ティレル
イギリスのコンストラクター。元ドライバーのケン・ティレルが1960年に設立したチーム。60年代後半、ジャッキー・スチュワートをドライバーに擁して、マトラのF2プロジェクトに参画。68年からはF1にステップアップし、69年にはスチュワートがドライバーズ・チャンピオンに輝いた。70年のシーズン後半から自製のマシンで参戦を開始、71年には初のコンストラクターズ部門のタイトルを獲得した。スチュワートが73年限りで引退したあとも、76年には歴史に残る6輪マシンP34の開発などで注目を集めたが、70年代の終盤からは慢性的な資金不足に陥り、結局、スチュワート時代の栄光を再現できないまま、98年を最後にBARに買収された。
ティレル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/21 18:25 UTC 版)
ティレル・レーシング(Tyrrell Racing Organization Ltd.、タイレル)は、かつてF1に参戦していたイギリスを本拠とするコンストラクター。創設者はケン・ティレル。全盛期には同国の英雄的ドライバー ジャッキー・スチュワートにより2度のタイトルを獲得し、名門チームとして名を馳せた。また、野心的技術の先駆者でもあった。
注釈
- ^ 同マシンは日本において折からのスーパーカー・ブームとも相まって、ラジコンやミニカー、スーパーカー消しゴムなどになり莫大な版権料をチームにもたらした
- ^ その後もドイツGPまでの3戦と北米・日本のラスト3戦で2位に入り、出走した13戦中8戦で2位以上に入賞している。
- ^ ポスルスウェイトは一時ザウバーに移籍したが、その後復帰しチームの消滅まで仕事を続けた。
- ^ 当時マクラーレンとティレルはファクトリーも非常に近くにあり、同じサリー州の企業だった。
- ^ 車高調整システムも他のチームの様な「油圧式」ではなく「電動式」の為に、レース途中で車高システムの電源を落として走る事もあった。
- ^ シーズン前は「信頼性のあるフォードエンジンでより多く入賞できるはずだから、車体は冒険をしないデザインで」とシーズンに臨んだが、むしろエンジントラブルが原因でのリタイアが多かった。
- ^ ケン・ティレルは高木のチームメイトに、フェルスタッペンとの契約を更新するか、当時ティレルのテストドライバーだったトム・クリステンセンをデビューさせるか迷っていたが、結果的にスポンサーもち込みのリカルド・ロセットが採用された。
- ^ フォードZETEC-Rエンジンは前年のEDエンジンとは全くの別物で、カスタマー仕様であったが充分過ぎるほど強力なエンジンだったため、トップスピードだけは上位という事態が起こった。
出典
- ^ もうひとりの落ちこぼれ? ワッティの運命は? オートスポーツ No.394 37頁 三栄書房 1984年5月1日発行
- ^ 1992全チーム&ドライバーラインナップ TYRRELL グランプリ・エクスプレス 1992プレシーズン号 34頁 1992年3月7日発行
- ^ ティレルがイルモアと契約 参戦危機脱出なるか? グランプリ・エクスプレス 1992オフシーズン号 31頁 1992年2月8日発行
- ^ デ・チェザリス滑り込みでティレル入り決定 グランプリ・エクスプレス プレシーズン号 NEWSTOPICS 38頁 1992年3月7日発行
- ^ GRAND PRIX Special 特集ヤマハ・エンジン「撤退10年後」の真実シリーズ 全5回
ティレル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 16:12 UTC 版)
701/2と701/4のシャシーモノコックはマーチで製造されていたが、最終的にはティレルのメカニックが組み上げた。結果として、ティレルの青いマシンはマーチのワークス車や他のカスタマーに供給された車と多くの相違点が生じることとなった。最初の大きな違いはダンロップタイヤで、ワークスマシンはファイヤストンの装着を前提として設計されていた。ティレルチームは操作性を向上させるために、サスペンションマウントポイントの位置を調整し、ステアリングシステムにダンパーを追加した。より微妙なバリエーションはエキゾーストパイプブラケット、ウィングストラット、オイルラジエータ、潤滑油やクーラント用配管の配置などの違いで生じた。 開幕戦南アフリカグランプリの後、ティレルチームはフロントウイングのデザインを調整した。彼らはマーチから供給されたノーズコーンに組み込まれた固定されたファイバーグラスを取り除き、調整可能なアルミ製エアフォイルに置き換えた。これらは、ウィングの迎え角全体を変更するために、水平軸を中心に旋回することができた。更なる利点として、このウィングはドラッグを減らすためにリムーバブルであったため、スチュワートのマシンは高速サーキットのモンツァで行われたイタリアグランプリではこれを使用した[要出典]。
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ティレル
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「ジャッキー・スチュワート」の記事における「ティレル」の解説
1970年、マトラとフォードの契約が切れたため、ティレルはマーチシャーシで参戦した。スチュワートは2戦目に優勝し、新興コンストラクターのマーチに初勝利をプレゼントした。カナダGPよりティレルが正式にコンストラクターとして参戦すると、緒戦でいきなりポールポジションを獲得してみせた。 1971年は第2戦スペインGPでティレルの初勝利を獲得すると、11戦中6勝を挙げて2度目のチャンピオンとなった。新興チームながら、恩師ケン・ティレル、愛弟子フランソワ・セベールとのチームワークは素晴らしく機能した。 1972年はシーズン序盤にストレス性の胃潰瘍で欠場し、マシンの不調にも悩まされた。4勝したもののエマーソン・フィッティパルディに敗れた。 1973年にはフィッティパルディに雪辱し、5勝を挙げて3度目のチャンピオンとなった。当時34歳でレーサーとして円熟期を迎えていたが、先輩のジム・クラークや友人のピアス・カレッジ、ヨッヘン・リントらの事故死に心を傷めていた。後継者のセベールが順調に成長していたこともあり、タイトルを花道にシーズン後の引退を決意した。しかし、自身通算100戦目となるはずであった最終戦アメリカGPで予選中にセベールが事故死したため、決勝レースへの出走を取り止め、そのままF1を去った。 当時、3度のワールドチャンピオンはジャック・ブラバムと同率で2位(1位はファン・マヌエル・ファンジオの5回)、F1通算27勝は1987年にアラン・プロストに破られるまで、14年間F1最多勝として記録された。強烈な速さを備えていると同時に、レース全体の流れを見て無理をせずにポイントを稼ぐ頭脳もあり、後のニキ・ラウダやアラン・プロストと似た知性派のチャンピオンだった。 日本でも1966年に富士スピードウェイで開催されたインディ200マイルで優勝。また、1970年JAFグランプリにブラバムF2で参加して、生沢徹などの日本のトップドライバーに圧勝した。 マーチ701を駆るジャッキー(1970年オランダGP) ティレル003で2度目のワールドチャンピオン(1971年) 現役最終年。オランダGPガレージにて(1973年7月)
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ティレル
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「1994年のF1世界選手権」の記事における「ティレル」の解説
この年のティレルは3年ぶりに新車を開発し開幕戦から投入した。チームに復帰したハーベイ・ポスルスウェイトがデザインしたティレル・022は、メインスポンサーを持たなかったため車体の白さが目立ったが、予選で度々トップ10に入る結果を残した。また、第5戦スペインGPではマーク・ブランデルが3位に入り、チームに3年ぶりの表彰台(そしてティレルの歴史での最後の表彰台)を記録し、片山も自身初の入賞を記録するなど、チームとして6度の入賞を果たし、最高位の関係でコンストラクターズ6位を逃したものの、チームとしてはランキング7位となっている。
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