプリに出場していなかったトニー・トリマーが再び起用された。トリマーにとってマキをドライブすることはフォーミュラ1で再び自分自身を示すチャンスであった。車体は黒く塗られ、黄色ストライプがアクセントとして入れられた。 金曜日のフリーセッションでは、1周後にギアボックスの異常が発生した。その後の予選でトリマーは1周しかできなかった。ラップタイムは1分半以上であった。彼はポールシッターのマリオ・アンドレッティ(ロータス)より18秒遅く、技術的に劣ったウィリアムズ・FW05で予選を最下位通過したハンス・ビンダーより13.5秒遅かった。トリマーは予選落ちに終わった。 シャドウ・レーシング・カーズはトリマーが予選落ちした後、シャドウ・DN5のドライブをオファーしたが、マキはトリマーを契約から解放しなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「マキ・F102A」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「マキ・F102A」の記事については、「マキ・F102A」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:57 UTC 版)
「ヤマハ・YZF-R7」の記事における「レース戦績」の解説
スーパーバイク世界選手権 2000年のスーパーバイク世界選手権において芳賀紀行が2位、マニュファクチャラーランキング3位。 全日本ロードレース選手権 1999年の全日本ロードレース選手権において吉川和多留が優勝。
※この「レース戦績」の解説は、「ヤマハ・YZF-R7」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「ヤマハ・YZF-R7」の記事については、「ヤマハ・YZF-R7」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 04:53 UTC 版)
コローニは1989年、2台体制でシーズンに臨んだ。C3は6月のカナダグランプリでデビューしている。ドライバーはロベルト・モレノとピエール=アンリ・ラファネルであった。ラファネルはベルギーでエンリコ・ベルタッジアと交代している。モレノはカナダ、イギリス、ポルトガルで予選を通過し、決勝を走行したがいずれもリタイアしている。ポルトガルでは予選を15位で通過した。リタイア原因はギアボックスの破損が2回、エンジンの不調が1回であった。セカンドドライバーのラファネルとベルタッジアはいずれも予備予選落ちし、決勝を走ることは1度も無かった。
※この「レース戦績」の解説は、「コローニ・C3」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「コローニ・C3」の記事については、「コローニ・C3」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 06:18 UTC 版)
ミサノサーキットでの短いテストの後、FA1Hはサンマリノグランプリに持ち込まれた。当時は実戦に投入されなかったが、ベルギーグランプリの後に実戦可能となった。次戦は北米での連戦となったため、FA1Hは7月のフランスグランプリに初投入された。ドライバーはピエルカルロ・ギンザーニで、予選を25位で通過したが決勝ではアレッサンドロ・ナニーニのミナルディと接触してリタイアとなった。 次戦イギリスではセカンドドライバーのアレン・バーグがFA1Hをドライブした。スタート直後、オゼッラの2台とリジェのジャック・ラフィット、アロウズのクリスチャン・ダナーによる多重クラッシュが発生した。FA1Hはこのクラッシュにより大きく破損、チームはシーズンの残りを旧型のFA1FおよびFA1Gで戦った。
※この「レース戦績」の解説は、「オゼッラ・FA1H」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「オゼッラ・FA1H」の記事については、「オゼッラ・FA1H」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 05:11 UTC 版)
コローニ・C3Cはドイツグランプリでデビューし、1990年の後半8レースに参加した。ドライバーは前半に引き続いてベルトラン・ガショーが担当した。C3Cはコスワース製エンジンを搭載し、C3Bよりも速かったが、いまだ他チームのマシンと争えるレベルには無かった。ドイツとハンガリーでガショーは予備予選落ちした。モンテベルディ、ライフ、ユーロブルンが撤退し、シーズン後半に予備予選は無くなったが、ガショーは予選も通過できなかった。
※この「レース戦績」の解説は、「コローニ・C3C」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「コローニ・C3C」の記事については、「コローニ・C3C」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 20:30 UTC 版)
