原子爆弾投下任務とは? わかりやすく解説

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原子爆弾投下任務

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:04 UTC 版)

B-29 (航空機)」の記事における「原子爆弾投下任務」の解説

詳細は「原子爆弾投下」を参照 マンハッタン計画原子爆弾の開発進められていたことは極秘事項であり、アメリカ陸軍航空隊責任者であるアーノルドマンハッタン計画責任者レズリー・グローヴス准将から計画聞いたのは1943年7月のことだった。アメリカ軍自軍爆撃機原子爆弾搭載できる機体がなかったことから、当初イギリス軍からアブロ ランカスター供与を受けることも検討していたが、開発中B-29原子爆弾搭載機として白羽の矢が立ち、グローヴスアーノルドに、この爆弾搭載し爆撃実験できるような特別機準備してほしいと要請行いアーノルド陸軍航空軍総司令部航空資材調達責任者であるオリバー・エコルズ(英語版少将B-29原子爆弾搭載可能の改造を行うよう命じた。この計画は、エコルズを含む数名極秘裏に進められたが、B-29改造担当者ロスアラモス原子力研究所から2種類の形の原子爆弾開発していると説明を受けると、その両方爆弾搭載可能な改造を行う必要性迫られた。 機密保持のため、2種類原子爆弾をその形状から、それぞれシンマンやせっぽち)」と「ファットマンでぶっちょ)」、改造計画を「シルバープレート」と隠語名付けたマンハッタン計画知らない多数技術者に対しては、シンマンとはルーズベルトファットマンチャーチルのことで、この2名が極秘裏にアメリカ国内旅行するために使用するプルマン寝台車輸送するための改造であり、ことの重大性から寝台車シルバープレートという隠語呼んでいると説明している。のちにシンマン設計変更で「リトルボーイちびっこ)」と呼ばれることになった。この改造計画は、B-29新し爆弾まきあげ器、操弾索、懸架装置投下装置など装着するものであったが、「カンザスの戦い」で最優先されていたB-29量産よりもさらに優先事項とされ、B-29による日本本土空襲開始される前の1944年2月28日には原子爆弾投下訓練開始されている。実験により判明した不具合修正進められエンジン新型のR-3350-57サイクロンエンジン換装されて、プロペラ冷却能力高めるため、根元にルート・カフスを装着したピッチ可能な電気式カーチス可変ピッチプロペラとする特別仕様となった1944年8月アーノルドはこのシルバープレート機を3機発注し戦争が終わるまでに54機まで発注増やし、うち46機が納品されていた。 原爆搭載機製造並行して原爆投下のための特別の戦闘部隊組織していた。指揮官にはポール・ティベッツ大佐選ばれたが、ティベッツ1942年8月17日アメリカ陸軍航空隊として初めドイツ支配下のフランスルーアンを爆撃し北アフリカ戦線ではティベッツ指揮するB-17連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将特別機指定されて、北アフリカジブラルタルアイゼンハワー何度も運ぶなど、実績信頼度ともに非常に高かったが、向こう見ずな性格上官にも臆せず意見し、また激情家であり、税金不当に押収しにきた税関職員拳銃脅して追い返したこともあった。のちにティベッツ自分の身の潔白を自らの調査証明し逆にこの税関職員密輸入品で不正に稼いでいたことも判明している。 ティベッツヨーロッパ戦線から戻ると、1944年春からしばらくB-29搭乗員訓練教官をしていたが、1944年9月マンハッタン計画弾道技術者ウィリアム・パーソンズ海軍大佐面談し1944年12月27日15機の改造B-29保有する原爆投下部隊である第509混成部隊指揮官任命された。この第509混成部隊部隊単独行動できるように、技術中隊飛行資材中隊兵員輸送中隊憲兵中隊組織され総勢1,800名ものスタッフ構成されており、さながら私有空軍といった陣容であった第509混成部隊ユタ州のウエンドーバー基地訓練をしたが、もっとも大きな問題原子爆弾投下したB-29自身が、原子爆弾衝撃波吹き飛ばされてしまうのでは?