ザウバー
1978年にぺーター・ザウバーによってスイスで設立されたコンストラクター。85年からメルセデス・ベンツと組んでグループCでのレース活動を展開し、WSPC、ルマンでタイトルを獲得している。93年からF1に活動の場を移し、93、94年は自社マシンにメルセデス・エンジンを搭載して戦った。94年のモナコGPでカール・ベンドリンガーが重傷を負い、そのときから安全対策にはとくに力を入れている。メルセデスとの関係は94年限りで終わったが、97年からはフェラーリエンジンの供給を受け(エンジン名はぺトロナス)、ランキングでも1998年に6位に入った。その後は独力で参戦を続け、現在も中堅チームの座を維持している。
参照 WSPC(世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権)ザウバー
ザウバー(1986年 - 1990年)
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「マックス・ウェルティ」の記事における「ザウバー(1986年 - 1990年)」の解説
1985年限りでドライバーとしてのキャリアを終え、翌1986年からはザウバーで同チームとしては初のチームマネージャーを務めた。 ザウバーは1982年から独自に開発したグループCカーでスポーツカーの世界選手権に挑戦を始め、1985年からは非公式にメルセデス・ベンツエンジンの供給を受けるようになっていた。1986年も車両の性能不足から苦戦が続いていたが、同年8月のニュルブルクリンク1000㎞レースで、ザウバーは世界選手権における初優勝を記録した(ドライバーはマイク・サックウェルとアンリ・ペスカローロ)。 1988年からはメルセデス・ベンツ(ダイムラー・ベンツ)が自動車レースにおける活動を再開し、ザウバーへの関与も正式なものとし、ザウバーはメルセデス・ベンツのワークスチームとなった。 これにより戦闘力は向上し、ザウバー・メルセデスは1989年と1990年の選手権を圧倒するとともに、1989年にはル・マン24時間レースでも総合優勝を達成した(1990年は不参加)。
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ザウバー
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「1994年のF1世界選手権」の記事における「ザウバー」の解説
参戦2年目を迎えたザウバーは、この年から正式にメルセデス・ベンツがF1への参戦を表明し、「メルセデス・ベンツ・エンジン」としてシーズンを戦った。ドライバーは前年からのカール・ヴェンドリンガーとルーキーのハインツ=ハラルド・フレンツェンのコンビで参戦している。ザウバーは事故が多発したこのシーズンの中で重大な当事者の一人となってしまった。モナコGP予選においてヴェンドリンガーが頭部を激しく打ち付ける深刻な事故が発生。ヴェンドリンガーは昏睡状態となり、生命維持装置を付けられ約1ヶ月意識が戻らなかった。この事故はサンマリノGPの直後だったこともあり、ザウバーはチームとしてモナコGP決勝を棄権する判断をしている。これを受け、ドライバーの頭部を守るサイドプロテクターを独自に車体に設置。後に公式なレギュレーションとしてF1に普及していくこととなる。ヴェンドリンガーは残りのシーズンを欠場し、アンドレア・デ・チェザリスがシートを得た。シーズンを通しては、ヴェンドリンガーが入賞2回、フレンツェンが入賞4回(最高位4位)を数え、代役のチェザリスも1回の入賞を果たし、獲得ポイントは前年と変わらなかったものの、コンストラクターズの順位としては8位となっている。
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ザウバー(1995年 - 1998年)
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「マックス・ウェルティ」の記事における「ザウバー(1995年 - 1998年)」の解説
ウェルティはポルシェにF1に復帰するよう説得を試みたが、それは達成できなかったことから、1995年5月にザウバーに復帰した。ザウバーは1993年からF1に参戦しており、再びチームマネージャー(マネージングディレクター)に就任したウェルティはチームを監督する立場となる。同時に、ザウバーの上級副社長となったウェルティはレース運営全般の指揮も任され、これにより同チーム代表のペーター・ザウバーは資金調達やマーケティングなどの対スポンサーの対応に専念できる体制となった。ザウバーではチーム内の政治的な争いに巻き込まれ、その結果、1998年1月にチームを去った(後任はビート・ゼンダー(フィンランド語版))。
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ザウバー
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「1995年のF1世界選手権」の記事における「ザウバー」の解説
ザウバーはメルセデスエンジンを失ったものの、フォードのワークスとなり最新型エンジンZETEC-Rにて参戦した。この年は前年のモナコGPにて重傷を負ったカール・ヴェンドリンガーが開幕から復帰を果たしたものの、ヴェンドリンガーの以前の速さは鳴りを潜めており、予選ではチームメイトのハインツ=ハラルド・フレンツェンに対して2〜4秒落ちのタイムしか残せず、チームは第4戦スペインGPを以ってドライバーをジャン=クリストフ・ブイヨンと交代するという苦渋の決断に迫れている。交代したブイヨンも期待したほどの成績を残せなかったこともあり、チームはヴェンドリンガーを最終2戦にて復帰させたものの、最終戦は体調不良によって棄権となってしまった(ヴェンドリンガーはこのままF1を引退となった)。一方でフレンツェンは活躍し第12戦イタリアGPにて3位となり、チームに初めての表彰台(自身も初の表彰台)をもたらすなど8回の入賞を果たし、マクラーレンのハッキネン、リジェのパニスに次いで個人ランキング9位に入った。
