帰属問題
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1713年のユトレヒト条約以降イギリスが統治を続けているジブラルタルだが、スペインは今も返還を求めている。ジブラルタルはヨーロッパに残る最後の「植民地」であり、また係争当事国がいずれもEU加盟国であった点、係争が300年もの長きにわたっている点で、世界の領土問題のなかでも異色の存在と言える。 スペインの基本的見解は、ユトレヒト条約第10条はジブラルタルの町、城、それに付随する港、要塞の所有と軍事利用をイギリスに認めたに過ぎず、主権はスペインに残っているというものである。スペインにとってジブラルタルは長らく「スペインの靴の中に入ったペニョン(岩山)」となっている。しかし返還を求めるスペインの主張は、モロッコのセウタなど自らの植民地所有と矛盾するものでもある。一方、現在のイギリス統治が住民から圧倒的支持を受けていることは1967年9月の住民投票から明らかであるが、同年12月に国連の非植民地化委員会(英語版)はイギリスのジブラルタル領有を植民地主義的だとして返還を促す決議を採択している。 1704年のイギリスによるジブラルタル占領以降、スペインはジブラルタルを武力で奪回すべく1705年、1727年、1783年に包囲戦をしかけたが、いずれも失敗した。またその後の外交による交渉も全て不首尾に終わった。19世紀後半以降、スペインの国力が衰えている時期にイギリスは国境を北へ押し上げる行動に出た。最終的にこれはスペイン本土との間に非武装中立地帯を設けることで落ち着いたが、ここの境界線の画定は今も棚上げされた状態である。 1954年2月、イギリスの植民地を歴訪していたエリザベス2世がスペインの抗議にも関わらず最後の訪問地としてジブラルタルに入ると、スペイン各地で抗議運動が沸き起こった。スペインは翌1955年に国連加盟を果たし、さっそくジブラルタル問題を国際世論に訴えかけ、1957年にジブラルタル返還を求めて国連に提訴した。1960年代には運動を強化し、1964年に国連の非植民地化委員会へ返還要求を提出した。イギリスはこれに対し、イギリス統治の可否を問う住民投票を1967年に実施し、住民は 12138 対 44 という圧倒的大差でイギリスへの帰属を選択した。この投票はスペインの態度を決定的に硬化させ、1969年にスペインは国境を封鎖して物流とスペイン人の通勤を差し止めるという、ジブラルタルに対する経済封鎖に踏み切った。これによってジブラルタルは陸の孤島と化し、往来はモロッコ経由かロンドンからの航空便に頼るしかなくなった。1982年にスペインに社会労働党政権が発足すると、徒歩での往来が許可されるなど封鎖は部分的に解かれ、両国間の交渉再開が宣言された。1985年には封鎖は完全に解除された。 2002年には共同主権の検討がなされた。これに対し、地元の二大政党である保守政党のジブラルタル社会民主党(英語版)および革新政党のジブラルタル社会主義労働党(英語版)は、共にスペインに対する主権の譲渡に強硬な反対を行い、住民投票においても90%以上が反対の意思を示したため、この構想は実現しなかった。これ以降、帰属に関する交渉はイギリス、スペインにジブラルタル自治政府を加えた三者間会議に移り、2006年9月に初の会議が開かれた。ジブラルタル自治政府はその3か月後、自治権拡大を意図した新憲法草案を住民投票にかけ、可決させた。 2016年のイギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票において、ジブラルタルでは残留支持票が95.9%に達していたが、全国集計では離脱支持票が上回り、EU離脱が決定した。スペイン側は、ジブラルタルの共同主権での統治を経た後のスペイン返還を投票翌日に提案したが、英政府とジブラルタルのピカード主席閣僚は対決姿勢を鮮明にした声明を発表している。 ジブラルタルの独立を求める声もある。特にジブラルタルの元首相でもある、ジブラルタル社会主義労働党のジョー・ボサノ(英語版)党首はEUの後援の元での、独立を求めていた。 なお、2018年12月4日には、スペイン海軍の艦船がジブラルタルの領海に無断で侵入し、スペインの国歌『国王行進曲』を大音量で流す事件が発生した。
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帰属問題
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「アビエイ」を参照 第二次スーダン内戦の包括和平協定(英語版)(CPA)におけるアビエイ紛争の解決の取り決めでは、1905年にコルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とする地域をアビエイ地域と定め、その帰属はアビエイ地域の住民の住民投票により決定されるとした。しかし、どこまでをアビエイ地域の住民と定義するかで南北スーダンの主張に相違があり、現在もまだ住民投票が行われていないため、アビエイ地域がどちらに帰属するか決定されていない。
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帰属問題
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「アビエイ」を参照 第二次スーダン内戦の包括和平協定(英語版)(CPA)におけるアビエイ紛争の解決の取り決めでは、1905年にコルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とする地域をアビエイ地域と定め、その帰属はアビエイ地域の住民の住民投票により決定されるとした。しかし、どこまでをアビエイ地域の住民と定義するかで南北スーダンの主張に相違があり、現在もまだ住民投票が行われていないため、アビエイ地域がどちらに帰属するか決定されていない。
