人物情報と消息
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1955年(昭和30年)1月1日生まれ。中学時代は水泳部に所属し、千葉商業高等学校では卓球部の部長であった。書写大会で入選したことがあり、簿記や珠算、和文タイプなどの資格を持っていた。特技は、左右同じように文字を書けること。三井造船千葉事業所経理部の新入社員で、7月にもらった初めてのボーナスは手つかずのまま失踪した。身長は157センチメートルくらいであった。 失踪した1973年(昭和48年)7月7日は、午前中に美容院へ行き、午後からは母親と浴衣を買いに出かける予定であった。朝早く家を出て、美容院に「今日の美容院はキャンセルしたい。出かけるところができた。母親にも浴衣を買いに行けなくなったと伝えて下さい」と告げたという。母親は美容院からの電話で、友達にでも会うことになったのだろうとあまり気にとめなかったが、それから消息不明になってしまった。預金通帳は自宅に置いたままで、携帯したのはいつも持って歩くポーチ1つだけであり、ポーチは財布とハンカチ程度しか入らない、ごく小さなものであった。その後、自宅にも勤務先にも全く連絡がなく、中学や高校の友人も失踪の動機や行き先に心あたりはなかった。 彼女については、元北朝鮮工作員の安明進が、1991年の9月頃、平壌市龍城区に所在する朝鮮労働党作戦部所属の915病院に腕の骨折で入院していたとき、外出する途中の夕方、915病院敷地内で遭遇したと詳細な証言をしている。安によれば、大学に用事があることを思い出して裏山を越えようとしたところを30代半ばくらいの「顔の真っ白な女性」と鉢合わせしてしまった。裏山を越えて病院を抜け出すのは規則違反なので、その女性に「試験の準備のために急いでいます。どうか、届け出はしないでください」と懇願したところ、彼女は笑いながら頷き、外国人病棟の方へ立ち去ったという。その後、安は「外国人病棟にいる顔のとても白い、158センチくらいの女性は誰か」と看護婦にたずねると、その患者は日本人で、胃の病気で入院している、自分の化粧品を使われるからと病室に看護婦を入れたがらないし、食べ物の好き嫌いも多くて病気の治りがわるい旨を答えた。後日、安は再び、その女性が外国人病棟の前で日向ぼっこをするのをみたという。この女性こそ古川了子に間違いないと安は言う。 安は、2002年(平成14年)12月に韓国のソウルで古川了子の姉と面会したが、写真以上に姉の容貌に似ており、915病院で会った女性が古川了子である確信をますます深めたという。 高校時代の同期生たちは、2003年(平成15年)1月25日「古川了子さんを救う会」を結成した。特定失踪者問題調査会は2004年(平成16年)1月29日、千葉県警察に告発状を提出している。 2005年(平成17年)3月22日、「古川了子さんを北朝鮮による拉致被害者として認定し、一日も早く救出してください」との要請署名(計14万8,123名)が政府に届けられた。同年4月13日、特定失踪者問題調査会は日本国政府に対し、拉致認定を求めて東京地方裁判所に提訴した。なお、2010年(平成22年)、古川了子の母親による自分史『歩み来し道』が自費出版された。
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1952年(昭和27年)1月25日生まれ。失踪当時は東京都江戸川区に住んでおり、東京都立江東商業高等学校の2年生、まだ16歳だった。身長は165〜168センチメートルくらいでやせ型。大屋敷の姉によれば、父親はタンクローリーの運転手だったという。 1969年7月27日、友人たち4〜5人と静岡県沼津市の大瀬崎海岸にオートバイで海水浴に行き、宿泊したバンガローから夜中にトイレに行くと言って外に出たまま消息不明となった。枕元には腕時計、財布、免許証などを置いたままだった。 1999年に韓国に亡命した北朝鮮の元国家安全保衛部指導員の権革は、1977年(昭和52年)、57軍校の泰川軍官学校で挨拶をかわし、さらに、6人部屋で3か月間、起居をともにしたことがあると証言している。権革によれば、彼は日本国内の大きな旅館に4日間宿泊した後、自動車で港湾まで移動し、船に乗せられて北朝鮮に連行されたと語っていたという。また、大屋敷は優しい人間で、権革が高熱で伏せっていたとき、どこからか鶏肉を盗んで権革の食器に入れて持ってきてくれたことがあったという。見つかったら処罰対象になっていたと考えられるので、権革からすれば一生忘れられない人物だという。また、鉄棒や卓球などのスポーツが得意で、足が速く、軍事的知識も比較的豊富で、体の上半身にヤケドの痕のような傷があり、愛煙家だったという証言があり、当時の階級は少尉であった。 その後、1984年くらいまで57軍校におり、翻訳の仕事もしていたようである。その後は、咸鏡南道咸興市の「咸興分院」という名の化学兵器研究所に勤務し、1988年前後に朝鮮労働党の高官の娘で咸興市の外国語大学教員と結婚、1989年頃には娘が生まれたという。2019年現在、潜水艦基地として知られる咸鏡南道新浦市沖の馬養島で軍事機密情報に接しているという情報がある。 2004年(平成16年)1月29日、特定失踪者問題調査会は警視庁に対し、告発状を提出した。
