国広富子 (拉致被害者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/30 06:30 UTC 版)
くにひろ とみこ
国広 富子
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生誕 | 國廣富子 1952年2月9日(73歳) ![]() |
国籍 | ![]() |
職業 | 看護師 |
国広 富子(くにひろ とみこ、1952年〈昭和27年〉2月9日 - )は、北朝鮮による拉致被害者と考えられる日本女性。特定失踪者問題調査会でも「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[1]。1976年(昭和51年)8月2日、失踪した[2]。彼女については、脱北した元国家安全保衛部(現、国家保衛省)指導員による目撃情報がある[3]。
人物情報と消息
1952年(昭和27年)2月9日生まれ[2]。
1976年(昭和51年)8月2日、山口県宇部市笹山の自宅から数十メートルの地点で失踪した[2]。当日の夜8時半ごろ、母にタバコを買ってくるよう頼まれ、現金300円だけを持って約50メートル離れたタバコ屋に徒歩で向かい、サンダル履きのまま消息不明となった[2][4][5]。彼女は新しい病院に勤務し始めたばかりの看護師で、タバコ屋に行く前は、ナース服の裾上げのためアイロンがけをしていた[2][4]。料理が得意で、手羽先のクリーム煮やサラダコロッケを妹たちとよく作っていたという[4]。一時、徳山市に住んだことがある[4]。失踪当時24歳で、身長152センチメートル、体重48キログラムであった[2][5][注釈 1]。
特定失踪者問題調査会は、2004年(平成16年)1月29日、山口県警察宇部警察署に告発状を提出した[2]。
目撃証言
1999年に韓国に亡命した北朝鮮の元国家安全保衛部指導員の権革は、1994年(平成6年)6月15日、国広富子と思われる女性を目撃している[3][注釈 2]。目撃したのは朝鮮民主主義人民共和国平壌市中区域東興洞にある朝鮮労働党幹部の自宅であった[3]。権革の叔父が不正事件のあった新義州市に出向き、事件を処理した後の祝いの小宴で、対南連絡所の後方総局長が夫人を連れてビールを差し入れたが、その夫人が国広富子であった[3][注釈 3]。後方総局長が日本人女性と結婚していたのは周知のことであったという[3]。
自身拉致被害者である蓮池薫は、深刻な人権侵害は拉致そのものばかりではなく、拉致した人を自国のスパイとして利用しようとする拉致の目的、外国人拉致被害者に対する理不尽な思想の強要、また、自分の祖国に背かせるような行為の強要、いずれも許しがたい犯罪であり、特殊な独裁体制がもたらした重層的な人権侵害であると述べている[6]。
脚注
注釈
出典
- ^ “失踪者リスト”. 特定失踪者問題調査会. 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “失踪者リスト「国広富子」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “インタビュー「権革元国家安全保衛部指導員 2003年5月12日」”. 辺真一のコリア・レポート. 辺真一 (2003年6月23日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d “姉の名前、出てきてほしい”. 産経新聞 拉致再調査. 産経新聞 (2014年7月3日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c “北朝鮮による日本人拉致問題”. 宇部市 (2022年8月31日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ 蓮池(2025)pp.209-212
参考文献
- 蓮池薫『日本人拉致』岩波書店〈岩波新書〉、2025年5月。ISBN 978-4-00-432064-7。
関連項目
外部リンク
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