ドライバーからオーナーへ
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「鈴木亜久里」の記事における「ドライバーからオーナーへ」の解説
詳細は「ARTA」を参照 F1ドライバーを引退した亜久里は、1996年にスーパーアグリカンパニーを設立。自らはドライバーとして全日本GT選手権やル・マン24時間レースに参戦し、1998年のル・マンでは総合3位に入賞、日本人では初めてF1とル・マンの両方の表彰台に上がったドライバーとなる。一方で、船井電機をスポンサーとした「FUNAI SUPER AGURI」チームを率いてフォーミュラ・ニッポンにエントリーした。 1997年のシーズンオフにはオートバックスと提携して「ARTA(AUTOBACS Racing Team AGURI)」プロジェクトを発足。以後チーム総監督としてフォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権に参戦したほか、若手ドライバーの育成にも取り組み、2001年にはARTAのバックアップでドイツF3に参戦した金石年弘がシリーズチャンピオンを獲得する。自身のドライバー活動もそれと並行して続けてきたが、2000年シーズンを最後に完全にドライバーを引退した。 2003年にはエイドリアン・フェルナンデス率いるフェルナンデス・レーシングとの提携で「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング」を設立。チームオーナーとしてアメリカのフォーミュラトップカテゴリーのIRL(インディ・レーシング・リーグ)へ本格的に参戦を開始した。ロジャー安川(2003年)や松浦孝亮(2004年 - 2006年)をドライバーに起用し、当初は自ら陣頭指揮を執る力の入れようだった。 2005年には、ARTAと童夢、ホンダのジョイントで作られたSUPER GT参戦のためのチーム「Team Honda Racing」のチーム代表にも就任したが、同チームは2006年一杯で解散した。 その後も自チームで活動を続け、2007年には伊藤大輔・ラルフ・ファーマンによって参戦以来初のSUPER GTのタイトルを獲得した。 2010年はNSX-GTからHSV-010にスイッチし、第6戦Pokka鈴鹿700kmではポールトゥーウィンを果たした。2011年はより体制の強化を図ってドライバーを一新し、IRL帰りの武藤英紀と2010年第6戦鈴鹿でポールポジションを獲得した小林崇志を起用した。また、GT300のメンテナンスも自社(アルネックス)で行うように体制を変更した。 なおIRLについては、2007年より提携先をパンサー・レーシングに変更し、「スーパーアグリ・パンサー・レーシング」として参戦したが(ドライバーは引き続き松浦孝亮)、思うような結果が出ず、同年を最後にIRLから撤退した。
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ドライバーからオーナーへ
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「ケン・ティレル」の記事における「ドライバーからオーナーへ」の解説
イギリスで生まれ、第二次世界大戦中はイギリス空軍に所属。戦後、兄と共に材木商をする傍ら1951年にレーシングドライバーとしてデビュー。その後、自らのレーシングドライバーとしての将来に見切りをつけ、1959年にジュニアフォーミュラチーム「ティレル・レーシング」(Tyrell Racing Organization Ltd.)を設立。
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