特筆すべき過去のレース
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「スウェーデングランプリ」の記事における「特筆すべき過去のレース」の解説
数多く開催されたスウェーデンGPの中でも、大きな出来事が起こった、または記念すべきレースをいくつか取り上げて紹介しよう。 1976年 6輪車唯一の勝利 1975年末に発表されたティレルの6輪車P34が優勝を飾ったレース。優勝したのはジョディー・シェクターで、2位にもパトリック・デュパイエが入り、1-2フィニッシュを達成した。この年のP34は実に9回の2位を獲得するなど、抜群の安定感を見せた。現在の規則ではタイヤは4つと定められており、6輪車が勝った唯一のレースとして知られている。 1978年 ファン・カー唯一の出走と勝利 この年になり本格化、ほぼ全ての有力チームが実用化に成功したグラウンド・エフェクトに追随できなかったブラバムチームは、このスウェーデンGPで新車BT46Bを持ち込んだ。ブラバムチームのデザイナーであったゴードン・マレーは、ベルヌーイの定理を応用して接地力を増したグラウンド・エフェクトに代わり、車体下の空気をファンで吸い出すという奇抜なアイディアで接地力を増した。F1の規則では「空力に影響を与える部分は固定されていること」というルールがありこれに多分に抵触する虞のあるものではあったが、マレーはあらかじめ国際スポーツ委員会に文書で合法性を問うて認められているため、また「車体上部のラジエーターに空気を強制的に取り込むため」というマレーの説明もあり、スウェーデンGPの出走も認められた。 レースでは、BT46Bに乗るジョン・ワトソンとニキ・ラウダは予選では2位と3位の位置を占め、決勝でもワトソンがメカニカルトラブルでリタイヤするもラウダがあっさりと優勝を決めた。このことにより更に紛糾の種となり、問題の機構は使用禁止となった。これにより、1976年のスウェーデンGPと並びこの年のレースも、このような特異な機構をもつ車体が出走・優勝した唯一のレースとなった。
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特筆すべき過去のレース
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「ベルギーグランプリ」の記事における「特筆すべき過去のレース」の解説
1960年のレースは重大事故が相次ぎ、「暗黒の週末」と呼ばれた。予選ではスターリング・モスとマイク・テイラーが負傷。決勝ではクリス・ブリストウとアラン・ステイシーが死亡した。 1964年のレースでは、レース終盤にガス欠による逆転劇が発生した。レースを独走したダン・ガーニーが残り2周でストップし、最終ラップにはグラハム・ヒルとブルース・マクラーレンも同じ目に遭い、たなぼたでジム・クラークに勝利が転がり込んだ。そのクラーク自身もチェッカーを受けた後にガス欠でストップした。クラークは1962年のベルギーGPでF1初勝利を挙げてから1965年まで4連覇した。 1967年にはダン・ガーニー(イーグル)、1968年にはブルース・マクラーレン(マクラーレン)がオーナードライバーとしてチーム初優勝を達成した。 1977年にゾルダーで行われたレースでは、ロータスのNo.2ドライバーのグンナー・ニルソンが雨中の接戦を制してF1初優勝を果たした。しかし、ニルソンの体は精巣癌に侵されており、これが最後の勝利になった。 1981年にゾルダーで行われたレースでは、予選中ピットレーンでオゼッラのメカニックがカルロス・ロイテマンのマシンに撥ねられた。決勝スタートではアロウズのメカニックがエンジンストールしたリカルド・パトレーゼのマシンに駆け寄ったところ、後方からチームメイトのジークフリート・ストールのマシンに追突され両足骨折の重傷を負った。レースはロイテマンがポール・トゥ・ウィンで優勝し、入院していたオゼッラのメカニックは翌週死亡した。 