田中実 (拉致被害者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/12 08:10 UTC 版)
たなか みのる
田中 実
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生誕 | 田中実 1949年7月28日(76歳) ![]() |
住居 | 1978年拉致。![]() |
国籍 | ![]() |
職業 | (拉致前)ラーメン店店員 (拉致後)翻訳・日本語教師 |
田中 実(たなか みのる、1949年〈昭和24年〉7月28日 - )は、北朝鮮による拉致被害者[1][2][3]。田中実が拉致されたのは1978年(昭和53年)6月頃で、当時の職業はラーメン店の店員、年齢は28歳であった[1][2][3]。
生い立ち、失踪
田中実は1949年7月28日生まれ[1][2][3]。本籍(魚崎南町)、失踪前の住所(深江北町)ともに兵庫県神戸市東灘区である[2]。幼いときに両親が離婚し、神戸市内の児童養護施設で育った[2]。その後、親とは一切会っていないという[4]。神戸市立高羽小学校、神戸市立鷹匠中学校、神戸市立神戸工業高等学校技術課程に通った[3]。工業高校ではクラス替えがなく、3年間、学級担任だった教員は、施設が持たせる弁当の量が少なかったので、田中を職員室に呼んで、家庭の味を少しでも味わわせようと自分の弁当のおかずを分け与えていた[5][6]。担任教師は、ホームルームで「(田中が)一生懸命やったら命かけて守る」と言ったことがあったという[6]。
高校卒業後、市内のパン製造会社に就職したが退職し[3]、失踪直前は東灘区北青木2丁目の中華料理店「来大」(最寄り駅は阪神電鉄青木駅および深江駅)に店員として勤めていた[2]。「来大」に田中を誘ったのは、同じ養護施設で育った田中と仲の良い後輩だった金田龍光であった[7]。金田は中学卒業後、田中よりも前に「来大」で店員として働いていた[7]。韓国籍の金田は「金ちゃん」と呼ばれ、周囲に親しまれていたという[5]。
身寄りのない田中は、在日朝鮮人で「来大」店主の韓龍大(ハン・ヨンデ)を兄とも父とも慕い、何でも相談していたという[4]。田中実は1978年(昭和53年)、韓龍大に「海外旅行に行かないか」と誘われ、同年6月6日に新東京国際空港(現、成田国際空港)から出国、オーストリアのウィーンに向かった後、消息を断った[2][3]。捜索願は出されていない。
拉致の事実とその証言
ウィーンには事件当時「ゴールデンスターバンク」という北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の情報収集機関・工作組織があり、西側への窓口としての役割を担っていた[2][4]。田中はウィーンでゴールデンスターバンクに引き渡され、ウィーンからソビエト連邦のモスクワまでの社会主義圏は陸路で、モスクワから平壌市までは空路で移送させられた[2][3][4]。
韓龍大は、朝鮮労働党社会文化部(対外連絡部)の指導の下、日本で地下活動をしていた工作組織「洛東江」のメンバーであった[4]。同組織のリーダー曹廷楽(チョ・ジョンガリ)とともに1975年頃、山口県長門市付近の海岸から北朝鮮の潜水艇で密出国して元山港に入り、平壌で朝鮮労働党に入党して指令を受け、日本に戻った[3][4]。韓龍大と曹廷楽が田中を言葉巧みにだまし、拉致したのは、この後のことである[3][4]。
以上の事実を証言したのは、神戸市在住の在日朝鮮人で灘商工会理事長だった張龍雲(チャン・ヨンウン)であった[2][3]。張は、かつては在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)商工会の活動家であったが、1972年(昭和47年)にスカウトされて、その地下組織「洛東江」の構成員となった[8]。「洛東江」では、曹廷楽の指揮の下で「黒い蛇」のコードネームを与えられ、組織の資金集めや財務を任されていた[8]。約20年の活動を経て張は、工作員活動と組織の悪を痛感して懺悔の気持ちを持つようになり、1996年12月発行の雑誌『文藝春秋』(平成9年1月号)に手記を掲載し、みずから「洛東江」のメンバーであったことを告白すると同時に、田中の拉致が韓龍大と曹廷楽の共謀によるものであることを明らかにしたのである[3]。1999年(平成11年)には自己総括の書として『朝鮮総連工作員』(小学館文庫)を著し、田中の拉致を含む「洛東江」の非合法活動を詳細に明らかにした[2][3]。なお、張の告発当時、韓龍大は青森県八戸市で中華料理店を営んでおり、曹廷楽は山形県に住んでいた[2]。