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「加藤久美子 (拉致被害者)」の記事における「人物情報と消息」の解説
1948年(昭和23年)1月1日、福岡県北九州市八幡区(現、八幡東区)山王町に生まれた。北九州市立大蔵中学校卒業後、私立の北九州女子高等学校(現在は廃校)に進み、高校時代は生徒会役員を務めるなど活発な女性であったという。1966年の高校卒業後は、八幡食糧協同組合、知人の喫茶店勤務を経て失踪当時は小倉区(現、小倉北区)の商品先物取引会社である山佐商事の総務部に勤務していた。速記やペン習字、編み物など多岐にわたって資格取得のための活動を積極的におこなっていた女性である。 1970年8月8日朝、通勤のため妹と一緒に福岡県北九州市八幡区の自宅を出て、10分くらい離れた路面電車の電停(現在は廃止されている西日本鉄道北九州線大蔵電停)で妹と別れ、それ以来行方不明となっている。失踪当時は22歳の会社員で、身長は155センチメートル、体重は47キログラムであった。いつも通りの服装で、小倉の勤務先(山佐商事)へ向かったと思われる。特に悩んでいたようすもなく、心中・自殺・家出などの動機などは認められず、週末に編み物の先生と茶会に出かけるので着物を出しておいてほしいと母親に話していた。 彼女の失踪後、身元不明の死体等について、家族が警察から連絡を受けて見にいったこともあったが、何の情報も得られず、事故の可能性も低い。本人は電話交換手の資格を持っており、首の後ろに8ミリメートルほどの水疱瘡の痕がのこっている。 彼女については、2003年(平成15年)2月10日、特定失踪者問題調査会特定失踪者リスト2次発表で公開され、その写真をみた元北朝鮮工作員の安明進が工作員養成機関である金正日政治軍事大学在学中に大学構内で横田めぐみらと一緒にいたところを何度も目撃したと証言した。目撃したのは1988年(昭和63年)から1990年(平成2年)にかけての時期である。それによれば、身長は150〜155センチメートルで髪はパーマ、年齢は40歳代前半で既婚者のようにみえたという。横田めぐみ同様、彼女も日本語教官で、安が見かけた日本人女性教官では最年長であった。同僚からは「アジュンマ(おばさん)」と呼ばれており、グループのまとめ役で明朗な性格のようにみえた。 2004年(平成16年)1月29日、特定失踪者問題調査会は福岡県警察八幡東警察署に告発状を提出した。 2004年(平成16年)5月22日、フランス在住の加藤久美子の弟が「今回の小泉総理訪朝で、蓮池さん、地村さんの家族が帰国されることを心からお喜び申し上げます。しかし横田めぐみさんなど安否未確認の10人の方々同様、姉久美子の情報が全く得られなかったことは本当に残念です。(中略) 両親も高齢で病身にあり、時間はあまりありません。どうか救う会、調査会、国民、マスコミの皆様のご協力とお力添えをよろしく御願い申し上げます。」とのメッセージを「救う会」あてに寄せている。 2005年(平成17年)7月28日、衆議院の「北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会」において安明進と西岡力が参考人として意見陳述したが、この場において安明進は、金正日政治軍事大学で目撃した日本人としては、横田めぐみ、市川修一、増元るみ子、蓮池薫、田中実、朝鮮語がへただった北海道出身の拉致被害男性、加藤久美子がおり、この7名のほか男性教官2人、女性教官2人の合計11人を見たと証言した。
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「斉藤裕 (拉致被害者)」の記事における「人物情報と消息」の解説
1950年(昭和25年)9月17日、北海道生まれ。 1968年12月1日夜7時頃、約4キロメートル離れた友人宅を訪ねたものの本人が不在だったので、「また来る」と友人の家族に告げて浜の方へ下りていったまま消息不明となっている。工業高校の機械科3年生で、翌年4月から大阪の企業に就職が内定していた。失踪当時の身長は160センチメートルと小柄でやせ型、左右いずれかの腕に火傷痕、また盲腸の手術痕があったという。 1999年に韓国に亡命した北朝鮮の元国家安全保衛部指導員の権革は、1978年(昭和53年)5月頃、57軍校で斉藤を見かけており、そこで彼は「ヨンスン先生」と呼ばれ、日本に関する講義を行っていた。厳格な教師で、授業中に少しでも騒がしい生徒がいるとすぐに怒って立たせたりしていたので、生徒からは嫌われ、陰で「チョッパリ」呼ばわりされていた。自衛隊情報に通じており、ことあるごとに自衛隊を引き合いに出していた。出退勤は運転手付きの車で、それなりに身分が高く、優遇されていた。 2000年に韓国に亡命した北朝鮮の元保衛部将校の「金国石」(仮名)は、2003年(平成15年)、斉藤裕を北朝鮮で目撃したと証言した。それによれば、「金国石」は、斉藤裕が「(平壌郊外にある朝鮮人民軍偵察学校の)馬東熙大学で士官服を着て日本語を教えていた」ことを記憶しているという。2004年(平成16年)1月29日、特定失踪者問題調査会は北海道警察に対し、告発状を提出した。
