人物情報と消息とは? わかりやすく解説

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人物情報と消息

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 01:57 UTC 版)

古川了子」の記事における「人物情報と消息」の解説

1955年昭和30年1月1日生まれ中学時代水泳部所属し千葉商業高等学校では卓球部部長であった書写大会で入選したことがあり、簿記珠算和文タイプなどの資格持っていた。特技は、左右同じように文字書けること。三井造船千葉事業所経理部新入社員で、7月もらった初めてのボーナス手つかずのまま失踪した身長157センチメートルくらいであった失踪した1973年昭和48年7月7日は、午前中に美容院行き午後からは母親浴衣を買いに出かける予定であった。朝早く家を出て美容院に「今日美容院キャンセルしたい出かけるところができた。母親にも浴衣を買いに行けなくなった伝えて下さい」と告げたという。母親美容院からの電話で、友達にでも会うことになったのだろうとあまり気にとめなかったが、それから消息不明になってしまった。預金通帳自宅置いたままで、携帯したのはいつも持って歩くポーチ1つだけであり、ポーチ財布ハンカチ程度しか入らない、ごく小さなものであったその後自宅にも勤務先にも全く連絡がなく、中学高校の友人失踪動機や行先に心あたりはなかった。 彼女については、元北朝鮮工作員安明進が、1991年9月頃、平壌市龍城区所在する朝鮮労働党作戦部所属915病院に腕の骨折入院していたとき、外出する途中夕方915病院敷地内遭遇した詳細な証言をしている。安によれば大学用事があることを思い出して裏山越えようとしたところを30代半ばくらいの「顔の真っ白な女性」と鉢合わせしてしまった。裏山越えて病院抜け出すのは規則違反なので、その女性に「試験準備のために急いでます。どうか、届け出はしないください」と懇願したところ、彼女は笑いながら頷き外国人病棟の方へ立ち去ったという。その後、安は「外国人病棟にいる顔のとても白い、158センチくらいの女性誰か」と看護婦にたずねると、その患者日本人で、胃の病気入院している、自分化粧品使われるからと病室看護婦入れたがらないし、食べ物好き嫌い多くて病気治りがわるい旨を答えた後日、安は再び、その女性が外国人病棟の前で日向ぼっこをするのをみたという。この女性こそ古川了子間違いないと安は言う。 安は、2002年平成14年12月韓国ソウル古川了子の姉と面会したが、写真以上に姉の容貌似ており、915病院会った女性古川了子である確信をますます深めたという。 高校時代同期生たちは、2003年平成15年1月25日古川了子さんを救う会」を結成した特定失踪者問題調査会2004年平成16年1月29日千葉県警察告発状提出している。 2005年平成17年3月22日、「古川了子さんを北朝鮮による拉致被害者として認定し一日早く救出してください」との要請署名(計148,123名)が政府届けられた。同年4月13日特定失踪者問題調査会日本国政府対し拉致認定求めて東京地方裁判所提訴した。なお、2010年平成22年)、古川了子母親による自分史歩み来し道』が自費出版された。

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人物情報と消息

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 09:07 UTC 版)

大屋敷正行」の記事における「人物情報と消息」の解説

1952年昭和27年1月25日生まれ失踪当時東京都江戸川区住んでおり、東京都立江東商業高等学校2年生、まだ16歳だった。身長165168センチメートルくらいでやせ型大屋敷の姉によれば父親タンクローリー運転手だったという。 1969年7月27日友人たち4〜5人と静岡県沼津市大瀬崎海岸オートバイ海水浴行き宿泊したバンガローから夜中トイレに行くと言って外に出たまま消息不明となった枕元には腕時計財布免許証などを置いたままだった。 1999年韓国亡命した北朝鮮の元国家安全保衛部指導員革は、1977年昭和52年)、57軍校の泰川軍官学校挨拶をかわし、さらに、6人部屋で3か月間、起居をともにしたことがあると証言している。によれば、彼は日本国内大きな旅館4日間宿泊した後、自動車港湾まで移動し、船に乗せられ北朝鮮連行されたと語っていたという。また、大屋敷優しい人間で、革が高熱伏せっていたとき、どこからか鶏肉盗んで革の食器入れて持ってきてくれたことがあったという。見つかった処罰対象になっていたと考えられるので、からすれば一生忘れられない人物だという。また、鉄棒卓球などのスポーツが得意で、足が速く軍事的知識比較的豊富で、体の上半身ヤケドの痕のような傷があり、愛煙家だったという証言があり、当時階級少尉であったその後1984年くらいまで57軍校におり、翻訳仕事もしていたようである。その後は、咸鏡南道咸興市の「咸興分院という名の化学兵器研究所勤務し1988年前後朝鮮労働党高官の娘で咸興市外国語大学教員結婚1989年頃には娘が生まれたという。2019年現在潜水艦基地として知られる咸鏡南道新浦市沖の馬養島で軍事機密情報接しているという情報がある。 2004年平成16年1月29日特定失踪者問題調査会警視庁対し告発状提出した

