帰属の歴史とは? わかりやすく解説

帰属の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 03:09 UTC 版)

樺太」の記事における「帰属の歴史」の解説

幕末以来日本とロシアの間で領有者が度々変遷した。 1855年 - 日露和親条約締結され樺太は「界を分たす 是まて仕来の通たるへし」と、国境決定できなかった。それまで樺太ロシア人はいなかったが、これ以降樺太北部からロシア人入植開始。。 1867年 - 樺太雑居条約締結され樺太全土日露雑居地とされた。後に日本の統治が及ぶ樺太南部へもロシア人入植激化1875年明治8年) - 樺太・千島交換条約により、樺太全島ロシアとなった1904年明治37年2月8日 - 日露戦争勃発した1905年明治38年6月 - アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト講和勧告日露両国受諾表明するとともに日本同大統領意見を受け樺太作戦決定した7月7日 - 樺太侵攻30日までに樺太全島占領した9月5日 - ポーツマス条約調印され北緯50以南樺太日本領に復帰した1907年明治40年) - 日本樺太樺太庁設置1942年昭和17年) - 「内地行政」への編入行った1945年昭和20年8月9日 - それまで参戦していなかったソビエト連邦一方的に日ソ中立条約破棄対日宣戦布告し南樺太侵攻樺太の戦い)。 8月14日 - 日本正式にポツダム宣言受諾し降伏8月15日 - 終戦記念日局地戦除き停戦9月2日 - 日本降伏文書調印ダグラス・マッカーサー一般命令第一号発令し樺太ソ連占領地とすることを命じた1946年昭和21年1月29日 - GHQ指令SCAPIN-677日本政府通達され日本の行政停止される2月2日 - ソ連南樺太千島列島南サハリン州とし、一方的にこれをロシア共和国ハバロフスク地方編入する宣言した1952年昭和27年) - サンフランシスコ講和(平和)条約発効。同条約では南西諸島小笠原諸島同様に樺太放棄明記されたが、引渡先の記載はない。また、ソビエト連邦ソ連崩壊後継承国家ロシア連邦)も同条約への署名批准拒否している。以降日ロ両国間において今なお平和条約締結されておらず、このため国際法上日ロ国境が未画定のままとなっている。その後南樺太帰属に対して日本とロシア見解差異がある。 ソビエト連邦崩壊後、それを継承したロシア連邦いまなお南樺太全体実効支配している。

※この「帰属の歴史」の解説は、「樺太」の解説の一部です。
「帰属の歴史」を含む「樺太」の記事については、「樺太」の概要を参照ください。

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