アラン・プロスト
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アラン・マリー・パスカル・プロスト(Alain Marie Pascal Prost, 1955年2月24日 - )は、アルメニア系フランス人の元レーシングドライバー。1985年・1986年・1989年・1993年と4度のF1ドライバーズチャンピオンに輝いた[1]。愛称は「プロフェッサー」。
注釈
- ^ 2016年ブラジルグランプリでルイス・ハミルトンが、2018年ベルギーグランプリでセバスチャン・ベッテルが52勝目を記録し、プロストを追い抜いた。
- ^ セバスチャン・ベッテルが4回で4位タイとなっている。
- ^ 同年のリジェはジャック・ラフィットとディディエ・ピローニというF1で実績を持つ2名が契約したので、新人プロストが割り込むのは困難でもあった。
- ^ ブラジルGPは、トップでチェッカーを受けたピケの失格による繰り上がり。
- ^ ピケもリタイアとなったが、既にマシントラブルを抱えていたピケに対し、慎重さを欠いたプロストのほうが、結果的に失ったものが大きかった。
- ^ 最大で30秒以上あった2位セナとの差が、赤旗中止となったレース最終周では7秒差にまで縮まっていた。
- ^ ベロフは後に水タンク事件で年間のリザルトを剥奪された為、仮にセナとベロフの後ろの3位でフィニッシュしたとしても、繰上げで2位・6ポイントを獲得することができた。
- ^ ホンダの後藤治がレース後コメントにて証言 Racing On 1986年12月号 武集書房
- ^ マクラーレンのデニスは次戦オーストラリアGPの前にマスメディアに対し過去にシケイン不通過を理由に失格とならなかった事例をあげ反論した。
- ^ チームメイトのデイモン・ヒルは、テストドライバー時代からアクティブサス開発に従事していた。また1992年にウィリアムズでチャンピオンとなったマンセルは、アクティブカーへの順応に長けていたと評されている。
- ^ イギリスGP・ドイツGPではヒルが、イタリアGPではプロストが、それぞれトップ走行中にトラブルに見舞われ、互いに勝利を譲りあう結果となっている。
- ^ 新レギュレーションを批判したプロストに対してFISAが一時ライセンス発給を見送り、プロストはFISAへ謝罪して出場停止を逃れた。FISAはウィリアムズに対してもエントリー申請の遅れを指摘して、同様の態度をとった。
- ^ ドイツGPでは後方でスピンしたマシンを回避するためシケインをショートカットしたプロストらに対してペナルティストップを命じた。この裁定を無線で聞いたプロストは「もうF1の世界を離れようと思った」と語っている。
- ^ 当初シャシーを含む「オールホンダ」で復帰すると報じられた
- ^ プロスト以外にも4人が出ないとグリッド上で約束を結んだが、結果的に出なかったのはプロストだけだった。その中の一人はティエリー・ブーツェンで、彼は決勝に出て優勝を得た。
出典
- ^ 市川俊男『ニュースがわかる 最世界人命辞典』株式会社学習研究所、2003年、374頁。
- ^ あのドライバーは熱心なサッカーファン!?王者ら9名を紹介 Goal.com 2018年3月24日
- ^ アラン・プロスト ESPNF1
- ^ a b 勝利の目撃者・アラン プロスト F1グランプリ特集 1993年12月号 122ページ ソニーマガジンズ
- ^ HISTORY of GP LIGIER グランプリ・エクスプレス メキシコGP号 18-19頁 1989年6月17日発行
- ^ a b ヒストリー・オブ・GP マクラーレン・インターナショナル グランプリ・エクスプレス サンマリノGP号 11p 1988年5月23日発行
- ^ 南アGPレポート オートスポーツ1980年5月1日号 三栄書房
- ^ ダグ・ナイ:著 森岡成憲:訳 『チーム・マクラーレンの全て THE GRAND PRIX, CAN-AM AND INDY CARS by Doug Nye』 CBSソニー出版、1989年 ISBN 4-7897-0504-8
- ^ マクラーレン楽勝、1-2位を占拠 F1GPX 1987年ベルギー速報版 5頁 山海堂
- ^ 「完璧だ」とJ.スチュアートは讃えた 1987年ポルトガル速報版 山海堂
- ^ 1987 Japanese Grand Prix - FASTEST LAPSFormula1.com
- ^ RESULTS GPX 1987年第15戦日本速報版 8頁 山海堂
- ^ F1名ドライバー列伝(6)アラン・プロスト:“プロフェッサー”の知性的な走りを支えた、とてつもない速さ オートスポーツweb 2020年6月14日
