2000 - 10年代
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2001年、『トランスクリティーク カントとマルクス』を、その前年に自らも関わって立ち上げた生産者協同組合である、批評空間社 から出版、その内容をもとに、2000年6月、アソシエーション=「国家と資本への対抗運動」の活動、NAM(New Associationist Movement) を立ち上げる。『NAM原理』(2000・太田出版)は、WEB上でその内容が公開されていたにもかかわらず当時1万7千部以上売れた。著名なエコロジー活動家など多数が参加し、最大700人の会員数を数えた。2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件発生した際、NAMのサイトに「テロにも報復戦争にも反対する」という旨の声明が出た。なお『批評空間』のWEBサイト上で、9.11同時多発テロに対する柄谷行人のコメントとして「これは予言ではない」と題する文章が掲載された。 2001年12月にはWEB上でのヴァーチャルな取引を、制度設計として組み込んだことを目玉とする地域通貨Q を、NAMとは独立した任意団体として西部忠を中心に立ち上げた。当初の予定では、批評空間社もこのQに参入し、productsを部分的にQ支払い可能にし、出版・メディア、そして最終的には流通一般そのもの、の既成の仕組みを徐々に変革していくことが目指されていた。第3期批評空間創刊記念シンポジウムでは、建築や芸術のジャンルから磯崎新や岡崎乾二郎らがパネリストとして並び、地域通貨Qによる流通の変革への期待が述べられた。しかし、人間関係の軋轢、未知の問題点の噴出、ネット上でのコミュニケーションからおこる通信上の混乱などで、NAMは2003年1月に早々と解散。あるいは柄谷が「身も蓋もなく潰」した。批評空間社も社長兼『批評空間』の編集者の内藤祐治の死(2002年春)を契機に解散した。 『トランスクリティーク』自体は2003年NAM解散後、MIT(マサチューセッツ工科大学)出版から英語版が出版された。ジジェクはこれを「必読の書」と評した。しかしながらジジェクは、その中で、柄谷のカント読解がヘーゲルによるカント批判を軽視しているのではないか、商人資本の強調が労働価値説の位置を不確かなものにしているのではないか、地域通貨という解決策にも疑念が残るのではないか、と疑問を羅列するかたちで指摘している。また日本語版としては、岩波書店から柄谷行人集第三巻『トランスクリティーク』(2004)と言う形で第2版が出された。なお柄谷のカント読解は、初版出版時、岩波新カント全集監訳者の坂部恵から高い評価を受けている。 また、柄谷は自身の「トランスクリティーク」という言葉はガヤトリ・C・スピヴァクの「プラネタリー」という言葉と親和性が高いとしている。プラネタリー(惑星的)とはスピヴァクによると グローバリゼーション(地球全域化)という言葉への「重ね書き」」 として提案された。実際、短期間所長をつとめた近畿大学人文研のキャッチフレーズは「プラネタリー(惑星的)な思考と実践」「芸術とは何かを発見する術であり、認識を新たにする術であり、社会の生産のあり方をも変革する力、すでに存在する事物の再生産ではなく、まだ認識もされなかった事物を新たに見出し生み出す力、さらにその新たな事物を交換、流通させていくメディアの創設、社会関係の構築」であった。 2001年頃、翻訳家の山口菜生子と再婚。以後、山口は柄谷凛の筆名を用いる。山口は明治大学名誉教授山口泰司と共訳書があることから、父娘関係ではないかといわれている。 2004年5月には近畿大学人文研での講義をもとにした『近代文学の終わり』 を早稲田文学 に発表。「若い人は「文学」をもうやらなくて結構です。かつての「近代文学」と持っている意義は同じだけど、何か、違うことを実現してください」という主旨を述べた。柄谷は、事実上この前後から文芸批評を行っておらず、このジャンルから撤退同然である。別の場所では「これまでのスタンスのままで「文学」をいうことはできない。文学を続けたかったら、むしろそれを否定しなければならない」 とも述べている。 『新潮』2004年8月にて福田和也と「現代批評の核」と題した対談を行う。 2004年11月には、京都大学で、この年の10月9日に亡くなったデリダの追悼シンポジウムに参加。その中で「トランスクリティークとはディコンストラクションの否定ではなくその徹底化であると考えてもらってもいい」と述べた。 