張は、1978年に田中が韓の店からいなくなったことについて、当時何の疑念も抱かなかったが、その後、平壌の労働党社会文化部の幹部で旧知のソン・イルボンから、田中の失踪が実は拉致によるものであることを知って驚愕し、さらに田中が「平壌の生活になじまなくてしばらく手を焼いた」ものの、「同じく拉致された日本人女性と結婚して子どもを一人もうけ」、「ラジオ放送の翻訳の仕事」をしているという消息を聞いた[2][4]。労働党中央の「洛東江」担当だったソンは、田中拉致のいきさつを張龍雲が当然知っていると思い込んで田中の情報を伝えたのだった[4]。
田中失踪から約半年後、神戸にいた金田龍光に「田中実」が差出人となっているオーストリアからの国際郵便が届いた[7]。その内容は「オーストリアはいいところであり、仕事もあるのでこちらに来ないか」という誘いであった[7]。田中から誘われた金田は、打ちあわせのため東京に向かったが、その後、神戸には一切連絡がなく、彼もまた消息不明となった[7]。特定失踪者問題調査会(代表:荒木和博)では金田を「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[7]。
拉致の方法と目的
張龍雲は、日本人拉致に関して、暴力的な方法が話題にのぼりがちであるが、身寄りの少ない孤独な人を狙うことが多いので、その方法は必ずしも主流ではなく、虚言を用いる方法がむしろ多いだろうと述べている[9]。そして、田中の場合は、韓を全面的に信頼していたので「普通なら入国できない朝鮮を特別に見せてやる」というような言い方で騙したのではないかと推測している[9]。
日本人を拉致する目的については、張龍雲は1999年の著作で、北朝鮮工作員が日本人になりすまし、戸籍やパスポートを取得し、韓国をはじめとする国々に侵入するためとしている[9]。このような「背乗り」の目的で日本人を北朝鮮に連行してしまえば、その人の必要性はほぼ消滅してしまうわけであるが、「一応金日成思想で洗脳し、朝鮮革命に利用しようとは目論んでいるようだ」と述べ、「その洗脳の程度に応じて待遇は異なり、あくまで頑として朝鮮になじもうとしない人たちには緩やかな軟禁状態に置かれているはず」と推測する[9]。
朝鮮労働党対外連絡部の元工作員で脱北した金東植は、日本人拉致の目的の第1は工作員化であるとの見方を示している [10][11]。拉致をしたのも工作部署であり、その人たちを収容して工作したのも工作部署であるのはそのために他ならないとし、拉致したのが日本人であれば、日本の言葉や習慣をあらためて教える必要がなく、工作員としての教育に成功すれば日本に潜入させることができ、また、海外で活動させることも可能だとしている[10][注釈 1]。
金東植は、彼とは金星政治軍事大学の同期生であるチョー・ソンヨルという工作員が「タナカ」という日本人から日本語を学んだことを聞いたと証言している[12]。そして、「タナカ」の場合は、工作員化に失敗したので日本語講師として活用したケースと考えられ、金賢姫が日本語を学んだ李恩恵(田口八重子)も同様のケースだとしている[11][10]。金東植はまた、「講師として使えなかった人たちは、日本に関係する通訳や翻訳など適当な仕事をさせたと聞いて」いるとも語っている[10]。
