大澤孝司 (拉致被害者)
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おおさわ たかし
大澤 孝司
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生誕 | 大澤孝司 1946年6月21日(79歳) ![]() |
国籍 | ![]() |
職業 | 新潟県職員 |
親 | 父:福一郎 母:房 |
家族 | 長兄:昭一 次兄:茂樹 |
大澤 孝司(おおさわ たかし、1946年〈昭和21年〉6月21日 - )は、北朝鮮による拉致被害者と考えられる日本男性。特定失踪者問題調査会でも「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[1]。1974年(昭和49年)2月24日、失踪した[2]。彼については、北朝鮮での情報がある[3]。
人物情報・失踪事件
1946年(昭和21年)6月21日、新潟県西蒲原郡巻町(現、新潟市西蒲区)に材木商を営む家の三男として生まれた[2][4][5]。1965年(昭和40年)3月、新潟県立巻高等学校を卒業、4月に東京農業大学に進学した[4]。横浜市に住む次兄の茂樹夫妻の家に下宿し、大学では農業水利を学んだ[5]。1969年(昭和44年)、同大学を卒業し、帰郷して新潟県職員となった[4]。1972年(昭和47年)より佐渡郡新穂村(現、佐渡市)の新潟県佐渡農地事務所に勤務していた[4]。当時、事務所には50名から60名ほどが勤務しており、そのうち20名弱が本土からの単身赴任者であった[2]。まじめで優しい人柄であった[5][6]。
1974年(昭和49年)2月24日(日曜日)、当時住んでいた独身寮から約400〜500メートル離れた焼肉屋で食事を済ませ、午後8時ころに同じ趣味をもつ猟友会役員の知人宅(タバコ屋)に寄り、狩猟シーズンも終わったことから、知人の妻に狩猟許可証を手渡した[2][4][注釈 1]。その後、消息不明となったが、最後に孝司が目撃された地点から寮までの距離は約200メートルであった[7]。失踪当時の年齢は27歳[3]。寮の部屋のなかは、現金・預金通帳、衣類、両親から買ってもらったお気に入りのカメラなどもそのままで、何かが持ち去られたようすはまったくなかったという[4][6]。ただし、焼肉店の女性は、大澤孝司が国外(北朝鮮)の農地整備の仕事を持ちかけられ、悩んでいたと語っており[7][6]、また、彼がタバコ屋を出るのと前後して、店に入ろうとしたが入らずに急いで走り去った男性が2、3人いたこと、また、その直後に自動車のブレーキなのか急発進なのか、いずれにしても、きしむタイヤ音を耳にしたという情報があった[4][7]。また、北朝鮮製とみられるマッチが寮の近くに落ちていた[2][4][注釈 2]。
巻町の実家に農地事務所から連絡が入ったのは翌々日の2月26日(火曜日)のことであった[4]。すぐに兄の大澤昭一がフェリーで佐渡島に渡り、27日からは、孝司の親戚や警察はもとより、農地事務所の全職員、近隣住民、消防団などを含めた200人から300人の体制で島内をくまなく捜索した[4][注釈 3]。しかし、その甲斐なく孝司は見つからず、警察は昭一に対し、「島外に出た形跡はなく、見た者もなく、死体もなく、交友にも不審な点はなく、残念だが『神隠し』としか言いようがない不思議な事件だ」と語った[4]。なお、失踪の2、3日前に孝司の乗った船と同じ船で新潟から佐渡に渡った同僚は「船中では飲む話、食べる話などをしていて自殺や失踪のそぶりは全くなかった」と語っている[2]。失踪事件の前、帰省していた孝司が母に「適当な結婚相手がいたら推薦してください」と語っており、その点でも自殺とは考えにくい[6]。孝司の失踪後、しばらくの間「あれは北朝鮮にやられたのではないか」との話で持ちきりだったというが、やがてぴたりと止んだといわれている[2]。
救出活動と生存情報
2002年(平成14年)9月17日、小泉純一郎内閣総理大臣が北朝鮮を訪問し、1日だけの日朝首脳会談を開き、それまで「事実無根」としてきた日本人拉致被害者の存在を北朝鮮政府が公式に認めた[10]。同じ佐渡の真野町で1978年以来行方不明となっていた曽我ひとみの生存も明らかになり、ひとみの妹はそのとき初めて姉と母(曽我ミヨシ)が北朝鮮に拉致されたことを知ったという[11]。このことを新聞の号外で知った孝司のいとこが昭一の営む材木店に駆け込んで、昭一に曽我ひとみの件を伝えた[12]。政府認定の被害者リストになかった曽我ひとみの拉致が判明し、同年10月15日に帰国を果たしたが[13][注釈 4]、このとき平山征夫新潟県知事が「新穂で失踪した大澤孝司さんも拉致に間違いない」と孝司の家族に声をかけた[4]。この言葉に家族たちは勇気づけられたという[4]。2003年1月10日、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(通称「救う会」)は、救う会の「北朝鮮による拉致の可能性を完全には排除できない失踪者」調査部門を分離して、新たに特定失踪者問題調査会が発足した[15][16]。
