遠山文子 (拉致被害者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/30 01:25 UTC 版)
とおやま ふみこ
遠山 文子
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生誕 | 遠山文子 1952年5月2日(73歳) ![]() |
国籍 | ![]() |
遠山 文子(とおやま ふみこ、1952年〈昭和27年〉5月2日 - )は、北朝鮮による拉致被害者と考えられる日本女性。特定失踪者問題調査会でも「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[1]。1973年(昭和48年)7月、失踪した[2]。彼女については、脱北した元国家安全保衛部(現、国家保衛省)指導員による目撃情報がある[3]。
人物情報と消息
1952年(昭和27年)5月2日生まれ[2]。
1973年3月末、同じ職場で働いていた交際中の男性(非公開)と同じ日に東京の建設会社を退職し、実家を出て墨田区押上のアパートに暮らした[2][4]。両親がアパートを訪ねた1週間後に引き払った[2]。その後、友人にアルバムやノートなどが送られてきて、男性とともに福岡市、山口県萩市、島根県津和野町、札幌市、北海道女満別町、知床半島、摩周湖、釧路市、小樽市、京都府舞鶴市、大阪市など日本国内各地を広範囲に旅行した形跡を残している[2][4]。アルバムやノートには写真ばかりではなく航空券、観光施設の入場券や宿泊施設の領収証などが詳細に貼り付けてあった[2][4]。最後の遺留品は、同年7月の石川県羽咋市柴垣の海水浴場での写真で、ここが最終失踪関連地点と考えられる[2][4][注釈 1]。
目撃証言
1999年に韓国に亡命した北朝鮮の元国家安全保衛部指導員の権革は、1993年(平成5年)6月ごろ、彼女らしき女性を北朝鮮の清津連絡所で目撃している[3][注釈 2]。権が国家安全保衛部指導員として清津連絡所の検閲に赴き、その結果、重大な不正を発見すると、清津連絡所の責任者はそれを隠蔽するため、権を接待して3日間酒席を開いた[3]。そのとき酌をしたのが遠山であった[3]。彼女はキム・ソングンを名乗り、男性の前でも酒を飲んでいた[3][注釈 3]。
彼女は、権革が韓国で証言した2003年(平成15年)の段階で、男性の北朝鮮工作員と北アメリカ大陸のどこかにいるものとみられる[3]。権によれば、女性をひとりで国外に出すことはなく、必ず男性と同伴であり、また、国外に出すということは当局からよほど信頼が厚い証拠であるという[3]。
自ら拉致被害者である蓮池薫は、深刻な人権侵害は拉致そのものだけではなく、拉致した人を自国のスパイとして利用しようとする拉致の目的も、外国人拉致被害者に対する理不尽な思想の強要、自分の祖国に背かせるような行為の強要もまた、すべてが許しがたい犯罪であり、特殊な独裁体制がもたらした重大な人権侵害であると述べている[5]。
脚注
注釈
- ^ 一見「駆け落ち前の思い出づくり」のようにもみえるが、拉致の偽装工作の可能性もあり、その前提に立った場合、このような長距離移動は都道府県単位に分かれた日本の警察の追跡調査に困難さをあたえると同時に、石川県の海水浴場に注目させておきながら、実際に拉致を行った場所がまったく別の場所であるということも考えられる[4]。
- ^ 権革は、斉藤裕(1968年に失踪)、大屋敷正行(1969年に失踪)、松本賢一(1970年に失踪)、国広富子(1976年に失踪)、山本美保(1984年に失踪)、佐々木悦子(1991年失踪)も北朝鮮領内で目撃したと証言している[3]。
- ^ 北朝鮮の女性は男性の前で堂々と飲酒することはないので、権はよく覚えているとのことである[3]。
出典
- ^ “失踪者リスト”. 特定失踪者問題調査会. 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g “失踪者リスト「遠山文子」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “インタビュー「権革元国家安全保衛部指導員 2003年5月12日」”. 辺真一のコリア・レポート. 辺真一 (2003年6月23日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e “長距離の移動と偽装工作【調査会NEWS3431】(R03.5.1)”. 特定失踪者問題調査会. 杉野正治 (2021年5月1日). 2025年8月29日閲覧。
- ^ 蓮池(2025)pp.209-212
参考文献
- 蓮池薫『日本人拉致』岩波書店〈岩波新書〉、2025年5月。ISBN 978-4-00-432064-7。
関連項目
外部リンク
- 遠山文子_(拉致被害者)のページへのリンク