自身拉致被害者である蓮池薫は、拉致をおこなった機関は朝鮮労働党対外情報調査部と朝鮮労働党対外連絡部の2つであり、政府認定拉致被害者のうち、横田めぐみ、田口八重子、地村保志・富貴恵夫妻、蓮池薫・祐木子夫妻、市川修一、増元るみ子、曽我ひとみ、曽我ミヨシ、原敕晁は対外情報調査部、石岡亨、松木薫、有本恵子は対外連絡部によることが明らかだとしており、松本京子と田中実については特定が難しいとしながらも、松本は対外情報調査部、田中は対外連絡部であろうとしている[13]。そして、日本人拉致の目的は「よど号」グループによる「革命人材の確保」、対外情報調査部による「土台人」を利用しての身分偽装(「背乗り」)、「秘密情報工作員の確保(外国人工作員としての利用)」のいずれかしか考えられないのであり、語学教育係というのは副次的なものにすぎないとの見解を示している[13]。これは、自身の24年に及ぶ北朝鮮での実体験から得られた結論でもあった[14][15][16][17][注釈 2][注釈 3]。
救済活動の開始

1996年(平成8年)12月12日、兵庫県議会警察常任委員会で大前繁雄県議会議員が、『文芸春秋』平成9年1月号の張龍雲手記を取り上げ、「警察は何か情報を得ておられるのか、得ておられるのならお示し頂きたい」と質問した[2][3]。それに対し、兵庫県警察の大橋警備部長は、「調査の結果、神戸市内に居住していた同姓同名の人物が、昭和53年6月6日成田から出国した後、現在まで所在不明となっている事が判明している。この人物が記事に言う当該田中実氏と同一であるという可能性は否定できないと考えている。県警としては、当該人物の行方については、拉致された可能性も含めて慎重に調査しているところである」と答弁した[2][3]。
2000年、張龍雲が神戸のある団体の設立式典で講演し、田中実について詳細に言及した[5]。それ以来、兵庫県下で実施する街頭署名活動においては、有本恵子とともに田中実の名も連呼されるようになった[5]。しかし、田中に関する世論の関心は低く、張の証言を補完するような新たな証言や証拠も得られなかった[5]。張は、2001年(平成13年)春に持病の糖尿病が悪化して亡くなっており、この講演も病状が進み、車椅子からの乗降にも介添えが必要という状態のなかで行われたものである[3][5]。


2002年(平成14年)4月18日、警察庁の漆間巌警備局長が参議院の外交防衛委員会で「(認定以外の)拉致の可能性のある事案というのはいろいろつかんでおるわけでございます」と答弁して政府認定以外の拉致事件があることを認め、警察庁が田中実や小住健蔵も含まれるであろう事案を数十件把握している情報が「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)にもたらされた[21][22]。
2002年9月5日、東京都港区の友愛会館で行われた「救う会」の記者会見の際、中学時代の田中実の写真が公開された[2][5]。これは、「救う会兵庫」(代表:長瀬猛)の岡田和典の努力によるものであった[2][5]。また、9月17日には高校時代の写真も公開され、大きな反響を呼んだ[5]。この日は折しも、小泉純一郎内閣総理大臣が平壌に赴いて日朝首脳会談(第1回)が開かれ、日朝平壌宣言が発表された日であった[5]。「田中実は生きている」との期待が広がったが、平壌から帰国した小泉首相が「5名生存10名死亡」という北朝鮮側の発表を家族に告げたことから、「このままでは田中が見捨てられる」との危機感が共有された[5]。
高校時代の3年間、田中実の担任だった元教員も救済活動に加わった[5][6]。彼は、田中の拉致疑惑が浮上すると親代わりとして名乗り出て、子息によれば、2008年に亡くなるまで「田中実一辺倒の余生だった」という[6]。「救う会」は彼をあらゆる場所に招き、彼もまた常に教え子の救出を訴えていた[5]。田中実について彼は、「私しかいない」「私を越えてやれる人はいない」と語っていた[6]。担任教師は、2003年に韓龍大の住む八戸に直接出向いて韓の罪を追及したが、不真面目な態度で事実をごまかそうとする韓に掴みかからんばかりであったという[5]。
北朝鮮での目撃証言