ということであったティベッツは、約30,000フィート(9,140m)で原子爆弾投下すれば、原子爆弾がさく裂するまでB-29は高度差も含めて6マイル(9.7km)離れられると計算したが、B-29吹き飛ばすのに足り威力衝撃波8マイル(13km)に達すると算出され残りの2マイルをどう確保するかが問題となったティベッツ豊富な経験から、一般的に投下した爆弾慣性落下しつつ前方移動するので、B-29原子爆弾投下したのち、155度の急旋回行なってフルスロットル飛行すれば、落下する原子爆弾とほぼ逆方向B-29退避させることができるため、原子爆弾のさく裂までに必要限度8マイル十分に確保できることに気が付いて第509混成部隊搭乗員らはこの急旋回訓練習性になるまで繰り返し行った。この時点第509混成部隊のほとんどの搭乗員が、自分達が大型特殊爆弾投下任務に就くということは知っていたが、その特殊爆弾恐るべき破壊力を持つ原子爆弾ということ知らなかった第509混成部隊徹底した訓練ののち、シルバープレート機を15機を擁して終戦時までに29機に増強1945年5月テニアン基地進出した日本軍テニアン島潜伏していた生存兵が尾翼マーク確認して新し飛行隊進出してきたことを確認し、まだ日本軍支配していたロタ島通じて大本営向けて報告された。特殊任務部隊との認識はあったが、原爆投下部隊とは知らなかった大本営は、日本軍情報力を誇示するため、東京ローズゼロアワー第509混成部隊進出歓迎のことばを言わせたが、皮肉なことにこの部隊がのちに日本に大惨禍もたらすことになった第509混成部隊形式上ルメイ指揮となったが、第21爆撃集団第509混成部隊必要な支援を行うだけで、大部分命令アーノルド直接おこなうこととしていた。 原子爆弾投下目標都市については、爆撃による被害少なく原子爆弾威力検証しやすい都市選ばれ広島小倉横浜5月大空襲により候補から除外)、京都などが候補にあがりグローヴス人口108万人京都原子爆弾威力測るのにもっとも相応しいと主張したが、陸軍長官ヘンリー・スティムソンが「京都極東文化史上重要で芸術品数多い」という理由で候補から外させている。原子爆弾投下目標選定が進む中で第509混成部隊集中的な実地訓練継続しており、原爆投下時搭載機1機と効果測定するため科学者技術者乗せた偵察機2機の3機編隊飛行する計画となっており、2~6機の少数機で数度日本上空高高度飛行訓練行ったり、パンプキン爆弾名付けられ原子爆弾模した大型爆弾による精密爆撃訓練などを行った1945年7月20日にはパンプキン爆弾投下訓練のため東京飛行していたクロード・イーザリー少佐操縦ストレートフラッシュ号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、攻撃禁止されていた皇居パンプキン爆弾投下することとなった。しかし、皇居の上空には立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾皇居には命中しなかった。日本のラジオ放送皇居爆撃事実知った爆撃司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった。 1945年7月16日トリニティ実験成功したが、その知らせルメイごく一部司令官参謀にしか伝えられず、依然として第509混成部隊搭乗員らも新型爆弾正体知らされていなかった。テニアン島重巡洋艦インディアナポリスが「リトルボーイ」を運び込んだときも機密保持状況変更はなかった。1945年7月25日グローヴスから原爆投下命令発され8月2日には第509混成部隊名で出され野戦命令第13号8月6日に第1目標広島、第2目標小倉原子爆弾投下する決定したルメイ自身はこの決定直接関与はしなかったとのことだが、広島選ばれ理由を「当時日本では軍都イメージが強い」であったからと推測している。 