シーズン後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 15:27 UTC 版)
「1992年のスポーツカー世界選手権」の記事における「シーズン後」の解説
1992年シーズンの準備期間に、シリーズが将来も継続していく可能性がいくつか示された。特にプジョーからの約束は大きな物であったが、これは単に誤った望みに過ぎなかった。カスタマー仕様のジャガーは、シーズン途中も参戦継続を約束していたが、決して目立たなかった。ランボルギーニ製エンジンを積んだコンラートのシャシーも開発継続を約束したものの、レースに参戦することは無かった。BRMはル・マンのみに参戦し、20ラップだけでリタイヤした。ル・マンの後彼らは開発を停止した。結局1992年シーズンは905プロジェクトに大金を投じたプジョーによる、905を披露するためだけのシーズンとなった。 1993年シーズンの開催の望みは僅かなものであった。プジョーの参戦継続の約束以外には、日産がP35による参戦の意思を示しており、FIAは暫定的に1993年シーズンの開催を発表した。しかしながら、日産は経済的理由でP35での参戦の取りやめを発表、これによってエントラント不足は決定的なものとなり、FIAは1993年シーズンのキャンセルを発表した。これは40年続いたスポーツカー世界選手権の終焉を意味することとなった。 スポーツカーレースは統一された世界選手権が存在せず、世界各地により小さく分離したシリーズとして残されることとなった。日本では全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権が開催されていたが、これもエントラント数減少により1992年限りで中止となった。北米大陸で行われるIMSA GT選手権もエントラント数の不足に苦しみ、1999年にアメリカン・ル・マン・シリーズに取って代わられた。FIAは1999年にヨーロッパ・スポーツカー・レーシング・ワールド・カップに代わってFIA スポーツカー選手権の創設を試みたが失敗し、2003年までに終焉を迎えた。 スポーツカーレースにとっては受難の年が続いたが、2004年にフランス西部自動車クラブ (ACO) による2つのシリーズ、ヨーロピアン・ル・マン・シリーズおよびアメリカン・ル・マン・シリーズが確立し、日本では2006年に全日本スポーツカー耐久選手権が創設された。しかしながら全日本スポーツカー耐久選手権は2007年シーズン限りで終了した。2009年、ACOはアジアン・ル・マン・シリーズを創設した。最終的に、ACOは2010年にインターコンチネンタル・ル・マン・カップを創設、これは2012年にFIA 世界耐久選手権に改称され、ようやくスポーツカーによる世界選手権が復活することとなった。
※この「シーズン後」の解説は、「1992年のスポーツカー世界選手権」の解説の一部です。
「シーズン後」を含む「1992年のスポーツカー世界選手権」の記事については、「1992年のスポーツカー世界選手権」の概要を参照ください。
- シーズン後のページへのリンク