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ザウバー
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「ニコ・ヒュルケンベルグ」の記事における「ザウバー」の解説
2013年シーズンにはフェラーリへの移籍話なども挙がっていたが、最終的にザウバーから参戦した。 チームは前年は表彰台を計4回獲得する活躍を見せたが、今季はチームの財政難が表面化。現に給料未払いが発生するなど、移籍の決断が正しかったのか問われる状況になった。成績のほうも、サマーブレイク前の第10戦までは第2戦こそ8位入賞を記録したが、それ以外の入賞は10位入賞3回のみとなった。サマーブレイク後の後半戦はマシン開発に成功し、入賞圏内での順位争いができるようになり、韓国GPでは決勝4位を記録し、後半戦の成績だけで前半戦の成績を超える活躍となった。ただしチームの資金不足は深刻なままであり、前年のフォースインディアに続いて所属チームが資金難となってしまった。
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ザウバー
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1997年よりザウバーがフェラーリエンジンの供給を受けることが決定すると、後藤はそれに合わせる形でザウバーの関連会社であるザウバー・ペトロナス・エンジニアリング(SPE)に派遣される。「ペトロナス」のバッジネームが付けられたフェラーリエンジンのチューニングを担当する一方で、独自のV10エンジンの開発プロジェクトをスタートさせるが、1998年にアジアを襲った経済危機(アジア通貨危機)のためこの計画は頓挫。以後ザウバーは2005年に至るまでフェラーリからエンジン供給を受け続けることになる。 2001年にはSPEが、翌年よりロードレース世界選手権のMotoGPクラスに参戦することを目標に3気筒・990ccのエンジンを搭載したマシンを開発し、後藤がエンジン開発責任者となるが、この計画も結局途中で頓挫してしまい、マシンは一応完成しテスト走行までこぎつけていたものの実戦投入されることはなかった(ただし、このとき開発されたマシンは、その後若干の改修を受けスーパーバイク世界選手権に参戦している)。
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ザウバー
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1996年にF1チームのザウバーに勧誘され、ザウバー・ペトロナス・エンジニアリング(英語版)(SPE)に加わった。同社では後藤治とともに働き、当時ザウバーはスクーデリア・フェラーリからF1用エンジンを供給されていたが、1999年を目標として独自のF1エンジン開発を試みた。 SPEの試みは実現しなかったものの、ザウバーにはその後も留まり、1998年から2001年にかけて同チームの最高執行責任者(CTO)を務めた。
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ザウバー(1994年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「ザウバー(1994年)」の解説
1994年、メルセデス・ベンツはザウバーにエンジンを供給する形でF1に復帰した。 ザウバーが使用するエンジンの開発と製造は前年に引き続きイルモアが手掛けたが、この年からはメルセデス・ベンツ社が正式にイルモアに開発と製造を依頼する形となり、バッジネームは「メルセデス」に改められた。シーズン序盤のサンマリノグランプリにおけるローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死により、同年のF1では安全性向上のための規則改正が相次ぎ、その変更への対応に苦慮したこともあってザウバーの成績は振るわず、わずか12ポイントしか獲得できず、ランキングは前年を下回る8位となった。
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ザウバー
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「マーク・スミス (レースエンジニア)」の記事における「ザウバー」の解説
2015年7月13日より、ザウバーのテクニカルディレクターに就任する事が発表された。
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ザウバー
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「1993年のF1世界選手権」の記事における「ザウバー」の解説
このシーズンからザウバーが新規参戦を果たした。ザウバーはメルセデス・ベンツとの連携で長くスポーツカーレースなどで活躍していたが、元々はメルセデスのワークスチームとしてF1へ参戦する計画であった。しかしメルセデス側の事情でその計画は一旦は撤回されたものの、ザウバーが単独のプライベートチームでF1参戦を行うことになった経緯がある。車体には「Consepted By Mercedes Benz」と入っていたが、この年はイルモアエンジンにて参戦した。また、ドライバーにはメルセデスの支援を受けていたミハエル・シューマッハとカール・ヴェンドリンガーのコンビで参戦する計画を練っていたものの、すでにベネトンに在籍していたシューマッハがザウバーへの移籍を拒否。代わりにJ.J.レートが起用された経緯がある。開幕前のテストからベネトンやフェラーリを凌ぐタイムを出して大いに注目を集めていたが、やや信頼性が不足しており、二人で6度の入賞に留まりコンストラクターズ7位となった。
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