- ^ ホンダ来季はウィリアムズと訣別を発表「マクラーレンは将来思考のあるチーム」桜井総監督、記者の質問に答える F1GPX 1987年イタリア 31頁 山海堂
- ^ マルコム・フォリー『セナVSプロスト-史上最速の“悪魔”は誰を愛したのか!?』五十嵐哲訳、三栄書房、2010年、275-276頁
- ^ アイルトン・セナの解放宣言 グランプリ・エクスプレス '91オーストラリアGP号 10頁 1991年11月23日発行
- ^ 1991年日本グランプリ終了後記者会見にて。
- ^ チェザーレ・フィオリオ更迭の真相 グランプリ・エクスプレス 1991カナダGP号 20頁-21頁 1991年6月22日発行
- ^ フェラーリはなぜ沈んだのか? byフランコ・リニ グランプリ・エクスプレス 1991年ハンガリーGP号 15頁 1991年9月4日発行
- ^ Henry, Alan (ed.) (1991). AUTOCOURSE 1991-92. Hazleton Publishing. pp. p. 236. ISBN 0-905138-87-2
- ^ “F1出戻り組”の先輩プロスト、復帰の大変さを語る Motorsport.com 2021年7月15日
- ^ 双葉社刊 F1 PRIX 日本GP直前号 5頁アンケートの回答
- ^ [1] トーチュウF1エクスプレス
- ^ a b c 『GPX ポルトガルGP号』 山海堂、1993年、pp.8-9。
- ^ 『GPX 日本GP号』 山海堂、1993年、pp.10-11。
- ^ セナプロ最終対決、1/2ヘルメットが発売中 AUTO SPORT web 2015年1月3日、2016年8月18日閲覧。
- ^ ANALYSIS OF F1 TEST 1996 F1グランプリ特集4月号 32頁 ソニーマガジンズ 1996年4月16日発行
- ^ Nissanとプロスト、F1参戦を考慮(F1.-live.com 2006年10月3日記事)
- ^ ブエミとプロストがフォーミュラE参戦決定。新たなセナ・プロ対決も!? - TopNews・2014年7月1日
- ^ アラン・プロスト、ルノーF1チームには一切関わらずフォーミュラEに専念したいと発言 - autoblog・2016年2月11日
- ^ “アラン・プロスト、ルノーF1チームのスペシャルアドバイザーに就任”. F1-Gate.com. (2017年2月22日) 2017年2月22日閲覧。
- ^ アルピーヌF1チーム離脱についてプロストがコメント。正式発表前の情報漏洩に不快感 - オートスポーツ・2022年1月18日
- ^ ジョン・バーナード第3の挑戦 グランプリ・エクスプレス '90フランスGP号 12-13頁 1990年7月28日発行
- ^ アラン・プロストに捧げる言葉 F1速報 1993年第15戦日本GP 43ページ ニューズ出版
- ^ アラン・プロストに捧げる言葉 F1速報 1993年第15戦日本GP 44ページ ニューズ出版
- ^ 中嶋悟inSPAIN by今宮純 F1GPX 1987年スペインGP 5頁 1987年10月15日発行 山海堂
- ^ GRAND PRIX SPECIAL 1996年6月号 p.27 ソニー・マガジンズ
- ^ Racing On 1987年2月号
- ^ 柴田久仁夫「究極のドライバー比較論 - 元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『AUTO SPORT アイルトン・セナ没後10年特別企画』 三栄書房、50頁-55頁、2004年。
- ^ 双葉社刊 ナイジェル・ルーバック著「インサイドF1 グランプリの真実」p435
- ^ INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック著 434頁「雨の中の危険」双葉社。
- ^ F1関係者30人が語る「ホンダ復活」の衝撃 F1グランプリ特集 Vol.107 22頁 1998年5月16日発行
- ^ from pressroom事情通 F1GPX 1989オーストラリアGP号 8ページ下段 山海堂 1989年11月25発行
- ^ 決勝レースLIVE REPORT F1GPX 1989第16戦オーストラリアGP号 6-7ページ 山海堂
- ^ Perfect week end公式Instagram「A L A I N P R O S T」 2018年4月1日
