帰属の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:51 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ自治州」の記事における「帰属の決定」の解説
事態の複雑化を受け、同年7月4日のカフカース局でナゴルノ・カラバフ帰属決定のための総会が開かれた。そしてこの総会ではオルジョニキゼ、キーロフ、アレクサンドル・ミャスニコフ、ユーリー・フィガトネルによる賛成4票、ナリマノフ、フィリップ・マハラゼ、アマヤク・ナザレチャンによる反対3票の結果、ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの帰属が決定された。しかしナリマノフはこれを不服とし、ロシア党中央委で再び問題を審議するよう要求した。そして、先の7人に加えスターリンとマミヤ・オラヘラシュヴィリが出席した翌5日の会議において、前日になされたアルメニア帰属決定は採決のないままに覆された(この逆転決定には、スターリンの意向が強く働いていたとされる)。 ムスリムとアルメニア人の友好および上下カラバフの経済的つながり、アゼルバイジャンとの恒久的関係にかんがみ、山岳カラバフは自治区の一部であるシュシャ(ロシア語版)に行政的中心を置く広範な地域的自治を付与して、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部とすること — 決議文の一節 この会議ではアルメニアへの帰属にマハラゼとオラヘラシュヴィリが反対し、ナリマノフもアゼルバイジャン人民委員会議の総辞職を盾にして強硬な態度を取った。アルメニア代表としてこの会議に出席したミャスニコフは、ナリマノフが「アルメニアがカラバフを取るならば、もはやアゼルバイジャンは石油を供給しない」と恫喝した、と語っている(ナリマノフは自治権の付与自体にも反対した)。また、マハラゼやオラヘラシュヴィリなどグルジア人の代表がアルメニア帰属へ反対したのは、当時人口の94パーセントをアルメニア人が占めていたナゴルノ・カラバフをアルメニアへ編入することが許されれば、同じく人口の72パーセントをアルメニア人が占めるグルジア南部のアハルカラキもアルメニアのものとされる危険があったためであるという。 他方、ナゴルノ・カラバフとともに帰属が争われていた地方については、ザンゲズルは同時期にガレギン・ヌジュデ(英語版)率いるダシュナクの残党による二月蜂起(英語版)のために、現地のアゼルバイジャン人は完全に駆逐されており、ナヒチェヴァンは3月にロシアとトルコ大国民議会政府(英語版)の間で締結されたモスクワ条約によって、アゼルバイジャンに統治されることが取り決められていた。このような帰属分けは、ボリシェヴィキによる分割統治の表れであると指摘される。その後、カラバフはアルメニア人への自治権が認められたナゴルノ・カラバフと、単純にアゼルバイジャンの一部としての平地カラバフ(ロシア語版)、そしてクルド人が多く住む西部のクルディスタン郡(ロシア語版)へと分割された。 1923年7月7日、アゼルバイジャン共和国中執委は最高幹部会名でナゴルノ・カラバフ自治州の創設を布告した。自治州の主都は当初定められていたシュシャからハンケンディへと移転され、さらにハンケンディはアルメニア人ボリシェヴィキのステパン・シャウミャンに因んで「ステパナケルト」と改称された。1924年11月26日に基本法典がアルメニア語、アゼルバイジャン語、ロシア語で発布され、ナゴルノ・カラバフ自治州は行政体として完成した。
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