上述の金東植が友人より聞いた「タナカ」が本名なのか仮名なのかは不明であり、したがって、この人物が田中実である保証はないが、1987年から1988年にかけて、「タナカ」は平壌郊外の順安区域にある招待所で、日本人化の対象となっている工作員たちに、日本語や日本の習慣などを教えていたという[12]。金東植によれば、招待所では工作員も講師もサングラスをかけてマスクを付け、昼は晴天でも傘をさして歩くことになっているので、顔全体を認識することは難しく、「タナカ」と直接会って話をしたこともないが、順安招待所については多少土地勘があり、招待所を通過する際に2、3度、後姿や横の姿を見たことがあったという[12]。それによれば、彼は身長170センチメートルほどで、髪の毛を伸ばしており、体格は普通で、年齢は30代か40代にみえた[12]。彼が日本人であること、順安で「タナカ」の名を使っていることは、順安の工作部署にいた人びとには周知の事実であった[12]。彼の妻も日本人だという話を聞いているが、結婚に至る経緯や子どもの有無については聞いたことがないという[12][注釈 4]。
1993年に脱北した元北朝鮮工作員で、1997年2月3日に日本人ジャーナリストの高世仁に対してソウル特別市で「88年9月から91年初めにかけて金星政治軍事大学で、行方不明になっている横田めぐみを見た」と証言したのが安明進である[23]。安明進が北朝鮮で目撃した拉致被害者は、横田めぐみのほか、市川修一、増元るみ子、蓮池薫、寺越武志、加藤久美子、古川了子、藤田進ら多数にわたっており、田中実もその一人である[22][24]。
安明進によれば、1988年10月9日、朝鮮労働党創建記念日の前日記念行事が金星政治軍事大学大講堂で開かれ、そのとき、田中実らしき人物、また、横田めぐみ、市川修一、藤田実、増元るみ子か加藤久美子(どちらかは記憶が曖昧)、北海道出身の男性、写真でも確認のとれない女性の計7名(男性4名、女性3名)が教員席にいて、他の教官たちが全員軍服着用だったのに、日本人教官は私服だったのでとても目立っていたという[25]。また、1989年2月15日、金正日誕生日の前日記念行事で安は、田中実、市川修一、北海道出身の男性を含む男性5名と増元るみ子を含む女性2名を大学内で目撃している[26]。さらに安明進は、1989年か1990年、大学に付設された695病院(工作員専用病院)で腕に点滴の針を付けて歩いていた田中実とすれ違っている[27]。年齢は40代後半にみえたが、毛髪や眉毛が真っ白でとても弱々しくみえたという[22][27]。夫人と思われる女性も一緒で、年齢は30代後半くらいにみえ、髪にパーマネントをかけており、身長は158センチメートルくらいにみえた[27]。それ以前にも彼女が田中の妻だという話は聞いていて、2人が小型バスに乗っているのを見かけたことがあると証言している[27]。
刑事告発、政府認定
田中実は、2002年9月段階から「救う会」認定の拉致被害者であった[21]。日本政府は2002年10月の日朝国交正常化交渉で、まだ政府認定がなされていなかった田中実、小住健蔵、松本京子の3人について、北朝鮮側に調査を求めた[21]。平沢勝栄衆議院議員も、複数の拉致被害者の照会リストの筆頭に田中実の名を掲げ、北朝鮮側に照会していることを認めている[5]。しかし、一向に政府認定される気配がみえなかったところから、「救う会」では計画・実行にたずさわった2人の「洛東江」構成員の告発を考えた[5]。
田中の育った施設関係者の証言、張龍雲が横田滋・早紀江夫婦に宛てた手紙、恩師の証言などを集めたが、事件性を裏付ける決め手に欠いていた[5]。しかし、「救う会兵庫」の岡田和典が「来大」店主だった韓龍大について綿密な調査を行い、一時期金田龍光を雇っていた別の雇用主の関係者からの証言によって、金田失踪の原因や経緯をつかみ、差出人「田中実」の国際郵便の筆跡に金田が疑いを持っていたこと、金田が渡欧準備のために上京する際に「来大」で送別会が開かれたこと、金田が音信不通となった約半年後に証言者の近親者が「来大」の韓を詰問したが、韓龍大は「知らない、分からない」という返事に終始していたことなどを明らかにした[5]。こうした一切の内容を、国外移送目的略取等(刑法226条)を罪名・罰条とする告発状に添付して、2002年10月4日、兵庫県警察に提出した[5]。受理されたのは10月15日で、その日は拉致被害者5人が日本への帰還を果たした日だった[5][注釈 5]。