2003年にMIT出版から『Transcritique on Kant and Marx』 を刊行。 2004年に岩波書店から定本柄谷行人集(全5巻) を刊行。英語やその他の言語に翻訳された著作・論文のみを選定し、今までの仕事を「定本」としてまとめた。 2005年4月から朝日新聞の書評委員。 2006年3月に近畿大学の運営に不満を持ち近畿大学国際人文科学研究所 所長を、副所長で、坂口安吾研究者の関井光男(柄谷とともに新坂口安吾全集を編集)とともに辞任。2006年1月19日の公開最終講義以降、外国を含め、大学においてゼミは行っていない。現在は自宅近くで、半年に一度、長池講義 という無料の公開講義を行っている(2007年11月より)。 2006年4月には「21世紀の教養新書」として再出発 することになった岩波新書赤版から刊行数1001点目・装丁リニューアル第1弾として『世界共和国へ』を出版。なお「世界共和国」という言葉はカントの『永遠平和のために』(1795)からとられている。 2007年10月、アメリカスタンフォード大学で講演を行った。映像は、YouTube で見ることができる。 近年は佐藤優(『獄中記』) や宮崎学(『法と掟と』) への評価が高い。柄谷のアソシエーション=「国家への対抗」が必然的に国家の法・実定法と緊張関係に入る、あるいは、それとは一定程度独立した自治的空間の創出を目指すことになる、ことから、さまざまな具体的な模索をしていることの一環(宮崎学「掟」への高評価・中間団体(丸山真男)の評価) だと思われる。またヴィトゲンシュタインやオースティン、ハーバート・ハートの流れを汲む英米法哲学の主流派の一人、ジョン・ロールズ(『正義論』『万民の法』)をカント的理念を法に持ち込むものとして高く評価している。 なお、ネグリ=ハートのマルチチュード(有象無象)論に関しては、「二元性(帝国(グローバルな資本主義)対マルチチュード)は、諸国家の自立性を捨象する時にのみ想定される」、つまり国家を軽視している、と懐疑的である。とはいえ、90年代終わり「『トランスクリティーク』を書いた時点では、(…)ネグリらの観点と似たものを持っていた」「グローバルな資本主義の深化が、ネーション=ステートというものを希薄にすると考え」ていた、とも認めている。 新自由主義・リバタリアニズムに関しても、その思潮は、リベラルな外観のもとに、実質的に、国家と資本、政治と経済の結合を強め、国家的統治を強化することにしかならず、しかもそのことを隠蔽する、と批判的である 。 2008年1月には『新現実』Vol.5 (太田出版)で、大塚英志と対談。その中で柄谷は「批評空間の立ち上げはもう無理」「NAMも同じで、違う形ではやるかもしれないが、俺がもう二度とやるとは思うなよ」と述べている。 地球温暖化などの環境問題に関しては、物理学者槌田敦による「『地球温暖化二酸化炭素原因説=原子力発電奨励』への批判」 に注目している。同様な趣旨で、2008年4月7日朝日新聞紙上に「科学者の課題は何ですか」という分子生物学者福岡伸一氏とのクロストークが掲載された。 早稲田大学2008年4月1日入学式での不当逮捕抗議声明 (絓秀実の項を参照)に賛同署名している。 2010年6月、岩波書店から『世界史の構造』を出版した。 2011年3月11日の原発震災後、「デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるからです。」 と新宿アルタ前広場で行われた、素人の乱主催による「9.11新宿 原発やめろデモ!!!!」街頭集会でスピーチした。 2014年『世界史の構造』の英訳『The Structure of World History : From Modes of Production to Modes of Exchange』をデューク大学出版から刊行。2014年4月には、デューク大学で、コンフェランス「From Modes of Production to Modes of Exchange」 をもった。 2014年9月から2015年3月まで、『社会運動』(市民セクター政策機構/インスクリプト)で『NAMを語る』を連載。同じく『社会運動』で2015年5月から7月まで、市民セクター政策機構理事長で生活クラブ連合会会長の加藤好一のインタビューを受けた。 2015年8月15日、第二次世界大戦終結70年の日に、岩波書店が朝日新聞に出した全面広告において、「戦後70年 憲法9条を本当に実行する」 という 表題のインタビューを岡本厚岩波書店社長から受けた。 2016年1月、岩波書店より『定本 柄谷行人文学論集』を上梓。