8月4日ティベッツは自らB-29操縦して最後パンプキン爆弾投下訓練行ったが、出撃前に搭乗機に他の搭乗員相談して操縦士の窓のちょうど下のところにティベッツ母親(エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets))の名前である「エノラ・ゲイ」とノーズアートし、これがこの機体愛称となったティベッツ前日8月5日明日任務のことを搭乗員説明したが、このときも原子爆弾のことについては一切触れず出撃数時間前になってようやくトリニティ実験写真搭乗員見せている。エノラ・ゲイティベッツが自ら操縦することとした。アメリカ陸軍航空隊では原則的に司令官自らの空中指揮禁止しており、ルメイもその規則守って1945年3月10日東京大空襲での空中指揮断念した経緯もあってティベッツ再考促したが、ティベッツ最初から自ら空中指揮執る決めており、最終的にルメイ同意している。 テニアン島には多数マンハッタン計画スタッフたちも出撃の状況見守っていたが、離陸直後B-29墜落する様子をよく見ていたスタッフたちはエノラ・ゲイ離陸直後墜落してテニアン島原子爆弾がさく裂しないように、離陸成功してのちに起爆装置作動することとし弾道技術者パーソンズエノラ・ゲイ搭乗させて機上作動操作行わせることとした。リトル・ボーイ搭載しパーソンズ乗せたエノラ・ゲイティベッツ操縦午前2時45分テニアン島から出撃した。その後先行していた気象観測機ストレートフラッシュ号から第1目標広島天候良好との知らせ入り計画通り広島初めての原子爆弾投下されることになった広島悪天候のときも考慮して、第2の目標とされた小倉には「ジャビット三世」、第3の目標の長崎には「フル・ハウス」も天候観測のために飛行していた。 エノラ・ゲイ計画よりわずか17秒の超過だけで、午前9時15分17秒(日本時間では8時1517秒)にリトルボーイ投下しティベッツ何度となく訓練したように155度の右旋回を入れて急速離脱したリトルボーイ投下43秒でさく裂したが、エノラ・ゲイティベッツ計算通り9マイル先に離脱しており無事であった。それでも衝撃波激しく機体震わせた一瞬のうちに広島では、78,150人の市民死亡し70,147戸の家屋半壊上の損害受けた中国軍管区豊後水道北上するエノラ・ゲイ3機を発見し7時9分に警戒警報発令していたが、うち1機のストレートフラッシュが一旦広島上空通過して播磨灘方面去ったので、7時31分警報解除している。その後8時11分に松永対空監視所がエノラ・ゲイ観測機グレート・アーティスト号が高度9,500m接近してくるのを発見したが、時すでに遅く充分な対応ができなかった。 原爆投下成功知らせは、ポツダム会談からの帰国中のトルーマンにも報告されトルーマンは「さらに迅速かつ完全に日本のどこの都市であろうが、地上にある生産施設抹殺してしまう用意がある。我々は、彼らの造船所を、彼らの工場を、彼らの交通破壊するであろう誤解ないよう重ねていうが、我々は日本戦力を完全に破壊するであろう」という談話発表した。(詳細広島市への原子爆弾投下参照広島3日後が次の原子爆弾投下の日に選ばれた。短期間の間に2回も原子爆弾投下するのは、日本側にいつでも原子爆弾投下できるストックがあると知らしめることが目的であったが、実際次に投下する予定ファットマンアメリカ軍製造していた最後原子爆弾であった初回任務成功させたティベッツ2回目信頼できる部下任せこととし広島の際に観測機グレート・アーティスト機長であったチャールズ・スウィーニー中佐B-29ボックスカー号に搭乗して原子爆弾投下任務を行うことになった目標小倉新潟いづれか絞られたが、新潟は距離が遠すぎるという理由で第1目標小倉、そして第2目標を同じ九州長崎定めた。ただし長崎は丘と谷に隔てられ地形であり好目標ではなかった。1945年8月9日テニアン島出撃したボックスカーは、午前8時43分に小倉上空達したが、天候不良小倉は厚い覆われており、やむなく第2目標長崎向かった長崎天候不良であったが、レーダー爆撃進路とっているときに一瞬切れ目見えたので、午前10時58分にファットマン投下しボックスカー燃料不足のためマリアナには戻らずそのまま沖縄向けて飛行した日本軍広島への原子爆弾投下以降警戒強化しており、国東半島から北九州地区に向かう2機のB-29発見したが、西部軍管区広島同様の編成であったのでこれを原子爆弾搭載機判断し10時53分に空襲警報発令した。