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「佐々木悦子 (拉致被害者)」の記事における「人物情報と消息」の解説
1963年(昭和38年)12月6日、埼玉県川口市生まれ。川口市立岸川中学校、川口市立川口女子高等学校卒業。失踪当時の年齢は27歳で、身長162センチメートル、体重52キログラム、左目の下に泣きぼくろがあった。1986年(昭和61年)に結婚、失踪時は結婚5年目だった。 1991年(平成3年)4月22日朝、「仕事へ行く」と言って嫁ぎ先の埼玉県浦和市(現、さいたま市)の家を出たまま失踪、当日は休みのはずだったという。勤務先は浦和の埼玉銀行で、免許証、パスポート、社内預金には全く手が付けられていなかった。悦子の母、佐々木アイ子は悦子の失踪後、テレビ番組に出演して情報提供を呼びかけるなど捜索活動をおこなった。アイ子によれば、佐々木悦子は「しっかり者」で母の日・父の日に欠かさず贈り物をくれる親思いな娘であり、家族で登山を楽しむことも多かったという。 1999年に韓国に亡命した北朝鮮国家安全保衛部指導員であった権革は、1993年に北朝鮮で佐々木悦子を目撃している。それによれば、目撃したのは平壌直轄市東大院区域三馬洞に所在する5454部隊本庁舎2階の通信局においてであった。佐々木悦子はその一室で働いており、当時独身だった権革は、5454部隊の語学参謀長から「頭の良い女性がいるから会ってみないか」と言われて部屋に入った。通常は立入禁止であったが、特別の許可によるもので、語学参謀長は彼女を権革に紹介することで上級幹部を叔父に持つ権革に取り入ろうとしたものと考えられる。権革は一目で佐々木悦子に好意をもったというが、叔父の反対にあい、交際(結婚)を断念したという。 2004年(平成16年)1月29日、特定失踪者問題調査会は埼玉県警察に対し、告発状を提出した。
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「山本美保 (拉致被害者)」の記事における「人物情報と消息」の解説
1964年(昭和39年)3月3日、山梨県甲府市生まれ。父親が山梨県警察の警察官、母親が専業主婦の家に双子姉妹の姉として生まれ、2歳年上の兄がいた。仲のよい双子姉妹は同じ高等学校に通った。成長するにつれ、積極的な美保に対し、双子の妹美砂は慎重派で何かにつけ美保を頼りにすることが多かったという。双子姉妹が高校3年生だった秋、交通事故で兄を失った。美砂が山梨県内の大学に進学したのに対し、美保は家族のことなどにも配慮して、合格していた東京都内の大学進学を断念して県内の看護学校に通った。しかし、自分の選んだ進路への疑問も感じており、改めて大学への進学を決意して受験勉強に取りかかった。 1984年(昭和59年)6月4日午前10時、「図書館に行く」と言って自宅をあとにし、オートバイで出かけたまま行方不明となった。6月6日、国鉄(現、JR東日本)甲府駅前に美保の乗っていたオートバイが置かれているのが発見された。失踪から4日後の6月8日、新潟県柏崎市の荒浜海岸で彼女の所持していたセカンドバッグを拾得したとの連絡が入った。6月9日、家族は新潟県警察に美保の捜索願を提出した。警察官であった父の光男は、全国の身元不明遺体のなかに娘がいないかどうかをくまなく調べたが、6月から7月にかけての遺体に美保らしい人物はおらず、家族はひとまず安堵した。 山本美保が失踪して約半年後の1984年11月6日からは無言電話が1989年(平成元年)夏頃まで、約4年半続いた。無言電話はほとんど数秒で切れるものだったが、失踪から3年4ヶ月後と3年6カ月後の2回の電話は10分から15分ほど続いており、電話の主が耳をすまして家族の様子をうかがうような様子もみられた。3年6カ月後の電話ではすすり泣くような声も確認されている。 一方、父の光男は身元不明遺体に注意しており、少しでも山本美保の可能性がある遺体が発見されると警察に連絡が入っていた。1986年(昭和61年)12月には富山県警察、1988年(昭和63年)11月には警視庁小松川警察署から不明遺体の照合の連絡が入ったが、歯列や靴のサイズの違いから別人と断定された。 2002年(平成14年)9月17日、日本の小泉純一郎首相が訪問して金正日国防委員長と会談を行い、日朝平壌宣言を発表した。そのとき、北朝鮮側はそれまで「事実無根」と主張してきた拉致犯罪を一転して正式に認め、謝罪した。9月23日、各テレビ局は山本美保失踪事件は拉致の可能性が濃厚であるとして、全国ニュースを報道した。失踪事件の真相を究明する活動が始まり、この年の11月から翌2003年(平成15年)1月まで8万筆の署名を集めた。彼女の失踪から18年が経過していた。
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