DN12は第5戦ベルギーGPで1台が投入され、ジェフ・リースがドライブした。これは事前のテストも行われずに投入された。 リースがDN12をドライブする一方、ディヴ・ケネディは旧型のDN11をドライブした。リースはケネディよりも0.3秒早かった、両者共に予選落ちした。続くモナコGPでも両者共に予選落ちした。 2週間後に開催されたスペインGPは、1980年シーズンの第7戦として開催される予定であった。このスペインGPでチームはケネディにもDN12を与えた。リースは20位、ケネディは22位で予選を通過したが、このGPはFISAとFOCAが対立し、FISA系のアルファロメオ、エンサイン、フェラーリ、ルノー、RAMが撤退したため、通常よりも8台少ないままで行われた。決勝ではケネディが2周目にドライブミスでリタイア、リースは42周目にサスペンショントラブルでリタイアした。レース後、FISAとFOCAの政治的対立のためこのGPは無効とされ、ノンタイトル戦となった。 次戦のフランスGPでは全てのチームが出場した。このGPでもシャドウは2台のDN12を走らせたが、2台とも予選落ちした。
※この「レース戦績」の解説は、「シャドウ・DN12」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「シャドウ・DN12」の記事については、「シャドウ・DN12」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 07:08 UTC 版)
1995年 - カートFP4クラス(シリーズチャンピオン) 1996年 - カートFR2クラス(シリーズ7位) 1997年 - カートFR2クラス(シリーズチャンピオン) 1998年全日本カートFAクラス(シリーズ4位・2勝) 全日本カート選手権FA東西統一戦(優勝) 1999年 - 全日本カートFAクラス(シリーズ6位・2勝) 2000年ニッサン・ザウルスjrレース(日本平中自動車販売・ファインド/MA10E)(優勝) FTRS受講(スカラシップ獲得) 2001年 - フォーミュラ・トヨタシリーズ(TOM'S SPIRIT #8 ウルトラフロースカラシップFT/FT20)(シリーズ4位・1勝) 2002年全日本F3選手権(TOM'S #37 TOM'S F302/ダラーラF302 3S-GE)(シリーズ5位) F3マールボロ・マスターズ(スイス・レーシング #47)(決勝15位) F3マカオGP(決勝4位) F3コリア・スーパープリ(TOM'S #19/ダラーラF302・トヨタ3S-GE)(リタイア) 富士GC-21スポーツカーレースシリーズ<スポット参戦>(#3 GC-21)(2勝) 第9回十勝24時間レース(#59 FTRS ALTEZZA)(総合21位) 2003年フォーミュラ3・ユーロシリーズ(Prema Power Team)(シリーズ22位) F3マカオGP(決勝3位) F3コリアSP 2004年フォーミュラ3・ユーロシリーズ(Prema Power Team)(シリーズ5位) 全日本F3選手権<Rd.19&20 スポット参戦>(TOM'S #1 WOODONE TOM'S F304/ダラーラF304 3S-GE)(シリーズ14位) スーパー耐久シリーズ<Rd.6 スポット参戦>(#18 Kosei SPRIT ALTEZZA)クラス優勝(総合18位) 2005年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(TEAM CERUMO #11/ローラB351 MF308)(シリーズ13位) SUPER GT・GT300クラス(TOYOTA TEAM CERUMO #52 プロジェクトμ太陽石油KUMHOセリカ/セリカ ZZT231 3S-GTE)(シリーズ15位) 第12回十勝24時間レース(#37 ARTA F.O.Sアルテッツァ)クラス優勝(総合15位) 2006年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(ローラB06/51 HF386E)(ノーポイント)Rd.1~4まではDoCoMo TEAM DANDELION RACING(#41)より、Rd.5~9はEMS Racing(#17)より参戦。 SUPER GT・GT500クラス(TOYOTA TEAM SARD #66 triple a サードスープラGT/スープラ JZA80 3UZ-FE)(シリーズ23位) 第13回十勝24時間レース・STクラス1(LEXUS team SARD #39 デンソー・レクサスGS450h)(総合17位) 2007年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(SG team 5ZIGEN #5/ローラB06/51 HF386E)(ノーポイント) SUPER GT・GT500クラス(TOYOTA TEAM SARD #39 デンソーサードSC430/SC430 UZZ40 3UZ-FE)(シリーズ15位) 第14回十勝24時間レース・GT-1クラス (DENSO SARD スープラ HV-R #039) (総合優勝) 2008年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(SG team 5ZIGEN #6/ローラB06/51 HF386E)(ノーポイント) SUPER GT・GT500クラス(EPSON NAKAJIMA RACING #32 EPSON NSX/NSX NA2 C32B)(シリーズ10位) SUPER LAP ATTACK in BUTTONWILLOW SPEEDWAY (バトンウイローのタイムアタック)エントラント:TEAM 5ZIGEN 車両:HONDA ACCORD EURO R アンリミテッドFF/FFNA両クラス優勝 2009年SUPER GT・GT300クラス(JIMGAINER #11 JIMGAINER ADVAN F430/F430 F430SC F136)(シリーズ3位・1勝) スーパー耐久シリーズ・ST-class3(TEAM 5ZIGEN #5 5ZIGEN NSX )(クラスチャンピオン・2勝) 2010年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(KCMG #18/スウィフト017.n RV8K)(シリーズ12位) SUPER GT・GT300クラス(JIMGAINER #11 JIMGAINER DIXCEL DUNLOP F430/F430 F430SC F136GT)(シリーズ7位)