第16方面軍司令部は、敵機目標長崎判断しラジオ通じてB-29少数機、長崎方面侵入しつつあり。全員退避せよ」という放送繰り返し流させたが、事前空襲警報ラジオ放送はほとんどの長崎市民には認知されておらず(ラジオ放送そのものがなかったという証言もあり)長崎市民が大規模な避難をすることはなかった。ファットマンのさく裂で長崎でも一瞬のうちに23,752人もの市民の命が奪われた。(詳細長崎市への原子爆弾投下参照アメリカでは「これらの戦果により、日本の終戦早め本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害予想される戦い避けることができた」自称している。この評価もあって1947年陸軍航空隊陸軍から独立してアメリカ空軍改組された。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地公演行い広島市原子爆弾投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解され保存されていたが復元されスミソニアン博物館展示されることとなったまた、ボックスカー国立アメリカ空軍博物館実機保管されている。 長崎原爆投下され6日後の1945年8月15日日本ポツダム宣言受諾して戦争終わった終戦までにB-29147,000トン爆弾(うち100,000トン焼夷弾)を投下し日本66都市40%を焦土化し45万人死亡して600万人が家を失った。また飢餓作戦投下され12,000個の機雷海上輸送断絶しており、これ以上抗戦不可能なところまで追い込まれていた。戦後B-29戦略爆撃効果調査したアメリカ戦略爆撃調査団は「たとえ原爆投下されなかったとしても、たとえソ連参戦しなかったとしても、さらにまた、上陸作戦企画されなかったとしても、日本1945年以前に必ず降伏しただろう」と結論づけているが、これはアメリカ戦略爆撃調査団による「内輪」のものであることに注意が必要で、実際アメリカ軍本土決戦となった場合終戦1946年後半以降になった予想している。 香淳皇后は、ポツダム宣言受諾1945年8月15日から数日後疎開先の皇太子継宮明仁親王)に手紙送っている。その中には「こちらは毎日 B-29艦上爆撃機戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつています B-29残念ながらりつぱです。お文庫のこの手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほつたかわかりません。」と書かれていた。 B-29第二次世界大戦最後の任務は、日本国内外154箇所捕虜収容所収容されている63,000人の連合軍捕虜対す当面の間食料薬品といった物資空中投下となった8月27日北京近郊捕虜収容所皮切りに東京都愛知県長崎県佐賀県など、収容所解放するまでの約1か月間で延べ900機が出動したが、長崎俘虜収容所物資投下したB-29その後近く山腹激突して搭乗員全員死亡したように、この任務中にも数機のB-29墜落している。 B-29主翼下側に「捕虜供給物資」とペイントされ、物資投下する1時間ほど前に物資分量や、食べ過ぎ薬品飲みすぎ注意するようにと但し書き書いているチラシ散布するほどの気の配りようであった物資いくつかパラシュート外れて、まるで爆弾のように落下し建物破壊したり、時には地上物資待ちかねていた捕虜直撃して命を奪うこともあった。

※この「原子爆弾投下任務」の解説は、「B-29 (航空機)」の解説の一部です。
「原子爆弾投下任務」を含む「B-29 (航空機)」の記事については、「B-29 (航空機)」の概要を参照ください。

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