曹廷楽は田中実の拉致を主導した作戦責任者とみられていたが、告発するにはなお高い壁を有していた[5]。張龍雲は膨大な資料を残して亡くなったが、資料のなかに1997年1月に山形県下で起こった張と曹の民事紛争にかかわる告訴状の写しがあった[5]。そこには「洛東江」という組織名が挙げられており、曹が非合法組織の幹部であり、その活動の一貫として資金を集めているという内容が記されていた[5]。これは、曹からすれば1996年以降、張による月刊誌や単行本による表現、また、それとは利害の対立する法廷においても、その一方的な表現によって、著しく名誉を傷つけられている訳で、当然ながら対抗処置として虚偽告訴や名誉毀損による告訴を行ってしかるべきところであるにもかかわらず、何もしていない状態であった[5]。しかも、当該民事紛争は結果においては曹が勝訴していたにも関らずである[5]。こうした矛盾について、「なぜ何も反論しないのか?」と曹本人に聞くのが手っ取り早いわけであるが、山形県から1件の家を探し当てるのは決して簡単なことではない[5]。しかし、ここでも張が残した日記が役に立ち、曹が経営する遊戯場を確認、さらに山形市の住所を突き止めた[5]。2003年6月、荒木和博と岡田和典の2人は雑誌社の直接取材に応じて現地に行き、3日間張り込みも行って、温泉に出かける曹をつかまえて直撃取材が実現した[5]。曹は当初激しく抵抗していたが、すぐに冷静になって質問に答えた[5]。
- 田中が拉致されていること自体は否定しない。
- 曹は2002年に韓国へ渡り、当局へ身の上を告白した。韓竜大は2年前にそれを終えている。
- 名誉を守るべき手立てを講じない理由は無かった。
- 肝心な部分は、否認するのではなく、韓竜大に訊けとはぐらかす。
- 文書による回答を求めた質問状にまともに答えようとしない。
取材の結果は以上の通りであったが、この一連の事実を添えて2003年7月22日、国外移送目的略取等(刑法226条)の罪名罰条で兵庫県警察に告発状を提出した[5]。約10日後、告発が受理された[5][注釈 6]。
2005年(平成17年)4月25日、警察庁が、田中実の拉致容疑事案について「拉致と判断」したことが報道された[29]。同年4月27日、田中実は日本政府によって16人目の拉致被害者と認定された[1][29]。しかし、政府・警察は韓龍大と曹廷楽への法的措置は行っておらず[1]、2014年春には韓龍大が死去している[30]。
ストックホルム合意とその後の生存情報

2014年(平成26年)5月26日から28日まで、スウェーデンのストックホルムで日朝政府間協議(第3回)が開催され、北朝鮮政府は、ここで「拉致問題は既に解決済み」としてきた従来の立場をやや改めて、新たに「特別調査委員会」を設置し、拉致被害者を含むすべての日本人行方不明者の全面的な再調査を行うことを約束し、日本政府は、その代わりに独自の制裁措置(国連安全保障理事会決議に関連して取っている措置を除く)の一部を解除することで合意した(ストックホルム合意)[31][32][33]。
しかし、2016年(平成28年)1月6日、北朝鮮は2013年以来4度目となる核実験を行い、同年2月7日、「人工衛星」と称する弾道ミサイル(「光明星」)の発射を行った[31][34]。これに対し、日本政府が再び北朝鮮に独自の対北朝鮮制裁を強化することを決定すると、同年2月12日、北朝鮮は包括的調査の全面中止と特別調査委員会の解体を一方的に宣言した[31][34]。
以後、何度かおこなわれた政府間交渉では、拉致被害者の安否情報は皆無とされてきたが、2018年3月16日、田中実が北朝鮮に「入国していた」という情報が2014年以降の日朝両国の接触で北朝鮮側から伝えられていたことが判明した[35][36]。2019年2月、田中、金田ともに結婚して妻子とともに平壌市内で生活していることが伝えられていたことが報じられたのである[37][38]。いずれも日本政府関係者が明らかにしたことで、2014年から2015年にかけて、非公式にではあるが複数回、北朝鮮側から伝えられたものであるという[37]。それによれば、本人たちは平壌で家族とともに幸せに暮らしており、「帰国の意思はない」ということである[34][37]。北朝鮮側は、2人とも自ら渡航してきたものとして、拉致については否認した[34]。日本政府側は田中らと面会していない[37]。

