渡辺秀子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/23 06:14 UTC 版)
わたなべ ひでこ
渡辺 秀子
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生誕 | 渡辺 秀子 1941年6月5日(84歳) ![]() |
国籍 | ![]() |
家族 | 妹:冏子(けいこ) 夫:高大基 長女:高敬美 長男:高剛 |
渡辺 秀子(わたなべ ひでこ、1941年〈昭和16年〉6月5日 - )は、北海道出身の特定失踪者[1]。1973年(昭和48年)12月、東京都にて失踪[1]。失踪当時は32歳[1]。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致された姉弟、高敬美(失踪当時6歳)と高剛(失踪当時3歳)の母[1][2][3]。夫の高大基は北朝鮮工作員[1][4]。
人物情報・失踪事件
1941年(昭和16年)6月5日、北海道釧路市生まれ[1][4]。中学時代に帯広市に転居した[4]。私立の帯広大谷高等学校を中退し、実家の中華料理店に勤めた[4]。その後、友人を頼って網走市や紋別郡雄武町などを転々とした[4]。紋別市のスナックバーに勤めていた1961年(昭和36年)、客であった高大基と出会う[4][5][注釈 1]。高は渡辺に一目ぼれし、2人の交際が始まった[5]。高は、渡辺より14歳年上であった[5]。
東京都品川区西五反田のTOCビル4階にあった貿易会社ユニバース・トレイディングは、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の幹部(第一副議長)だった金炳植によって1971年(昭和46年)に設立され、社員は約30名おり、主として貴金属の輸出の業務にあたっていた 。社員は約30名おり、主として貴金属の輸出の業務にあたっていた[5]。しかし、その実態は北朝鮮工作機関のフロント企業であり、社員のうち10名は北朝鮮の工作員であった[5]。1972年(昭和47年)、金炳植が本国に召還されて失脚すると、高大基本が会社を引き継いだ[5]。高大基は、朝鮮総連傘下の研究機関「朝鮮問題研究所」の研究員でもあり、さらに朝鮮大学校を卒業した朝鮮総連の専従活動家を構成員とする武闘工作部隊、「別動隊」(通称「ふくろう部隊」)の訓練隊長でもあった[5]。
渡辺秀子と高大基は1967年(昭和42年)3月1日に結婚し、それを機に秀子は北海道より上京した[4][注釈 2]。当初は東京都中野区に住み、その後、埼玉県入間郡、続いて埼玉県上福岡市(現、ふじみ野市)に転居した[4]。同年4月10日長女の敬美を出産、1970年(昭和45年)6月29日には長男の剛を出産した[1][2][3][4]。しかし、1973年(昭和48年)6月、高大基は家族には何も告げず、突如、行方をくらました[5][4][6]。本国に召還されたのではないかと考えられている[5]。
渡辺は、8月にいったん帯広に帰省し、その後東京に戻った[4]。10月には五反田のユニバーストレーディング社周辺で失踪した夫高大基の行方を捜し始めた[4]。そして1973年12月、北海道の両親に「大阪の友人宅にいる」と電話をかけた後、連絡がとれなくなってしまった[4]。ユニバース・トレイディング社が北朝鮮工作機関の偽装会社であることが発覚するのを恐れて親子3人を監禁したものと思われる[6][1]。これを指示したのが、在日韓国人の洪寿恵(ホン・スヘ)で、彼女は高大基失踪後のユニバース・トレイディング社の責任者になったものとみられる[7]。
その後の捜査により、渡辺秀子はユニバーストレイディング社の男子用アジトとして使用されていた目黒区のマンションに、幼い姉弟は母親と引き離されて、工作員の都内の実家を転々とし、最終的に品川区の女性用アジトのマンションで監視されていた[4]。1974年(昭和49年)1月から2月にかけて、渡辺秀子を目黒のマンションで目撃した元社員は「渡辺さんは、縛られているような状態ではなかった。子供は一緒にいなかった」と語っている[4]。洪寿恵は、配下の土台人に彼女の子どもたちを北朝鮮に連行するよう命じ、幼い姉弟は福井県小浜市の岡津(おこづ)海岸に連れていかれ、そこから工作船に乗せられた[2][3]。
渡辺秀子については、2007年(平成19年)4月の新聞ではユニバース・トレイディングの内部で工作員の男に絞め殺されたと報じられている[8][9]。報道によれば、同社の関係者によって「箱に入れ石を詰めて捨てた」「遺棄場所は山形と秋田の県境」などの証言がなされたが遺体発見にはいたっていない[8]。彼女については、こうした証言があることから殺害説が唱えられていることは事実だが、その真相はよく分かっておらず、生存説も唱えられている[1][4]。失踪直後に殺害されたとの報道があったものの、実際は1年後も生きていたことがわかっており、公安当局も、渡辺が「ご主人に会わせるから」と言われて北朝鮮に渡った可能性も考えられるとしている[4]。2007年3月22日、特定失踪者問題調査会は渡辺秀子を「拉致濃厚」の特定失踪者として公表した[4][10]。
2007年(平成19年)4月12日、警察は敬美・剛の姉弟を拉致されたものと断定したが、現在の支援法は日本国籍保持者のみが対象になっており、朝鮮籍の姉弟は政府による拉致認定がなされていない[2][3]。また、高姉弟拉致の主犯である洪寿恵こと木下陽子については、4月26日の逮捕状の発付を得て国際手配を行い、4月27日、外務省を通じて、北朝鮮に対し、身柄の引き渡しを要求している[1][11][12]。
しかし、渡辺秀子については何の措置も講じられていない[1]。なお、警察断定より4年さかのぼる2003年(平成15年)1月、秀子の妹の冏子は、警視庁に「被疑者不詳」としながらも殺人及び国外移送目的略取の罪名で告訴している[4]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k “失踪者リスト「渡辺秀子」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月20日閲覧。
- ^ a b c d “失踪者リスト「高敬美」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月20日閲覧。
- ^ a b c d “失踪者リスト「高剛」”. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 荒木和博 (2021年8月23日). “神戸集会で渡辺秀子さん・敬美さん・剛さんに関して決議【調査会NEWS3484】(R3.8.23)”. 特定失踪者問題調査会. 2025年9月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 竹内明 (2017年11月12日). “北朝鮮「武闘工作部隊」日本人妻と子供たちが辿った残酷すぎる運命”. 現代ビジネス. 2025年9月20日閲覧。
- ^ a b 荒木(2005)p.178
- ^ 金総宰 (2007年5月2日). “秘密組織「別働隊」が浮上”. 統一日報. 2025年9月20日閲覧。
- ^ a b 『四国新聞』 2007年4月13日
- ^ 『中日新聞』2007年4月14日
- ^ 北朝鮮による日本人拉致問題について 埼玉県
- ^ “北朝鮮による拉致容疑事案について「姉弟拉致容疑事案」”. 警察庁. 2025年9月20日閲覧。
- ^ “姉弟拉致容疑事案に関する北朝鮮側への申し入れ等について”. 外務省 (2007年4月27日). 2025年9月20日閲覧。
参考文献
- 荒木和博『拉致 異常な国家の本質』勉誠出版、2005年2月。ISBN 4-585-05322-0。
関連項目
外部リンク
- 渡辺秀子のページへのリンク