長兄の昭一はすぐに親族に相談し、救出活動が始まった[12]。特定失踪者問題調査会は、2004年(平成16年)1月29日、新潟県警察に告発状を提出した[2]。救出活動の輪は親族以外にも広がり、2004年には孝司の同級生や元同僚らが「大澤孝司さんと再会を果たす会」を設立した[12]。街頭での訴えや陳情に取り組み、2007年には約12万人の署名を集め、日本政府に拉致被害者としての認定を求めた[12]。
2015年(平成27年)10月1日、野田佳彦内閣(第1次改造内閣・第2次改造内閣)の拉致問題担当大臣だった民主党衆議院議員の松原仁が、東京都内で行われた記者会見で、「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない」特定失踪者のうち、新潟県の大澤孝司と埼玉県の藤田進の2名について、担当大臣在任期間(2012年1月〜10月)、生存情報が寄せられていたことを明らかにし、「間違いなく(北朝鮮に)拉致されていたことを確信した」と説明した[17]。
特定失踪者問題調査会はそれまでも特定失踪者の家族との懇談会を開いてきたが、2017年5月12日、「特定失踪者(北朝鮮による拉致の可能性を排除できない失踪者)家族有志の会」(略称「特定失踪者家族会」)が正式に発足し、大澤昭一が会長となり、時を経ず、各党代表に設立報告と要請活動を行い、拉致問題担当大臣との面会も行った[16]。
しかし、いまだ拉致認定はなされていない[12]。兄の昭一は、2023年6月に新潟県警察に初めて要望書を提出したが、警察は1カ月後に「拉致だと認定するには至っていない」と答えただけだった[6]。2024年2月20日、第2次岸田内閣(第2次改造内閣)の林芳正内閣官房長官も会見で「拉致行為があったことを確認するには至っていない」と従来の立場を繰り返した[12]。兄の昭一は、2002年の段階でもっと懸命に動いていればと後悔したこともあったという[12]。昭一は2024年2月放送のテレビ番組の取材に「当然、死んでいるかもしれません。それでも弟には柔軟的な面があるので、残っている可能性もあるのかなと思っています」と答えている[6]。
物的証拠はないものの、状況証拠からすれば大澤孝司が北朝鮮に拉致された可能性はきわめて高いといえるが、政府に認定されていないことで家族の再会が困難さをきわめ、家族の高齢化がそれに拍車をかけている現実がある[6]。大澤昭一は「認定されてもらえない限り私たちは駄目なんだ」という思いを語り、「政府で、政治判断で、拉致認定してもいい段階だ」と訴えている[6]。孝司が失踪して50年、特定失踪者問題調査会代表の荒木和博が特定失踪者の家族の声をできるだけ多く映像に残すべく全国を巡るなか、2024年、昭一も家族からのメッセージとしてYouTube動画の撮影を行った[6]。昭一は2025年8月、『待って探して五十年 仏像と共に消えた弟』という著作を出版している[18]。なお、大澤孝司は、北朝鮮国内で農業関係の仕事をしていたが、すでに引退しているとの情報がある[3]。
脚注
注釈
- ^ 焼肉屋で孝司は「今日は隣の金井町で木彫りの仏像を買ってきた」と言い、その包みを持っていたという[4]。
- ^ 佐渡は、1961年6月に小木海岸で工作員1名が脱出、1970年5月に宿根木海岸から工作員が潜入、1972年3月に宿根木で不審人物2名が発見されるなどの事件が起こっており、工作員の侵入・脱出ポイントだったことが判明している[8]。大澤孝司や曽我ミヨシ・ひとみの拉致も佐渡につくられた工作員ネットワークによるものだと考えることができる[8][9]。これは、1948年に佐渡の春日崎に在日米軍が部隊を展開し、レーダーサイトが設けられた(のちに移転。その後、航空自衛隊に移管)ことがそもそもの起因と考えられる[9]。
- ^ お盆の時期にあたっていた曽我ひとみの捜索よりも大規模な捜索であった[2]。
- ^ 自身拉致被害者で2002年に帰国を果たした蓮池薫は、2025年の著作で、北朝鮮が曽我ひとみの拉致を認めながらも母ミヨシの拉致を認めなかった理由について、生存者として表に出すことに決めた曽我ひとみへの影響を考えたのではないかと分析している[14]。北朝鮮としては、日本政府のリストにない曽我ひとみを日本に帰すことで「誠意」を示すとともに、ミヨシの拉致を認めてしまうと拉致後も母と娘の間を引き裂いてきたことも認めざるを得なくなり、ひとみからの強い反発を招くことが必至なところから、ミヨシについては、生存でも死亡でもない「未入境」とした[14]。その一方で北朝鮮の言う「未入境」には、日本側提示の行方不明者リストをそのまま認めることに対する反発があり、また、そうすることで交渉で守勢に立つことへの警戒感、さらに、国家としてのプライドなどもあったのではないかと推測している[14]。
