帰属にまつわる逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 09:15 UTC 版)
「フランツ・リスト」の記事における「帰属にまつわる逸話」の解説
父アーダムが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。ハンガリー語がほとんど話せないことを後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごしたハンガリーを祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。「ハンガリー狂詩曲」は、ロマによって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけた。ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人 (Magyarmania) には耐え難い混同であり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。 後にハンガリー民謡の収集を行い、その特徴を分析したバルトークは後のリスト音楽院であるブダペシュト王立音楽院で音楽を学んでいる。ピアニストとしてもリストの弟子であるトマーン・イシュトヴァーン(英語版)から直々に教えを受けており、本人もリストの楽曲で幾つかの録音を残している。作曲家としても影響を受けており、最初期の作品である『ピアノのためのラプソディー 作品1』では、リストの影響を垣間見る事が出来る。その彼はリストの編曲作品について、自著『ハンガリー民謡』(1920年)で「曲の構造を理解していない歪曲がされたハンガリー民謡」だとしてこれを厳しく批判しているが、作曲家としてのリストについては、数々の音楽論集や『リストに関する諸問題』(1936年)の中では、それまでの作曲家になかったほど、宗教的音楽から民謡など多様で異質な種々さまざまの影響を受け入れて自身の作品を作り上げていった点、晩年の諸作品がクロード・ドビュッシーらの作品と驚くほど似通っていることの先進性などを取り上げ、欠点があるとしても、音楽の発展への貢献ということであればリストはワーグナーより重要視されるべきだと、むしろその音楽を擁護する立場をとっている。 今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。リストの名を冠した音楽院はブダペストとワイマールの両方に存在する。生地が現在帰属するオーストリアでは、リストがウィーン楽壇と縁が薄かったこともあり、ハンガリー・ドイツ両国に比べると自国の音楽家という意識はやや薄いようである。
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