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人物情報と消息

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 09:03 UTC 版)

加藤久美子 (拉致被害者)」の記事における「人物情報と消息」の解説

1948年昭和23年1月1日福岡県北九州市八幡区(現、八幡東区山王町生まれた北九州市立大蔵中学校卒業後、私立北九州女子高等学校(現在は廃校)に進み高校時代生徒会役員務めるなど活発な女性であったという。1966年高校卒業後は、八幡食糧協同組合知人喫茶店勤務経て失踪当時小倉区(現、小倉北区)の商品先物取引会社である山佐商事総務部勤務していた。速記ペン習字編み物など多岐にわたって資格取得のための活動積極的におこなっていた女性である。 1970年8月8日朝、通勤のため妹と一緒に福岡県北九州市八幡区自宅出て10分くらい離れた路面電車電停(現在は廃止されている西日本鉄道北九州線大蔵電停)で妹と別れそれ以来行方不明となっている。失踪当時22歳会社員で、身長155センチメートル体重47キログラムであったいつも通り服装で、小倉勤務先山佐商事)へ向かった思われる。特に悩んでいたようすもなく、心中自殺家出などの動機などは認められず、週末編み物先生茶会出かけるので着物出しておいてほしいと母親話していた。 彼女の失踪後身元不明死体等について、家族警察から連絡受けて見にいったこともあったが、何の情報得られず、事故可能性も低い。本人電話交換手資格持っており、首の後ろに8ミリメートルほどの水疱瘡の痕がのこっている。 彼女については、2003年平成15年2月10日特定失踪者問題調査会特定失踪者リスト2次発表公開され、その写真をみた元北朝鮮工作員安明進工作員養成機関である金正日政治軍事大学在学中大学構内横田めぐみらと一緒にいたところを何度も目撃した証言した目撃したのは1988年昭和63年)から1990年平成2年)にかけての時期である。それによれば身長150155センチメートルで髪はパーマ年齢40歳代前半既婚者のようにみえたという。横田めぐみ同様、彼女も日本語教官で、安が見かけ日本人女性教官では最年長であった同僚からは「アジュンマ(おばさん)」と呼ばれており、グループまとめ役明朗な性格のようにみえた。 2004年平成16年1月29日特定失踪者問題調査会福岡県警察八幡東警察署告発状提出した2004年平成16年5月22日フランス在住加藤久美子の弟が「今回小泉総理訪朝で、蓮池さん、地村さん家族帰国されることを心からお喜び申し上げます。しかし横田めぐみさんなど安否未確認10人の方々同様、姉久美子情報が全く得られなかったことは本当に残念です。(中略両親高齢病身にあり、時間はあまりありません。どうか救う会調査会国民マスコミ皆様ご協力お力添えをよろしく御願い申し上げます。」とのメッセージを「救う会」あてに寄せている。 2005年平成17年7月28日衆議院の「北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会」において安明進西岡力参考人として意見陳述したが、この場において安明進は、金正日政治軍事大学目撃した日本人としては、横田めぐみ市川修一増元るみ子蓮池薫田中実朝鮮語へただった北海道出身拉致被害男性加藤久美子がおり、この7名のほか男性教官2人女性教官2人合計11人を見た証言した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 09:04 UTC 版)

斉藤裕 (拉致被害者)」の記事における「人物情報と消息」の解説

1950年昭和25年9月17日北海道生まれ1968年12月1日7時頃、約4キロメートル離れた友人宅を訪ねたものの本人が不在だったので、「また来る」と友人の家族告げて浜の方へ下りていったまま消息不明となっている。工業高校機械科3年生で、翌年4月から大阪企業就職内定していた。失踪当時身長は160センチメートル小柄やせ型左右いずれかの腕に火傷痕、また盲腸の手術痕があったという。 1999年韓国亡命した北朝鮮の元国家安全保衛部指導員革は、1978年昭和53年5月頃、57軍校で斉藤見かけており、そこで彼は「ヨンスン先生」と呼ばれ日本に関する講義行っていた。厳格な教師で、授業中に少しでも騒がし生徒がいるとすぐに怒って立たせたりしていたので、生徒からは嫌われ、陰で「チョッパリ呼ばわりされていた。自衛隊情報通じており、ことあるごとに自衛隊引き合い出していた。出退勤運転手付き車でそれなりに身分高く優遇されていた。 2000年韓国亡命した北朝鮮の元保衛部将校の「金国石」(仮名)は、2003年平成15年)、斉藤裕を北朝鮮目撃した証言した。それによれば、「金国石」は、斉藤裕が「(平壌郊外ある朝鮮人民軍偵察学校の)馬東熙大学士官服を着て日本語教えていた」ことを記憶しているという。2004年平成16年1月29日特定失踪者問題調査会北海道警察対し告発状提出した