出典
- ^ “失踪者リスト”. 特定失踪者問題調査会. 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “失踪者リスト「大澤孝司」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c “拉致可能性排除できない66人、北朝鮮での目撃情報など初公表 大沢孝司さんら新潟県関係4人も・特定失踪者問題調査会”. 新潟県内のニュース>拉致問題. 新潟日報 (2024年11月18日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “大澤孝司さんプロフィール”. 大澤孝司さんと再会を果たす会. 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c “連載[特定失踪者・大沢孝司さん失踪50年―再会果たすまで]<上>「孝司だかや!」大声でひ孫に駆け寄る父の姿に胸を突かれる”. 新潟県内のニュース>拉致問題. 新潟日報 (2024年2月25日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “「結婚相手がいたら推薦してください…」と母に話していた弟を探し続けて50年 「兄弟で写真撮影がしたい」と話す88歳の兄の胸の内”. TBS NEWS DIG powered by JNN. TBS・JNN NEWS DIG (2024年2月28日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c “[特定失踪者問題]大沢孝司さん失踪から51年 「何とか動かしてほしい」家族高齢化で募る切迫感”. 新潟県内のニュース>拉致問題. 新潟日報 (2025年2月25日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b 荒木(2005)pp.32-33
- ^ a b “大澤孝司さんについて【調査会NEWS3403】(R03.2.26)”. 調査会ニュース. 特定失踪者問題調査会 (2021年2月26日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ ジェンキンス(2006)pp.204-207
- ^ 『祈り 北朝鮮・拉致の真相』(2004)pp.136-139
- ^ a b c d e f g “連載[特定失踪者・大沢孝司さん失踪50年―再会果たすまで]<中>政府も認めない「拉致」被害者、もしあの時動いていれば…兄・昭一さん自責の念”. 新潟県内のニュース>拉致問題. 新潟日報 (2024年2月25日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ ジェンキンス(2006)pp.207-215
- ^ a b c 蓮池(2025)pp.10-13
- ^ “特定失踪者問題とは”. 調査会について. 特定失踪者問題調査会 (2020年8月7日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b “これまでの主な活動 (令和2年8月7日現在)”. 調査会について. 特定失踪者問題調査会 (2020年8月7日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ “特定失踪者の藤田さんと大澤さん、平成24年に生存情報 松原元拉致担当相、在任当時に 「拉致を確信した」”. 産経新聞ニュース. 産経新聞 (2015年10月1日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ “大澤昭一さんの著書8月12日から発売開始【調査会NEWS3945】(R7.8.5)”. 調査会ニュース. 特定失踪者問題調査会 (2025年8月5日). 2025年8月29日閲覧。
参考文献
- 荒木和博『拉致 異常な国家の本質』勉誠出版、2005年2月。ISBN 4-585-05322-0。
- チャールズ・R・ジェンキンス『告白』角川書店〈角川文庫〉、2006年9月(原著2005年)。 ISBN 978-4042962014。
- 新潟日報社・特別取材班『祈り 北朝鮮・拉致の真相』講談社、2004年10月。 ISBN 4-06-212621-4。
- 蓮池薫『日本人拉致』岩波書店〈岩波新書〉、2025年5月。 ISBN 978-4-00-432064-7。
関連項目
外部リンク
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