※この「レース戦績」の解説は、「平中克幸」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「平中克幸」の記事については、「平中克幸」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 15:29 UTC 版)
2008年 - 全日本ジュニアカート選手権 ジュニアカートクラス(シリーズチャンピオン) 2009年 - 全日本カート選手権 KF2クラス(シリーズ2位) 2010年フォーミュラチャレンジ・ジャパン(#4 Clarion FCJ)(シリーズ6位) フォーミュラBMWパシフィック マカオグランプリ(予選11位/決勝リタイヤ) スーパーFJ 日本一決定戦 (優勝) JAF地方選手権 FJ 岡山シリーズ(シリーズチャンピオン) 2011年フォーミュラチャレンジ・ジャパン(#4 Clarion FCJ) (シリーズ2位) F4 西日本シリーズ(シリーズ チャンピオン) F4 東日本シリーズ(シリーズ 7位) 2012年全日本F3選手権(RSS#4 広島トヨペットF312/ダラーラF312 1AZ-FE)(シリーズチャンピオン・7勝) フォーミュラチャレンジ・ジャパン(#4 Clarion FCJ)参戦 ポルシェカレラカップジャパン チャンピオンクラス(GARMIN Porsche)(シリーズチャンピオン) ※ポルシェカレラカップジャパンへは「PCCJ若手ドライバー育成プログラム」の選出で参戦。 2013年全日本選手権スーパーフォーミュラ(Team KYGNUS SUNOCO)(シリーズ11位) インタープロトシリーズ(RSS広島トヨペットIPS)(シリーズチャンピオン・2勝) 2014年全日本選手権スーパーフォーミュラ(KYGNUS SUNOCO Team LeMans #7/ダラーラ・SF14 RI4A)(シリーズ8位) SUPER GT GT500クラススポット参戦 (Rd.2/Rd.3 #36 LEXUS TEAM PETRONAS TOM'S) インタープロトシリーズ(RSS広島トヨペットIPS)(シリーズチャンピオン・3勝) スーパー耐久 ST-1クラス(TOMEI SPORTS)(シリーズチャンピオン・3勝) 2015年全日本選手権スーパーフォーミュラ(KYGNUS SUNOCO Team LeMans #7/ダラーラ・SF14 RI4A)(シリーズ8位) SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM KeePer TOM'S #37 KeePer TOM'S RC F/LEXUS RC F RI4AG)(シリーズ5位・2勝) 2016年SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM TOM'S #37 KeePer TOM'S RC F/LEXUS RC F RI4AG)(シリーズ9位) ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ・LMP2クラス(Thiriet by TDS Racing #46/オレカ・05 - ニッサン)(シリーズ5位・2勝) 2017年SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM KeePer TOM'S #37 KeePer TOM'S LC500/LEXUS LC500 RI4AG)(シリーズチャンピオン・2勝) ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ・LMP2クラス(G-Drive Racing #22/オレカ・07 - ギブソン)(シリーズ4位・1勝) 2018年全日本スーパーフォーミュラ選手権(ITOCHU ENEX TEAM IMPUL #20/ダラーラ・SF14 R14A)(シリーズ5位) SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM KeePer TOM'S #1 KeePer TOM'S LC500/LEXUS LC500 RI4AG)(シリーズ2位・1勝) 2019年全日本スーパーフォーミュラ選手権(ITOCHU ENEX TEAM IMPUL #20/ダラーラ・SF19 Biz-01F)(シリーズ10位・1勝) SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM KeePer TOM'S #37 KeePer TOM'S LC500)(シリーズ2位・1勝) 2020年全日本スーパーフォーミュラ選手権(ITOCHU ENEX TEAM IMPUL #20/ダラーラ・SF19 Biz-01F)(シリーズ2位・1勝) SUPER GT・GT500クラス(TGR TEAM KeePer TOM'S #37 KeePer TOM'S GR Supra)(シリーズ2位・1勝) 2021年全日本スーパーフォーミュラ選手権(carenex TEAM IMPUL #20/ダラーラ・SF19 Biz-01F)(シリーズ4位) SUPER GT・GT500クラス(TGR TEAM KeePer TOM'S #37 KeePer TOM'S GR Supra)(シリーズ7位) 2022年FIA 世界耐久選手権(トヨタ・ガズー・レーシング #8/トヨタ・GR010 HYBRID) 全日本スーパーフォーミュラ選手権(carenex TEAM IMPUL #20/ダラーラ・SF19 Biz-01F)
