帰属争い
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「ナゴルノ・カラバフ自治州」の記事における「帰属争い」の解説
アルメニア人によるナゴルノ・カラバフ編入要求が高まるなか、2月24日には親アゼルバイジャン派として知られていた共産党自治州委員会第一書記のボリス・ケヴォルコフ (ru) が解任され、後任に自治州のアルメニア編入賛成派であるゲンリフ・ポゴシャン (en) が就任した。アルメニア共産党(英語版)第一書記のカレン・デミルチャン(英語版)もナゴルノ・カラバフのアルメニア編入支持を公言するようになり、アルメニア指導部は3月19日、帰属問題を国際司法裁判所へ提訴すると決定した。しかし、同月23日に連邦最高会議幹部会はアルメニア人の要求を却下し、5月21日にはデミルチャンとキャムラン・バギロフ(英語版)の両国共産党第一書記が更迭された。同月には自治州を自治共和国へ昇格させようとする試みも行き詰まった。 ここに至って6月15日、アルメニア最高会議 (hy) はナゴルノ・カラバフを自国へ帰属させる決議を一方的に通過させた。2日後にアゼルバイジャン最高会議 (ru) はナゴルノ・カラバフの移管を否認する対抗決議を通過させた。すると7月12日に自治州政府はまたもアゼルバイジャンからの一方的な離脱を宣言し、州名を「アルツァフ・アルメニア人自治州」へ改称すると決定した。そしてアゼルバイジャン最高会議も即日、この決定を無効であると決定した。「法の戦争」と呼ばれたこの争いにゴルバチョフは怒りを表し、翌18日の連邦最高会議幹部会ではアルメニア側の主張をすべて退ける決定が下された。その後、中央から派遣された全権のアルカジー・ヴォリスキーが現地で積極的に調停を行ったことにより、情勢は小康状態となった。 しかし、死者を伴う衝突はその後も続き、9月にはステパナケルトからアゼルバイジャン人が、シュシャからアルメニア人がそれぞれ追放された。モスクワは同月21日、ステパナケルトとアグダム地区に非常事態宣言と夜間外出禁止令を発し、内務省軍(ロシア語版)と正規軍が現地へ投入された。11月25日には党自治州委員会がアゼルバイジャン共産党からの離脱と中央直轄の要請を決議し、公然とアゼルバイジャンからの離反を宣言した。 翌1989年1月12日、連邦最高会議幹部会は ヴォリスキーを長としてその他4人のロシア人と2人のアルメニア人、1人のアゼルバイジャン人による「特別管理委員会」(hy) を自治州に設置。これにより自治州はアゼルバイジャンの統治下からモスクワの直轄へと移されたが、同時に最高会議幹部会は、自治州が法的にはアゼルバイジャン領であり続けるとの声明を発表している。 しかし、7月には自治州外シャウミャノフスク地区で、アルメニア人の要求により党地区委員会が地区の自治州への編入を決議。アゼルバイジャン側はこれを否認したが、8月16日には自治州のアルメニア人会議がまたしてもアゼルバイジャンからの離脱宣言を発した。アゼルバイジャン側はこれについても無効決定をし、秋にはさらにアゼルバイジャン側がカラバフの鉄道を封鎖して資源の供給を遮断した。特別管理委員会への幻滅から、8月16日に自治州のアルメニア人指導層は78人体制の「民族評議会」(hy) を設置。アゼルバイジャン最高会議幹部会はこれを違法としたが、民族評議会は以降も自治州の実質的権力機関となっていった。 事態が悪化の一途をたどるなか、11月28日に連邦最高会議は「ナゴルノ・カラバフ自治州の状況安定化について」の決定を採択し、アゼルバイジャンに対して自治州の待遇是正を求めるとともに、自治州をモスクワからアゼルバイジャンの統治下へ戻すことを決議した。しかし、自治州とアルメニアからの代表はこの決定をボイコットした。翌29日、党自治州委員会は党組織のアルメニア共産党への編入要請を決議。さらに12月1日には、アルメニア最高会議と自治州民族評議会がまたも自治州のアルメニア編入を決議し、民族評議会が自治州外シャウミャノフスク地区およびハンラル地区(アゼルバイジャン語版)ゲタシェン(英語版)のアルメニア人利益も代表することを謳った。6日にアゼルバイジャン最高会議幹部会はこれを否決したが、翌1990年1月9日にはアルメニア最高会議が自治州の編入決議を繰り返した。そして、1月10日にゴルバチョフはこれを否認した。
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