1982年にゾルダーで行われたレースでは、予選でフェラーリのジル・ヴィルヌーヴが事故死するアクシデントが発生。決勝レースはヴィルヌーヴのチームメイト、ディディエ・ピローニが撤退し、フェラーリ勢抜きで行われた。この年からウィリアムズに加入したケケ・ロズベルグが序盤からトップを快走していたが、ラスト2周というところで後方グリッドから追い上げを見せたマクラーレンのジョン・ワトソンにかわされてしまい、自身F1初優勝はならなかった。 1985年にスパ・フランコルシャンで行なわれたレースでは、補修したばかりの路面のアスファルトが剥がれるというアクシデントに見舞われた。このため、予選後に路面の再補修が行なわれ、予選終了から3カ月後に決勝が開催された。 1991年には、前戦でファステストラップを記録したベルトラン・ガショーが逮捕され、その代役としてミハエル・シューマッハがジョーダンからF1デビューを果たした。シューマッハは初戦ながら予選7位の健闘を見せたが、スタート直後にリタイアした。レースはシューマッハのチームメイトのアンドレア・デ・チェザリスが終盤まで2位走行し、トップ走行していたマクラーレンのアイルトン・セナを追い上げるも、トラブルにより惜しくも自身とチームのF1初優勝を逃してしまった。ベネトンのロベルト・モレノはこのレースでファステストラップを記録したが、次のイタリアGPでシューマッハとトレードされることになった。 1992年には、ベネトンのミハエル・シューマッハがF1初優勝を果たすが、これは、レース序盤の雨による混乱の中、チームメイトのマーティン・ブランドルのタイヤのわずかな劣化(ブリスター)をシューマッハが見逃さずにいち早くドライタイヤに交換した判断と、ロス・ブラウンの戦略でトップに立ち勝利を収めたことで、その後のシューマッハとブラウンのコンビネーションの強さの礎となったばかりか、F1が純粋な速さだけでなく、戦略的な要素も含めた総合的な強さを必要とすることになる、転機のレースになった。またレース終盤、ロータスのミカ・ハッキネンがマクラーレンのアイルトン・セナと5位争いの最中、ケメルストレートでセナを抑える場面があり、結果ハッキネンはセナに抜かれ6位に終わったが、ハッキネンもこのレースでさらに評価を上げて、世代交代を予感させるレースとなった。ちなみに、このシューマッハの優勝は、現在において、F1におけるマニュアルシフト車最後の優勝記録でもある。 1994年には、アイルトン・セナの事故死などで安全性が見直され、この年に限りオー・ルージュが大きく曲げられるカーブとなった。そして、2回の予選セッションともに雨となったが、ジョーダンのルーベンス・バリチェロが絶妙のタイミングでアタックを敢行し、自身及びチームのF1での初めてのポールポジションを獲得した。レースではベネトンのミハエル・シューマッハがトップでゴールするも、レース終了後にスキッドブロック(レギュレーションでマシン底部に付けることを定められている板)が削れ過ぎているという違反を問われて失格になった為、2位でフィニッシュしていたウィリアムズのデイモン・ヒルが繰上げ優勝となった。 1995年も、前年同様予選は雨となったが、途中から雨がやんだことにより、アタックのタイミングにより大きくタイムに影響する結果となった為、チャンピオン争いをしていたウィリアムズのデイモン・ヒルが8位、ベネトンのミハエル・シューマッハに至っては16位に沈むことになった。レースでも、途中から降り出した雨による大きな順位変動が見られたが、最終的にはシューマッハが逆転優勝を果たすことになる。これはF1史上最多勝を誇るシューマッハの数多くの勝利の中でも、最も後方グリッドからのものである。 1998年には、レーススタート直後に、マクラーレンのデビッド・クルサードとフェラーリのエディ・アーバインの接触から、クルサードのスピンをきっかけに後方の多数のマシンを巻き込む事故が発生した。レースは赤旗再スタートとなるが、再開後のレースでも、チャンピオン争いをしていたマクラーレンのミカ・ハッキネンが1コーナーでフェラーリのミハエル・シューマッハと接触後スピンし、リタイア。