※この「レース戦績」の解説は、「平川亮」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「平川亮」の記事については、「平川亮」の概要を参照ください。
レース戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 16:27 UTC 版)
1997年 - レーシングカートを始める。 1999年 - SL琵琶湖シリーズ・カデットクラス(シリーズ3位) 2000年 - SL琵琶湖シリーズ・FP-4クラス(シリーズチャンピオン) 2001年SL琵琶湖シリーズ・PRDクラス(シリーズチャンピオン) 全日本ジュニアカート選手権(シリーズ8位) 2002年鈴鹿カート選手権・FAクラス(シリーズチャンピオン) 全日本カート選手権・FAクラス<琵琶湖大会スポット参戦>(決勝3位) CIK-FIAアジア・パシフィック・カート選手権・FAクラス(決勝DNF) 2003年全日本カート選手権・FAクラス CIK-FIAアジア・パシフィック・カート選手権・FAクラス(決勝DNF) 2004年 - CIK-FIAアジア・パシフィック・カート選手権・FAクラス(決勝2位) 2005年鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS-F入校)(首席卒業・スカラシップ獲得) フォーミュラ・ドリーム<Rd.7~9に参戦>(#13 2005 SRS-F スカラシップFD/FD-03 H22A)(シリーズ9位) 2006年 - フォーミュラチャレンジ・ジャパン(#19 SRS-F ARTA FCJ)(シリーズ4位・2勝・ホンダスカラシップ獲得) 2007年全日本F3選手権(Honda TODA RACING #2 Honda・戸田FIGHTEX/ダラーラF307 MF204C)(シリーズ9位) 第14回十勝24時間レース・ST-4クラス(フォーミュラドリームレーシング #10 FD CIVIC Type R/FD2)(総合12位・クラス優勝) 2008年 - 全日本F3選手権(Honda Team Real #8 Honda Team Real/ダラーラF308 MF204C)(シリーズ8位) 2009年 - SUPER GT・GT500クラス(NAKAJIMA RACING #32 EPSON NSX/NSX NA2 C32B)(シリーズ16位) 2010年 - SUPER GT・GT500クラス(NAKAJIMA RACING #32 EPSON HSV-010/HSV-010 HR10EG)(シリーズ14位) 2011年 - SUPER GT・GT500クラス(NAKAJIMA RACING #32 EPSON HSV-010/HSV-010 HR10EG)(シリーズ12位) 2012年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン<Rd.4,5に参戦>(HP REAL RACING #11/スウィフト017.n HR12E) SUPER GT・GT500クラス(NAKAJIMA RACING #32 EPSON HSV-010/HSV-010 HR10EG)(シリーズ14位) 2013年全日本選手権スーパーフォーミュラ(HP REAL RACING #11/スウィフト・017.n)(シリーズ17位) SUPER GT・GT300クラス(TEAM 無限 #16 MUGEN CR-Z GT/Honda CR-Z GT J35A)(シリーズチャンピオン) 2014年全日本選手権スーパーフォーミュラ(TEAM 無限 #2 ダラーラ・SF14/Honda HR-414E) SUPER GT・GT300クラス(TEAM MUGEN #0 MUGEN CR-Z GT/Honda CR-Z GT J35A)(シリーズ10位) 2015年 - SUPER GT・GT300クラス(TEAM UPGARAGE with BANDOH #18 UPGARAGE BANDOH 86/トヨタ・86 MC)(シリーズ30位) 2016年 - SUPER GT・GT300クラス(TEAM UPGARAGE with BANDOH #18 UPGARAGE BANDOH 86/トヨタ・86 MC)(シリーズ14位) 2017年 - SUPER GT・GT300クラス(TEAM UPGARAGE with BANDOH #18 UPGARAGE BANDOH 86/トヨタ・86 MC)(シリーズ19位) 2018年 - SUPER GT・GT300クラス(TEAM UPGARAGE with BANDOH #18 UPGARAGE BANDOH 86/トヨタ・86 MC)(シリーズ12位) 2019年 - SUPER GT・GT300クラス(apr #31 TOYOTA GR SPORT PRIUS PHV apr GT/トヨタ・プリウス)
※この「レース戦績」の解説は、「中山友貴」の解説の一部です。
「レース戦績」を含む「中山友貴」の記事については、「中山友貴」の概要を参照ください。
- レース戦績のページへのリンク