生沢徹(日本)
15歳のとき浅間火山レースにオーツキ・ダンディー号(50cc)で初参戦。2輸のレースで頭角を現し、1963年の第1回日本グランプリでスカイラインスポーツに乗って4輪デビュー。プリンス自動車の若きエースとして大活躍。64年第2回日本グランプリで式場壮吉のポルシェ904GTSとの戦い、65年CCC船橋サーキットで浮谷東次郎との死闘など、今なお語り草となっている。66年の第3回日本GPをプリンスR380で戦ったあと、武者修業のため単身渡英。69年までヨーロッパ各地のF3やスポーツカーレースを戦い好成績を残した。70年にはF2に挑戦、ロータス69、69Bを駆り、73年までロンドンをベースに転戦、のちにF1で活躍する強豪を相手に善戦した。67年7月9日のブランズハッチF3レースでは、1日3種目優勝という離れ業もやってのけた。続く9月3日のニュルブルクリンクではホンダS800を駆って総合11位、クラス優勝という快挙を達成。一時帰国して戦った第4回日本グランプリ(5月3日)でも4台のニッサンR380を相手に、ポルシェ・カレラ6を優勝に導くという当たり年だった。70年のホッケンハイムでは2位入賞。海外レースに挑戦した日本人の草分け的存在。74年からは国内に専念し、富士GCにフル参戦。76年にはシリーズ2位、77年はチャンピオンに。78年を限りにトップレースから引退、以後はチームのオーナー監督として中嶋悟やG.リースを擁し、全日本F2や富士GCシリーズで好成績を残した。
生沢徹
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生沢 徹(いくざわ てつ、1942年8月21日 - )は、日本の元レーシング・ライダー、元レーシング・ドライバー、元レーシング・チームオーナー。
注釈
出典
- ^ ”Tetsu Ikuzawa’s Cars Life Style”生沢徹オフィシャルブログ
- ^ 『カー・マガジン』2008年7月号、p.40。
- ^ 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』p.205。
- ^ 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』p.232。
- ^ 『ALWAYS STYLE (2)』、p.54。
- ^ 山崎憲治 (2008年5月5日). “ずっと僕も生沢徹だった。ALWAYS STYLE買ってみたよ。”. YAMAKEN.JP. 2011年5月15日閲覧。
- ^ 海老沢、p.53。
- ^ 井出、p.78 - 79。
- ^ Yufta Omata (2010年7月17日). “男子は安達靖、女子は末政美緒が全日本チャンピオンに輝く”. cyclowired.jp 2010年10月8日閲覧。
- ^ 中嶋秀之 (2008年10月30日). “HAFJは生沢徹一色!”. ナカジ~の『なんでも実況中継』. 2010年10月9日閲覧。
- ^ 大久保、p.313。
- ^ 生沢に出場停止 グランプリ宣誓拒否で『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月28日夕刊 3版 11面
- ^ a b 『レーシングオン』2007年10月号、三栄書房、p.25。
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