安倍首相は、この報道の真偽について、2020年(令和2年)1月31日、第190回国会(常会)における立憲民主党の有田芳生衆議院議員から受けた質問に対し、「今後の捜査・調査に支障を及ぼすおそれや関係者のプライバシーを侵害するおそれを考慮する必要があることから、お答えを差し控えたい」と答弁した[39]。当時の政府見解は、このように、2人の生存情報について肯定も否定もせずコメントもしないというものであったが、2021年(令和3年)8月、古屋圭司拉致担当大臣が田中・金田の生存情報と日本政府がそれを受け取らなかったことを認め[40]、さらに2022年9月、当時の齋木昭隆外務事務次官も同じ事実を認めた[41]。この件につき、2022年9月17日、複数の交渉関係者からの情報として、日本政府が2014年から2015年頃にかけて、北朝鮮から2人の「一時帰国」の提案を受けていたものの、当時の安倍晋三内閣総理大臣がこの提案に応じれば拉致問題の幕引きを狙う北朝鮮のペースにはまりかねないと主張し、拒否していたことが報じられた[42]。
のちの取材によれば、北朝鮮側は田中・金田について上記のような報告書を出し、それには田中・金田以外の被害者に関する新しい情報はなかったという[34]。担当した伊原純一アジア大洋州局長はその場で受け取らず、口頭で聞いた内容をノートにメモし、日本政府として報告書を受け取るかどうかの返答を保留して首相に報告、その判断を仰いだ[34]。安倍首相は政権幹部らと協議したが、そのなかで菅義偉内閣官房長官は、「これでは国民に説明できない」として報告書を受け取るべきではないと強く主張し、安倍首相もこれを支持して北朝鮮側に調査の継続を求めることにしたのだという[34]。
田中らの生存情報を政府が受け取らなかったことについては、2人は政府に「見捨てられた」「黙殺された」と受け止められている[6][43]。立憲民主党の西村智奈美議員も2022年10月5日の衆議院本会議で、「交渉の過程を全て明らかにせよというつもりはないが、帰国の可能性がこのまま封じられて良いとは到底思えない」と政府の姿勢を批判した[43]。拉致された2人が日本に身寄りのない人たちだから見捨てたのではないかという指摘もあるが、実際には同級生はじめ今も待ち続けている人たちがいる[6][注釈 7]。家族がいなくて「家族会」に入れないというのならば、代わりに自分たちが声を上げようと2人の救出を訴える集会もひらかれている[44]。
2023年(令和5年)12月13日、兵庫県議会は、「調査会」幹事(「救う会」兵庫・副代表)の島尾百合子が提出した「政府認定の拉致被害者・田中実さんと特定失踪者・金田龍光さん、及びその家族の即時帰国を最重要課題として北朝鮮側へ求め、あわせてすべての拉致被害者等の帰国を求めること」という請願を全会一致で採択した[45]。「命に変わりはない」と政府の責任を問う声が広がっている[46]。
ただ、ほとんどが水面下の交渉となる日朝間において、「水面下の交渉が水上に上がってしまったら、もはや水面下じゃないんですよ。それがもし万が一水面上に出てきてしまったら、あの国は彼らはみんな粛清されますよ」(古屋圭司)、「非公式の接触で北朝鮮が田中さん、金田さんが生きていると言ったということは事実のようです。そのときの条件がこれで拉致問題を終わりにすることだった。だから飲めなかったんだと安倍総理は私に直接説明しました。1人でも生きている人が残されて、そしてこれで終わりにするということは認められない」(西岡力)…これらの言葉からは、交渉当時の政府としても苦渋の選択だったことが推し量れる[6]。