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帰属問題
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「ハラーイブ・トライアングル」の記事における「帰属問題」の解説
1990年代まではハラーイブ・トライアングルは実質的に両国の共同管理状態に置かれていた。 1992年、スーダン政府がハラーイブ・トライアングルの海域で油田を探索する権利をカナダの企業に与え、エジプトがそれに抗議した。エジプトとスーダンの間でこの問題についての交渉が始まったが、カナダの企業はこの地域の主権が確定するまで撤退することとした。 エジプトのムバラク大統領(当時)は「自らの暗殺未遂事件にスーダンが関与した」と主張して1995年、軍部隊を派遣してハラーイブを支配下に置いた。両国の武力衝突も起きたが、2000年1月にスーダンはこの地域から軍を撤退させた。これ以降、ハラーイブ・トライアングルはエジプト軍が占領・管理している。 2004年、スーダンのバシール大統領は、ハラーイブ・トライアングルが依然としてスーダンに属する領土であると言明した。2009年10月、スーダンの選挙管理委員会は、2010年4月の総選挙を前にハラーイブ・トライアングルが紅海州(スーダン)に属する一選挙区であるとし、住民に選挙人登録を行ってスーダン憲法の認める権利を行使するよう呼びかけた。しかし、スーダンの選挙管理委員会が派遣した要員はエジプト当局によって入境を拒否されたため、ハラーイブ・トライアングルでの選挙人登録は行われなかった。2009年12月には、スーダンの大統領補佐官 Musa Mohamed Ahmed が入境を拒否されている。 エジプト政府は、ハラーイブ・トライアングルの北に接するアル・シャラテーンに設置していた国境交易センターを閉鎖し、これを北緯22度線上の入国管理所の近くに移転する措置をとった。移転された交易センターは拡張され、取引を扱う人員も増強された。このため、スーダンからエジプトへ商品を運び込む場合、かつてのようにアル・シャラテーンで荷を降ろすことは許されなくなった。ハラーイブの南東にあるハダルバが「国境」交易ポイントとなることでエジプトによる地域の実効支配が強化されている。 2009年、エジプトの電力当局は、アル・シャラテーンで現在使われている発電機に替え、エジプトの幹線電力網からの支線を延ばす工事を行っている。この電線は、アブー・ラマドやハラーイブにも延伸される予定となっている。 エジプトのシシ政権は2016年、この地域に18の金鉱山があると発表。2017年7月には紅海沿岸で港の建設も始めた。これに対してスーダン政府は交渉を要求し、エジプトが拒否する場合は国際司法裁判所への提訴や、スーダンが上流を領有するナイル川の流水制限といった措置をとる方針を示唆している。 なお、西隣のビル・タウィールは、ハライブを自国領とする国境線を採用すると国境外になる地域であるため、両国とも領有権を否認。第三国も含めていずれの国も領有権を主張していない無主地となっている。
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帰属問題
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ロシアがサハリン州に定めている地域の内、クリル列島(千島列島)及び南サハリンは、サハリン州成立後は全域にロシア人の入植が進み完全にロシア化されているが、公式には帰属未定地となっているため、厳密には主権不明、すなわちどの国の領土にも属していないことになっている。この帰属未定地に該当する地域には、日本が北方領土として返還を主張している択捉島、国後島、歯舞群島、ならびに色丹島も含まれている。このため、国際社会に於いては多くの国がサハリン州にあたる地域の帰属は不明で、ロシア領であることを認めていない。特にアメリカや中国はサハリン州の存在を認めておらず、北方領土は日本領であるとの立場をとっている。 「北方領土問題」も参照
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帰属問題
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「グレートオーストラリア湾」の記事における「帰属問題」の解説
国際水路機関の定義によれば、グレートオーストラリア湾はインド洋の一部であるとされる。しかしオーストラリアでは、グレートオーストラリア湾はインド洋ではなく南氷洋に含まれる、とする意見が一般的であり、国際水路機関に対し定義そのものを変更するよう要求している。
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帰属問題