- ^ スペシャルインタビュー アラン・プロスト グランプリ・エクスプレス モナコGP号 12-13頁 1989年5月27日発行
- ^ アラン・プロストの10年 プロフェッサーズトーク グランプリ・エクスプレス '90アメリカGP号 11頁 1990年3月31日発行
- ^ ゴードン・マーレー、天才デザイナーと呼ばれるまでの軌跡 新本社を訪問「ミンバグ 実際にドライブしてみると?」AUTOCAR JAPAN 2017年11月11日
- ^ F1GPX 1989NA原点回帰記念号 山海堂
- ^ 僕のすてきなライバル アラン・プロスト F1GP特集 1993年12月号 88ページ ソニーマガジンズ
- ^ ナイジェル・ルーバック著「インサイドF1 グランプリの真実」 p305 双葉社
- ^ F1速報PLUS Vol.28
- ^ ナカさんの人間研究所 第8回 アラン・プロスト GPXオフシーズン号 1992年2月8日発行
- ^ “Formula 3 1978 - Race Index - Europe”. www.the-fastlane.co.uk. 2021年2月10日閲覧。
- ^ “Formula 3 1979 - Race Index - Europe”. www.the-fastlane.co.uk. 2021年2月10日閲覧。
アラン・プロスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:49 UTC 版)
「アイルトン・セナ」の記事における「アラン・プロスト」の解説
プロストとは、前述のように様々な因縁があった。しかし、後述のプロストのコメントにもあるとおり、プロストがF1を休養していた1992年には2人は個人的に連絡を取り合っていたという。今宮純と川井一仁もその共著の中で「2人はカメラが回っていないところでは、話もよくしている」と記述している。また、後にプロスト自身はセナとの関係について「問題を抱えていた時期もあったことは確かだが、マスコミによって多くの人物にライバル以上の敵対関係として捉えられることとなった」と語っている。2人が最も険悪だったとされる1989年でも、ウィリアムズでのピケとマンセルの様に一切情報共有が無いということはなく、ミーティングなどではチームのプラスとなるためにプロフェッショナルな関係を保っていたという。1994年のサンマリノGPの最中である4月29日、フリー走行中のセナは地元のテレビ局による中継の解説を務めていたプロストに対し、無線で「親愛なるアラン元気かい? 君がいなくなって淋しいよ」と伝えている。セナの事故死はその2日後だった。これらのことから、2人の関係が悪かったと一概には言えない。プロストはセナの死後、セナのファンクラブのフランス支部名誉会長も務めている。
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アラン・プロスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 04:44 UTC 版)
「“プロフェッサー(教授)”と呼ばれていましたが、あれほど実像からかけ離れたニックネームも珍しいですよ。プロストは若い時からいいクルマに乗り続け、いい体験をいっぱいしてきたから、どういう方向にセットアップすればいいかが経験的にわかっている。それがプロストの財産でね。1989年にプロストは加速でセナに負けたから、ホンダを“エンジン操作している”と批判してきた。でも、データを見るとセナが高回転まで使っているのに対してプロストは使っていない。この時はもうNAになっていて、燃費は関係ないから回転を抑えて走っても全く意味がない。でもプロストは理屈を分からずに走ってるから、ターボ時代同様に回転を抑えて走っていた。ホンダが技術的なことを説明しようとしても聞こうとしないし、興味がない。我々も困って、あの当時はまだアナログのタコメーターでしたから、“この回転数まで必ず引っ張るように”という目盛り代わりのステッカーを貼ってあげたんです。もちろん、非常に速いドライバーですよ。タイヤの使い方も抜群だし。でも、今の時代ならチャンピオンになれないでしょうね。」
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アラン・プロスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 05:50 UTC 版)
1993年開幕戦の南アフリカGP。予選や決勝で日向との直接争いを演じた。
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