「家族会」と「救う会」は全拉致被害者の即時一括帰国を掲げているが、特定失踪者問題調査会(通称「調査会」)代表の荒木和博は1人でも2人でも取り返せるところは取り返して、それを足掛かりに次に進むべきであるという立場に立っている[6]。荒木らは2024年(令和6年)4月24日、日本弁護士連合会(日弁連)に人権救済を申し立て、田中実・金田龍光に関する情報を開示し、2人の速やかな帰国をはかるよう、日本政府に要望するよう求めた[47]。申立人は荒木和博、島尾百合子、岡田和典、「調査会」副代表増元照明(増元るみ子の弟)と特定失踪者家族会事務局長の竹下珠路(古川了子の姉)の5名であった[48]。荒木は、2025年(令和7年)2月19日に衆議院第一議員会館で開催された研究会で、「少なくともストックホルム合意から何も動かないまま11年が経ってしまった今日、北朝鮮が返せると伝えてきた2人については北朝鮮側に帰国させるよう求めるべき」ではないかと発言している[48]。
脚注
注釈
- ^ 金東植は、実際に工作員として活動している日本人もいることを指摘している[11]。金は、1992年、韓国でスパイ活動を行って香港経由で北朝鮮に逃げた夫婦スパイは、中国系マレーシア人を装って韓国国籍を取得し、マレーシア料理を出す食堂を営んでいたが、そのうちの妻は実は日本人で、韓国では「チョン・オクチョン」という中国風の偽名を使っていたと語った[11]。金東植はまた、李善実の例などを引いて、北朝鮮は日本人だけでなく、在日韓国・朝鮮人も多数拉致していることも証言している[10][11]。
- ^ 蓮池自身も、拉致された当初は工作員育成のためのマインドコントロールを受け[14]、育成放棄後も思想統制を受けて、そののち12人の北朝鮮工作員への日本語教育の任務を負わされ[15]、大韓航空機爆破事件後の1989年以降は、対外情報調査部7課の100号資料研究室で各地から寄せられる対外情報の翻訳が仕事となっていた[16]。
- ^ 1年足らずではあるが北朝鮮に留学した経験をもつ関西大学の李英和は、1991年、平壌で朝鮮社会科学院の准博士から「拉致講義」を受けている[18]。このなかで、准博士が「日本語教師をさせるために、日本人を誘拐する必要があるか」と質問したのに対し、李英和が「日本語教師なら、在日朝鮮人でもできる」と答えると、准博士は「模範解答」だが「半分正解、半分間違いだ」と応じている[18]。准博士は、日本人の拉致は、北朝鮮工作員の日本潜入訓練完遂の「絶対確実な証拠品」となることから手当たりしだいにおこなわれたと説明した[19][20]。
- ^ 金東植はこれ以外に、「タナカ」は日本人なので生活費も日本円で支給されているという話、「タナカ」がいた招待所からそれほど遠くないところにある招待所で、別の日本人が日本語を教えていたという話も聞いている[12]。
- ^ しかし、その後、韓竜大の告発について、警察は「出国記録ならびにパスポート申請記録を探しているが、当時はすべて紙媒体であり、保管されていない可能性が高い」と述べ、あたかも物証が無いような言いぶりであったという[28]。これには、ならば何故1996年12月の兵庫県議会では「1978年6月6日」出国という答弁をしたのかという批判がある[28]。
- ^ ここにおいては、なぜか2人が韓国に出頭して供述したことになっているが、それが事実ならば日韓間に超法規的な捜査協力ないし違法な司法取引が行われた疑いがもたれる[28]。
- ^ 田中の同級生たちを互いに結び付けたのは、2008年に死去した田中の担任教師の遺志を継いだ子息であった[6]。
出典
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参考文献
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- 張龍雲『朝鮮総連工作員 「黒い蛇」の遺言状』小学館〈小学館文庫〉、1999年11月。 ISBN 4-09-403711-X。
- 蓮池薫『日本人拉致』岩波書店〈岩波新書〉、2025年5月。 ISBN 978-4-00-432064-7。
- 李英和『暴走国家・北朝鮮の狙い』PHP研究所、2009年10月。 ISBN 978-4569699622。
- 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会 著、米澤仁次・近江裕嗣 編『家族』光文社、2003年7月。 ISBN 4-334-90110-7。
関連項目
外部リンク
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