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2000-10年代
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2002年9月、小泉純一郎総理大臣は北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、17日日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を「一部の英雄主義者が暴走した」として公式に認め、5人の拉致被害者の帰国となった。しかし8人死亡・1人行方不明とする北朝鮮側の回答は日本側からは承諾しかねるものに映り、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなど、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発した。日本では特定船舶入港禁止法 も成立した。 北朝鮮は2002年に核開発を認め、北朝鮮核問題について六者会合(六ヶ国協議)が開かれた。日本、韓国、北朝鮮、アメリカ、中国、ロシアが参加したが、2007年以降は開催されていない。2006年には北朝鮮の核実験が断行され、日韓首脳会談では日韓連携が確認された。この核実験は各国の批判も招き、国連安保理の非難決議にもつながった。地域交流にも影響を及ぼし、日本で唯一、北朝鮮との姉妹都市関係にあった境港市は、核実験後に元山市との関係を破棄した。 2011年12月17日に金正日国防委員長が死去し、世襲により同人物の三男にあたる金正恩が北朝鮮の第3代最高指導者の座に就き、新体制へ移行した。 2016年、日本政府は北朝鮮による度重なるミサイル発射実験および北朝鮮による日本人拉致問題に対する制裁措置として、北朝鮮国籍者の入国および再入国の禁止を決定した。2017年9月、北朝鮮の対外窓口機関である朝鮮アジア太平洋平和委員会は、「核兵器を使用して日本列島を沈める」との声明を発表し、日本政府はこれに抗議した。 日本は日韓基本条約により、韓国を「朝鮮半島唯一の国家」としているため、北朝鮮を国家として承認しておらず、2021年現在にいたるまで国交はない。
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2000-10年代
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「女流棋士 (将棋)」の記事における「2000-10年代」の解説
2003年10月 - 奨励会を2級以上で退会した女性が、そのままの段位で女流棋士に編入できる規定が設けられた。 2007年5月 - 日本将棋連盟を退会した女流棋士17名によって「日本女子プロ将棋協会(LPSA)」が設立(5月30日)。 2009年4月 - 女流棋士育成の機能が女流育成会から研修会(男女混合)に移行し、研修会で一定のランクに昇級した者が女流棋士になれる制度になった。 2009年4月 - 棋士・女流棋士の両方を含む新たな棋士会が創設され、女流棋士会は棋士会の中の組織となる。 2011年3月 - 女流タイトル戦「リコー杯女流王座戦」が創設され、同時に女性奨励会員の女流棋戦参加が解禁される。 2011年4月 - 日本将棋連盟の公益社団法人化に伴い、女流四段以上またはタイトル獲得経験のある日本将棋連盟所属の女流棋士9名が正会員となる。 2012年7月 - LPSAが渡部愛を独自の規定によって女流3級と認定したことに端を発し、日本将棋連盟、棋戦主催社、LPSAの間で深刻な問題が発生。その後、2014年6月に連盟とLPSAの間で和解が成立。 2013年10月 - 女流公式戦で顕著な実績を挙げたアマチュア女性が、研修会・奨励会を経ずに女流棋士になれる規定が設けられた。 2013年12月 - 里見香奈が女性初の奨励会三段に昇段。 2014年1月 - LPSA所属の中井広恵が2014年1月23日付でLPSAを退会し、初の「フリー女流棋士」の立場で現役継続。 2017年2月 - ポーランド人のカロリーナ・ステチェンスカが女流2級となり、棋士・女流棋士を通じて将棋界初の日本国籍を有さないプロとなった。 2017年5月 - 清水市代が女流棋士として史上初めて日本将棋連盟常務理事に就任した。 2019年8月 - 女流棋士もしくは女性奨励会員が棋士になった場合、棋士と女流棋士を兼業できる規定が設けられた。
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