今井裕 (特定失踪者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/06 05:09 UTC 版)
いまい ゆたか
今井 裕
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生誕 | 今井裕 1950年12月20日(74歳) ![]() |
国籍 | ![]() |
家族 | (兄)英輝 |
今井 裕(いまい ゆたか、1950年〈昭和25年〉12月20日 - )は、青森県出身の特定失踪者[1][2]。特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[3]。1969年(昭和44年)3月2日、青森県にて失踪した[1][2][4]。失踪当時は18歳[1][2][4]。兄は特定失踪者家族会の会長を務めている[5]。
人物情報と消息
1950年(昭和25年)12月20日、青森県弘前市生まれ[1]。失踪当時は青森県立弘前工業高等学校の3年生であった[1]。身長は170センチメートルくらいで、体重は62ないし63キログラム程度、ふだんは眼鏡を着用している[1]。また、右頬に子どものとき木登りをしてつけた傷が残っている[1]。
成績優秀で、1969年3月4日の卒業式では総代として答辞を読むことになっていた[1]。東京の営団地下鉄(現、東京メトロ)に就職が決まっており、早稲田大学の2部にも合格していた[1]。失踪したのは、卒業式前の1969年3月2日夕方、「制服のボタンを買いに行く」と自宅を出たまま消息不明になった[1][4]。
特定失踪者問題調査会は2004年(平成16年)1月29日、青森県警察弘前警察署に告発状を提出した[1]。
失踪より半世紀を経た2019年(平成31年)、彼の持っていた生徒手帳に五能線艫作駅周辺の手描きの地図が折り込んではさんであるのが発見された[6]。艫作駅のある青森県西海岸では、1962年(昭和37年)に鯵ヶ沢事件、1969年に岩崎・能代事件が起こっており、同海岸は北朝鮮工作員の侵入ポイントとなっているところから、あらためて事件との関連性が指摘されるところである[6]。2019年3月20日、特定失踪者問題調査会(荒木和博代表)は、艫作駅周辺などで手描き地図を基に特別検証を行った[6][7]。
兄が会長を務める特定失踪者家族会は、2024年(令和6年)11月20日、拉致の疑いが濃厚な特定失踪者の拉致認定を内閣官房長官の林芳正に要望した[5]。
類似事件
今井裕、水島慎一(失踪場所、富山県朝日町)、斉藤裕(同、北海道稚内市)、大屋敷正行(同、静岡県沼津市)の4人については、すべて高校生で1968年から1969年の間に失踪しているところに共通点がある[4]。うち、今井、水島、斉藤の3人はいずれも18歳の高校3年生で、就職が決まり卒業を目前に控えてい た[4][注釈 1]。また、斉藤と東京都内の高校2年生(当時16歳)だった大屋敷正行の2人は北朝鮮での目撃証言がある[4][注釈 2]。この4件について、事件の類似性や他の失踪理由(家出、心中、自殺など)が存在しないことなどから、特定失踪者問題調査会では拉致の可能性が高いと判断している[4]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k “失踪者リスト「今井裕」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年10月4日閲覧。
- ^ a b c “拉致の可能性を排除できない事案に係るかたがた:今井裕さん”. 青森県警察. 2025年10月4日閲覧。
- ^ “失踪者リスト”. 特定失踪者問題調査会. 2025年10月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 荒木(2005)pp.174-175
- ^ a b “特定失踪者の拉致認定を:弘前市の今井英輝さんたち家族会が国に要望”. 青森放送 (2024年11月20日). 2025年10月4日閲覧。
- ^ a b c “特定失踪者・今井さんの手描き地図見つかる”. 陸奥新報 (2019年3月21日). 2025年10月4日閲覧。
- ^ “今井裕さんの地図の筆跡鑑定結果はどうなったのか【調査会NEWS3581】(R4.3.22)”. 特定失踪者問題調査会 (2021年3月22日). 2025年10月4日閲覧。
参考文献
- 荒木和博『拉致 異常な国家の本質』勉誠出版、2005年2月。ISBN 4-585-05322-0。
関連項目
外部リンク
- 今井裕_(特定失踪者)のページへのリンク