ミナルディ
イタリアのコンストラクター。1970年代後半にF2チームを率いていたジャンカルロ・ミナルディが、80年からマシンを自製に変更、85年にはF1にステップアップした。以後、現在まで参戦しつづけているが、デビュー以来資金不足の状態が続いている。90年代に入るとチームオーナーが目まぐるしく入れ替わり、現在のオーナーはイギリス人のポール・ストッダート(ただしジャンカルロもマネージャーとして在籍)。だが、存続が危ぶまれる状況は今も変わりがない。これまで表彰台に上がったことはなく、最高成績は4位(3回)。
ミナルディ
ミナルディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/13 13:14 UTC 版)
ミナルディ(Minardi)は、かつて存在したイタリアのレーシングチーム。1980年、ジャンカルロ・ミナルディが創設。本拠地はイタリア・ファエンツァ。1985年から2005年までのF1参戦21シーズンを含む、25年間活動した。その後は欧州企業レッドブル・グループに売却し、2006年より新設チーム「スクーデリア・トロ・ロッソ」へと移行。
- ^ “イタリアの愛すべき弱小チーム”. webCG (2020年3月9日). 2020年9月17日閲覧。
- ^ a b c d "Minardi Profile". GP Encyclopedia. 2013年5月13日閲覧。
- ^ 『CAR GRAPHIC 別冊 レーシングカー '80』株式会社 二玄社、1980年、pp.128-129頁。
- ^ オートテクニック 1990年2月号 22頁「ミナルディ・ワークスの全貌」
- ^ Auto e Piloti del Minardi Team 1987 Modello M186 ミナルディ公式ウェブサイト
- ^ オートテクニック 1990年2月号 23頁「ミナルディ・ワークスの全貌」
- ^ この年からカスタマー供給専用に開発された廉価エンジンコスワースED・V8エンジンが余りにも性能の低いエンジンだったため、マニエッティ・マレリと改良を施していた。
- ^ '96エントリーリスト発表 参戦チームは11に F1グランプリ特集 vol.79 16-17頁 ソニー・マガジンズ 1996年1月16日
- ^ “モータースポーツに関連する略歴”. www.fondmetal.com. 2022年8月16日閲覧。
- ^ "ミナルディ、タイトルスポンサー失う". レスポンス.(2004年7月29日)2013年5月13日閲覧。
- ^ GP Car Story Special edition minardi GP CAR STORY特別編集 76頁
- ^ "【F1 2005】さようなら、ミナルディ!――レッドブル、イタリアンチームを買収". WebCG.(2005年9月13日)2013年5月13日閲覧。
- ^ 佐々木正 "童夢★裏F1冒険記". 童夢.(2003年)2013年5月13日閲覧。
- ^ 単発のシート喪失を除いても、3回も復帰している。
- ^ 残り1戦は1984年イタリアGPのトールマンからの初出走時。ただしこの時は予選落ちに終わっている。
- ^ MINARDI F1デビュー三年目の気鋭チーム ポイント獲得へ急げ F1GPX '87ポルトガル号 18-19頁 1987年10月5日発行
- ^ Auto e Piloti del Minardi Team 1987 Modello M186 ミナルディ公式ウェブサイト
ミナルディ
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「クリスチャン・アルバース」の記事における「ミナルディ」の解説
フォーミュラカーから離れていた2001年以降も、DTMでの活躍の一方で、ジョーダンやミナルディで度々F1のテストドライブを経験し、2004年12月には、F3000時代のストッダードとの関係や、母国オランダのトラスト社等からの支援を受け、2005年のミナルディのレギュラーシートを獲得した。なお、アルバースはこの年のミナルディに与えられるカーナンバー「20」と「21」のうち、初めは20の予定だったが21に変更してもらったとされている。理由は奇数のカーナンバーを望んでおり、なぜ奇数かというと、「チャンピオンは常に奇数のカーナンバーをつけるだろ?」という事らしい。 最下位チームであることもあって見せ場には乏しかったが、ミシュランタイヤを装着する全チームが棄権したアメリカGPでは、この年ブリヂストンユーザーだったミナルディに在籍していた漁夫の利もあって5位に入賞し、F1における初ポイントを獲得した。
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ミナルディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:42 UTC 版)
2002年 ミナルディでF1デビューする。戦闘力の劣るミナルディだったが、地元オーストラリアの開幕戦でトヨタのミカ・サロを振り切り5位に入賞した。その後は入賞できずにいたが、2002年シーズン中盤でジャガー・レーシングの車両をテストする機会を得て、翌2003年にはジャガーに移籍した。ミナルディでは、予選結果でチームメートのアレックス・ユーン、アンソニー・デビッドソン(第13戦、第14戦のみ)に全勝した。
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ミナルディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 05:44 UTC 版)
「ゾルト・バウムガルトナー」の記事における「ミナルディ」の解説
レギュラーシートを手に入れたバウムガルトナーだったが、マシンの戦闘力の低さ故に同僚のジャンマリア・ブルーニ共々、毎回の苦戦を強いられた。 予選ではブルーニに対し7勝11敗と振るわなかったが、決勝では14位が最高位だったブルーニに対し、バウムガルトナーはモナコGPで9位、カナダGPでも10位に入るなど粘りの走りを見せていた。 第9戦アメリカGPでは、完走9台というサバイバルレースの中で粘りの走りをここでも発揮し8位入賞。自身初、そしてハンガリー人ドライバー初のポイントを獲得した。(ミナルディにとっても2002年オーストラリアGP以来の入賞であり、結果的にこのシーズンにおけるチーム唯一のポイント獲得でもあった) その後は元々のマシンの戦闘力の低さなどもあって更なるポイント獲得はならなかったが、完走率でブルーニを上回るなど一定の結果を出していた。
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