その後レースは大雨となり視界不良の中、多くのドライバーがリタイアしていった。そして、トップ走行していたミハエル・シューマッハが、周回遅れのクルサードに後方から追突するアクシデントが発生。ミハエル・シューマッハが豪雨のヘヴィーウェットの中、3輪状態でピットまでスピンせずに戻り、マクラーレンのガレージへ怒鳴り込みの抗議に出向く一幕があった。結局レースは、ジョーダンのデイモン・ヒルが、チームメイトのラルフ・シューマッハを従え、チーム初優勝を1-2フィニッシュで飾ることとなった。 2000年のレースでは、13周目にトップを走っていたマクラーレンのミカ・ハッキネンが、スタブローの濡れた縁石でハーフスピンをした。2位走行していたフェラーリのミハエル・シューマッハがトップに躍り出る。その後、それぞれ1回のタイヤ交換を行い、順位はそのままであった。しかし、ここからハッキネンは、1周平均コンマ5秒もシューマッハより速いペースで追い上げる。徐々に差が縮まっていき、40周目と41周目でのケメル・ストレート・エンドの攻防となった。40周目は、ハッキネンがシューマッハのイン側からオーバーテイクを試みるも、シューマッハがぎりぎりマシン1台分のスペースまでイン側を締めるブロックにて防ぎ、ハッキネンの左フロントウィングとシューマッハの右リアタイヤがわずかに接触する際どいバトルとなったが、シューマッハは紙一重でブロックに成功する。翌41周目は周回遅れのBARのリカルド・ゾンタを左のアウト側からシューマッハが追い抜こうとすると、同時にハッキネンはゾンタの右のイン側わずかなスペースに差込み、シューマッハ、ゾンタの2台ともまとめて一挙に追い抜き、再逆転。そのままトップでチェッカーを受けた。この3台が並走するオーバーテイクシーンは、「20世紀最高のオーバーテイク」とも報道され、近年のF1のバトルシーンのうちでも最も見ごたえのあるシーンの1つとなった。なお、ハッキネンがオー・ルージュからラディオンを抜けるときのスピードは、当時として初の300km/hオーバーとなった。 2001年には、レース序盤にジャガーのエディ・アーバインとプロストのルチアーノ・ブルティが接触し、ブルティは高速コーナのブランシモンのタイヤバリアに突っ込むという大事故が起こった為、赤旗中断となった。この事故でブルティが大事に至らなかったことは不幸中の幸いであった。レースはフェラーリのミハエル・シューマッハが優勝を果たすが、これはアラン・プロストの記録を破る、F1史上最多となる52勝目であった。 2003年は、タバコ広告規制の問題が影響し、32年ぶりにベルギーGPが開催されなかった。 2年ぶりにカレンダーに復活を果たした2004年のレースでは、フェラーリのミハエル・シューマッハが5年連続7回目のチャンピオンを決定した。これはファン・マヌエル・ファンジオの4年連続を上回る、史上最長期間連続のチャンピオン獲得の記録となった。また、ミシュランタイヤのトラブルにより、B・A・Rのジェンソン・バトンなど数名のドライバーがリタイアとなるが、高速走行中のもので、一歩間違えば大惨事につながりかねないものであった。 2006年、暫定の開催カレンダーには決勝日9月17日の第16戦として掲載されていたが、ベルギーGP主催者側がFIAに開催辞退の申請をし受理され、同年の開幕戦直前(2月8日)に開催中止が発表された。スパ・フランコルシャンサーキットの改修が理由となっているが、財政難による中止がささやかれていた中での発表だった。 2008年はレース終盤の雨の中でキミ・ライコネンとルイス・ハミルトンが優勝争いを展開。ライコネンがクラッシュし、ハミルトンがトップチェッカーを受けた。しかし、バトルの際にシケインをショートカットしたことで利益を得たとしてレース後に25秒加算ペナルティを課され、3位に順位が落ちた。 2009年はフォース・インディアのジャンカルロ・フィジケラがチーム初のポールポジションを獲得。「チーム初入賞が初優勝」という快挙が期待されたが、決勝ではライコネンに競り負け2位となった。 