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人物情報と消息

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 22:47 UTC 版)

佐々木悦子 (拉致被害者)」の記事における「人物情報と消息」の解説

1963年昭和38年12月6日埼玉県川口市生まれ川口市立岸川中学校川口市立川口女子高等学校卒業失踪当時年齢27歳で、身長162センチメートル体重52キログラム、左目の下泣きぼくろがあった。1986年昭和61年)に結婚失踪時結婚5年目だった。 1991年平成3年4月22日朝、「仕事へ行く」と言って嫁ぎ先埼玉県浦和市(現、さいたま市)の家を出たまま失踪当日休みのはずだったという。勤務先浦和埼玉銀行で、免許証パスポート社内預金には全く手が付けられていなかった。悦子の母、佐々木アイ子悦子失踪後テレビ番組出演して情報提供呼びかけるなど捜索活動おこなったアイ子によれば佐々木悦子は「しっかり者」で母の日父の日欠かさず贈り物をくれる親思いな娘であり、家族登山を楽しむことも多かったという。 1999年韓国亡命した北朝鮮国家安全保衛部指導員であった革は、1993年北朝鮮佐々木悦子目撃している。それによれば目撃したのは平壌直轄市東大院区域三馬洞に所在する5454部隊本庁舎2階通信局においてであった佐々木悦子はその一室働いており、当時独身だった革は、5454部隊語学参謀長から「頭の良い女性がいるから会ってみないか」と言われ部屋入った通常立入禁止であったが、特別の許可よるもので、語学参謀長は彼女を革に紹介することで上級幹部叔父に持つ革に取り入ろうしたもの考えられる革は一目佐々木悦子好意をもったというが、叔父反対にあい、交際結婚)を断念したという。 2004年平成16年1月29日特定失踪者問題調査会埼玉県警察対し告発状提出した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:40 UTC 版)

山本美保 (拉致被害者)」の記事における「人物情報と消息」の解説

1964年昭和39年3月3日山梨県甲府市生まれ父親山梨県警察警察官母親専業主婦の家に双子姉妹の姉として生まれ2歳年上の兄がいた。仲のよい双子姉妹は同じ高等学校通った成長するにつれ、積極的な美保対し双子の妹美砂は慎重派何かにつけ美保頼りにすることが多かったという。双子姉妹高校3年生だった秋、交通事故で兄を失った。美砂が山梨県内大学進学したのに対し美保家族のことなどにも配慮して合格していた東京都内大学進学断念して県内看護学校通った。しかし、自分選んだ進路への疑問感じており、改め大学への進学決意して受験勉強取りかかった1984年昭和59年6月4日午前10時、「図書館に行く」と言って自宅をあとにし、オートバイで出かけたまま行不明となった6月6日国鉄(現、JR東日本甲府駅前に美保乗っていたオートバイ置かれているのが発見された。失踪から4日後の6月8日新潟県柏崎市荒浜海岸で彼女の所持していたセカンドバッグ拾得したとの連絡入った6月9日家族新潟県警察美保捜索願を提出した警察官であった父の光男は、全国身元不明遺体のなかに娘がいないかどうかくまなく調べたが、6月から7月にかけての遺体美保らしい人物はおらず家族ひとまず安堵した山本美保が失踪して半年後の1984年11月6日からは無言電話1989年平成元年)夏頃まで、約4年続いた無言電話はほとんど数秒で切れるものだったが、失踪から3年4ヶ月後と3年6カ月後の2回の電話10分から15分ほど続いており、電話の主が耳をすまして家族様子をうかがうような様子もみられた。3年6カ月後の電話ではすすり泣くような声も確認されている。 一方、父の光男は身元不明遺体注意しており、少しでも山本美保の可能性がある遺体発見される警察連絡入っていた。1986年昭和61年12月には富山県警察1988年昭和63年11月には警視庁小松川警察署から不明遺体照合連絡入ったが、歯列靴のサイズ違いから別人断定された。 2002年平成14年9月17日日本小泉純一郎首相訪問して金正日国防委員長会談行い日朝平壌宣言発表したそのとき北朝鮮側はそれまで事実無根」と主張してきた拉致犯罪一転して正式に認め謝罪した9月23日、各テレビ局山本美失踪事件拉致可能性濃厚であるとして、全国ニュース報道した失踪事件真相究明する活動始まりこの年11月から翌2003年平成15年1月まで8筆の署名集めた。彼女の失踪から18年経過していた。

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