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中央防波堤埋立地は、東京都が東京湾の沿岸5区(港区、江東区、品川区、大田区、中央区)の了承のもとで埋め立てを行ったものであるが、公有水面埋立法申請(申請者は東京都)の際「埋立ての場所」を「東京都江東区有明二丁目地先」として申請し、竣工許可に当たっては「東京都江東区青海二丁目地先」として届け出た。ただし、5区が交わした「中央防波堤内側埋立地における事務処理に関する覚書」および「中央防波堤外側埋立地における事務処理に関する覚書」では、以下の取り決めがなされた。 両埋め立て地における特別区の処理すべき事務は暫定的に江東区において処理する。 この措置は埋立地の帰属決定までの暫定措置として行うものであり、今後の帰属決定問題には何ら影響を及ぼすものではない。 その後中央防波堤内側埋立地第2工区が竣工し、改めて両埋立地の帰属を協議することになったが、2002年(平成14年)12月15日に中央区・港区・品川区が帰属主張を取り下げたことにより、江東区と大田区の間で帰属の協議を継続することになった。 この問題はその後も長年膠着状態が続いたが、2020年東京オリンピック・パラリンピックの競技会場としてカヌー(スプリント)、ボートなどで使用される「海の森水上競技場」と馬術などが行われる「海の森クロスカントリーコース」が、整備されることになり、2014年(平成26年)4月25日に、大田区と江東区が解決に向けた協議を正式に開始し、事務レベルでの協議を本格化させた。 帰属権の根拠として、大田区は、海苔養殖のために漁業協同組合に割り当てられた漁業権の大半が、大田区内の組合が保持していたことを挙げ、江東区は、区が東京ゴミ戦争の抜本的解決のために、区外からのゴミ処理に際し相当な負担を行ってきたこととを挙げている。 両区の間での協議は最終的に決裂。2017年(平成29年)7月18日付でそれぞれ東京都に対し、地方自治法第9条第1項の規定に基づく自治紛争処理委員による調停を申請した。都は弁護士の泉徳治、明治大学公共政策大学院教授の木村俊介、弁護士の佐瀬正俊を自治紛争処理委員に指名。3者は7回の会議を経て、10月16日に江東区に86.2%(内側埋立地の全てと外側埋立地の東側約4分の3)、大田区に13.8%(外側埋立地の西側約4分の1)を帰属させる調停案を示し、受け入れるよう勧告した。その主な根拠は以下のようなものであった。 1996年(平成8年)に大阪高等裁判所が公有水面のみに係る市町村の境界を定める基準を示した「平成7(行コ)30事件」の判例を踏まえ、両区間の海岸線からの「等距離線」で区分される地積が境界画定の重要な地位と考えられ、等距離線で区切った場合の地積が江東区側449.2ha(89.3%)、大田区側54ha(10.7%)であること。 内側埋立地が第二航路トンネルを介して江東区青海と、外側埋立地西側が臨海トンネルにより大田区城南島と、東側が東京ゲートブリッジを介して江東区若洲とそれぞれ結ばれていること。 埋立地のライフライン(電気・水道・ガス)が江東区側から供給されていること 「同一用途同一自治体」の原則に基づき、同一地目内で境界線を設けなかったこと この調停案に対し、江東区は受け入れを表明したものの、分割割合の小さい大田区はこの調停案に反発。10月29日に開かれた大田区議会(臨時会)で調停案受け入れ拒否を全会一致で可決。翌10月30日付で大田区が江東区を相手に、境界の確定を求めて東京地方裁判所に提訴した。 この裁判は2019年(令和元年)9月20日に判決が下され、東京地方裁判所は中央防波堤の利用状況などから、港湾関係用地を大田区に帰属させるのが妥当との判断のもと、当初の調停案より大田区側に有利となる「江東区79.3%、大田区20.7%」の帰属割合とする判決を言い渡した。具体的には内側埋立地はすべて江東区の帰属とし、外側埋立地西側については、東京港臨港道路の中央線を境界とし、北側を江東区、南側を大田区とし、外側埋立地東側はすべて江東区の帰属とする内容であった。 地裁判決に対し、江東区は9月26日に、大田区は10月3日に、ともに判決内容に不服な部分はあるとしつつも受け入れを表明した。これにより、中央防波堤埋立地の帰属問題は決着することになった。 決着後、それぞれに編入される土地のうち、江東区側では内側埋立地側に2020年(令和2年)4月1日付で海の森の町名を新設、6月25日付で住居表示が実施された。また、大田区側も同年3月5日に新町名案として令和島を選定し、6月1日付で町名の新設および住居表示が実施された。この他、江東区に帰属する土地のうち、外側埋立地にかかる部分に関しては埋立工事が一部未竣工との理由から同年4月1日時点での町名設定はなされていない。暫定的に、江東区帰属部分の外側埋立地については、海の森三丁目地先と住所表示がされている。 なお、外側埋立地に隣接する新海面処分場については埋立中であり、帰属は未確定のままである。
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帰属問題
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ビル・タウィールの帰属は、ハラーイブ・トライアングルの帰属問題と不可分に結びついている。 エジプトとスーダンの国境線について、エジプト政府は1899年の境界線を主張し、スーダン政府は1902年の境界線を主張している。ハラーイブ・トライアングルを自国領とする境界線を採用すると、ビル・タウィールは自国領に含まれない。ビル・タウィールはハラーイブ・トライアングルのわずか10分の1の面積であり、ハラーイブ・トライアングルと比較して重要な土地でないと考えられていることから、両国ともハラーイブ・トライアングルを自国領とする境界線を主張し、その結果、ビル・タウィールの領有権は両国とも否認する形となっている。 また、ビル・タウィールには、エジプトかスーダンを通ってしかアクセスできないため、第三国がビル・タウィールを自国領土と宣言することは難しい。このため、ビル・タウィールは「いずれの国家によっても領土と主張されていない」地球上で稀な土地の一つとなっている。 この地の領有を主張してミクロネーションの「建国」を宣言する民間人は幾人か存在している。2014年にはアメリカ人のジェレマイア・ヒートンが現地に赴いてミクロネーション「北スーダン王国」の建国を宣言した 。これらの領有宣言を承認する国家はない。
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