2012年は予選8番手のロータスのロマン・グロージャンがルイス・ハミルトンに幅寄せし、ハミルトンは右側のタイヤをダートに落とし制御不能になりグロージャンに衝突。止まりきれないグロージャンは前にいたセルジオ・ペレスにぶつかり、ペレスはフェルナンド・アロンソに接触。ハミルトンは小林可夢偉のフロントタイヤに乗り上げたあと、アロンソのリヤに接触しアロンソ、ハミルトン、ペレス、グロージャンがその場でリタイア。可夢偉はノーズにダメージを受けピットインし最後尾まで後退するといった多重クラッシュが発生。グロージャンはこの多重クラッシュを引き起こした責を問われ、1レース出場停止処分と罰金50000ユーロが課せられた。グロージャンが引き起こした多重クラッシュは一歩間違えば死亡事故に発展しかねない程の危険度であった。 2018年は、レーシング・ポイントに買収されて再出発したフォース・インディアが予選で3・4番手の快挙を見せるも、決勝ではスタート直後にニコ・ヒュルケンベルグがブレーキングミスからフェルナンド・アロンソに追突し、アロンソのマシンは大きく宙を舞ってシャルル・ルクレールを巻き込みながら大破し、アロンソとルクレールをリタイアさせたうえ、ヒュルケンベルグ自身と共に3台揃ってリタイア。この際にルクレールのマシンのHaloが損傷しながらもルクレール自身は無傷だったことから、今シーズンから義務化されたHaloの効果を実証する形になった(巻き添えを食らった当事者であるアロンソは「証明するまでもなく、Haloが装着されているのはよいことだ」、ニコ・ロズベルグは「Haloに関する議論はこれで終わり」とコメントした)。更にこの一件はキミ・ライコネンとダニエル・リカルドにも波及し、両者ともマシンにダメージを受けてリタイアとなり、バルテリ・ボッタスとセルゲイ・シロトキンもその多重クラッシュに巻き込まれてボッタスはシロトキンに接触、ボッタスはその責任を問われ5秒加算ペナルティを受ける。この件でヒュルケンベルグに次戦イタリアGPで10グリッド降格ペナルティが科せられた。一方でPU性能に優れるセバスチャン・ベッテルが1周目のケメルストレートでルイス・ハミルトンを抜いたあと、結局最後まで首位を譲らず全周回トップで優勝した。 2019年は、この年フェラーリに移籍したルクレールがポール・トゥ・ウィンでF1初勝利を挙げた。 2021年の決勝レースは断続的な雨の影響により所定の開始時刻より25分遅れでセーフティカー先導でスタートしたが、その直後レース続行不可能と判断されて赤旗が振られ、2時間47分の中断の後にセーフティカー先導により再スタートが切られたものの3周を終えたところで赤旗が振られてそのままレース終了となった。レースは成立したが、規定の周回数の75%を消化していないためハーフポイントレースとなった。
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特筆すべき過去のレース
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「イギリスグランプリ」の記事における「特筆すべき過去のレース」の解説
数多く開催されたイギリスGPの中でも、大きな出来事が起こった、または記念すべきレースをいくつか取り上げて紹介する。 1950年 - この年創設されたF1世界選手権の記念すべき第1戦として開催され、アルファロメオのジュゼッペ・ファリーナが優勝。以下4位までをアルファロメオが独占した。 1951年 - 前年から無敗を続けてきたアルファロメオを破り、フェラーリが初優勝した。チームオーナーのエンツォ・フェラーリは「私は母親を殺してしまった」との名言を残した。 1955年 - メルセデスに所属するスターリング・モスが地元でF1初優勝を達成。 1957年 - モスとトニー・ブルックスがマシンをシェアして優勝。イギリス人ドライバー2人とイギリス製マシン(ヴァンウォール)による記念すべき勝利となった。 1965年 - ジム・クラークがイギリスGP4連勝。 1968年 - ロブ・ウォーカー・レーシングチームのジョー・シフェールがロータス・49BでF1初優勝。同チームの優勝は1961年ドイツGPのモス以来7年ぶりで、かつ最後となった。 1973年 - レース2周目のホームストレートでジョディー・シェクターのマシンがスピン。コース上で動けなくなったマシンに8台のマシンが次々とクラッシュし、F1世界選手権では初めて赤旗でレースが中断されることとなった。この事故ではアンドレア・デ・アダミッチが脚の骨を折ってF1キャリアを断たれた。 1976年 - スタート直後の多重事故で赤旗再スタートとなり、中断中にマシンを修理したジェームス・ハントが優勝。しかし、フェラーリが異議を唱え、2ヵ月後にハントは失格処分となった。 1979年 - ウィリアムズのクレイ・レガツォーニが優勝し、ウィリアムズが初優勝を達成。 1987年 - ホンダエンジンを使用するウィリアムズとロータスが1位から4位までを独占した。優勝したのはウィリアムズのナイジェル・マンセル、2位は同じくウィリアムズのネルソン・ピケ、3位はロータスのアイルトン・セナ、4位がロータスの中嶋悟であった。 1992年 - 圧倒的な戦闘力を誇るウィリアムズ・ルノーを駆り、ドライバーズランキングで首位を独走していたマンセルの凱旋レースというにふさわしかった。金曜日のフリー走行からの全てのセッションでマンセルがトップタイムを記録した。決勝レースでは全周回で首位を譲らず、2位のリカルド・パトレーゼに約40秒の差をつけて優勝。ファステストラップも記録しグランドスラムを達成した。 1994年 - ウィリアムズのデイモン・ヒルが地元優勝。ベネトンのミハエル・シューマッハは黒旗無視で失格となり、さらに2戦出場停止を命じられた。 1995年 - ジョニー・ハーバートがF1初勝利。 1999年 - フェラーリのシューマッハがブレーキトラブルでタイヤウォールに激突。右足を骨折し欠場を余儀なくされた。 2003年 - 決勝レース中、アイルランド出身の聖職者ニール・ホランが宗教的なメッセージが書かれたプラカードを掲げてコースに乱入。逮捕され禁固2か月の有罪判決を受けた。 詳細は「ニール・ホラン#F1イギリスGPに乱入」および「2003年イギリスグランプリ#コース侵入」を参照 2013年 - 土曜フリー走行でマクラーレンのセルジオ・ペレス、また決勝レースではメルセデスのルイス・ハミルトン、フェラーリのフェリペ・マッサ、トロ・ロッソのジャン=エリック・ベルニュ、そしてペレスの左後輪タイヤが相次いでバーストを起こす異常事態。特にベルニュがバーストした際には直後にセーフティーカーまで入った。これを受けてタイヤを独占供給しているピレリは原因の徹底調査を行い、タイヤを左右逆に付けたり、空気圧を低めにするなどの不適切な使用方法やサーキットの縁石が原因であると結論づけた。しかし一方でピレリが国際自動車連盟(FIA)や各チームに無断でタイヤの構造変更を行った、との報道もされている。 2017年 - ハミルトンがクラーク以来のイギリスGP4連勝をグランドスラムで達成。また、イギリスGPにおける通算勝利数もクラークとアラン・プロストに並んだ。 2019年 - ハミルトンがチームメイトのバルテリ・ボッタスに勝ち、イギリスGP単独トップとなる通算6勝目を達成。 2020年 - ハミルトンが最終ラップで左フロントタイヤがパンクするアクシデントに見舞われ3輪走行を強いられたが、その状態のままリードを守りきって優勝した。 2021年 - F1史上初のスプリントレース形式による予選はマックス・フェルスタッペンが制してポールポジションを獲得するが、決勝は1周目でハミルトンと接触してコース外に押し出されてタイヤバリアにクラッシュ、リタイアに終わった。このアクシデントにより赤旗が出されてレースは中断。ハミルトンはレース再開後に10秒のタイムペナルティが科せられたが、先述のアクシデントに乗じてトップに立ったシャルル・ルクレールをレース終盤にパスして逆転優勝を果たした。
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