主な出来事・事件など
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「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」の記事における「主な出来事・事件など」の解説
(出典:) 1978年 甲斐よしひろと新野新が放送中に喧嘩 (4月9日第1回放送時。この番組と番組本『つるべ・新野のぬかるみの世界』(31ページ)などにおいては『歌謡曲アダ花論争事件』と呼ばれている)鶴瓶が懇意にしていた関係から甲斐を第1回放送のゲストに呼んだが、新野と甲斐が口論となり、怒声やモノが倒れる音などが生放送の電波を通して流れた。新野は、美空ひばりの話題が出た時に、甲斐は「そんなもん」というような言い方をしたように聞こえ、甲斐がひばりのことを侮辱したように捉えたということで反論、喧嘩になったということを話している。 第1回ティーチ・イン(11月) - OMCスタジオで開催。 1979年 放送打ち切りの危機を乗り越える(2月) ボツハガキ供養 (6月) - OMCスタジオで、神主を呼んで行う 信貴山へ第一回ぬかるみツアー。約50人ほど参加 (8月29日~8月30日) 千房で「ぬかるみ焼き」始まる(8月) 吉野家はさびしいおんなみせ(11月)「吉野家で一人で牛丼を食べている女の人って、哀しく見えると思いませんか」と言う投書が紹介されたことから論議が始まる。 大阪厚生年金会館大ホールで「おしゃべりコンサート」(12月) ある女性が新野とともにエレベーターに乗っていたときしゃがみ込んで放尿したというが最後まで名前は出されなかった。 1980年 美空ひばり登場。タクシーに乗る時に『リンゴ追分』を歌ってタダで乗らせてもらったエピソードの真相など語る (2月10日) 有名人だれが作ったおにぎりを食べられるか・食べられないか(4月)鶴瓶と新野がある所でおにぎりを食べたところ、えづいたことから、このような話題が番組中で盛り上がって行った。 この時に二人が挙げた有名人食べてもいい人 - 大竹しのぶ、笑福亭松鶴、郷ひろみ、月の家圓鏡、立川談志、都はるみ 食べたくない人 - 八代亜紀、さだまさし、野口五郎、西城秀樹、キダ・タロー、三遊亭圓楽、村田英雄、三波春夫、青江三奈 高峰三枝子については、鶴瓶が「食べたくない」新野が「食べてもいい」で意見が分かれた。 「おじん」「おばん」談義が盛り上がる(4月。おじん、おばんの意味は#主なぬかるみ語の節を参照)この時に鶴瓶と新野が典型的な例として挙げた有名人おじん - 高倉健、北大路欣也、高峰秀子、王貞治、笑福亭仁鶴、三浦友和、鈴木善幸、五木寛之、山口百恵、若尾文子、山田洋次 おばん - 高田浩吉、三船敏郎、岩下志麻、長嶋茂雄、笑福亭松鶴、武田鉄矢、田中角栄、野坂昭如、中尾ミエ、池内淳子、竹村健一、大島渚 通天閣・新世界ツアー(5月10日)「新世界に一度来てください」という女子高生からのはがきに誘われ、行われた企画。しかし5000人という予想外の人数が集まり、とてもツアーどころではなくなったため、鶴瓶と新野は機動隊と共に大阪市立美術館前広場へ移動し、急遽集まったリスナーを前にしてのトークショーに変更された。 ビビアン・リー事件(5月)ビビアン・リーが『ザ・ルーシー・ショー』に出ていたのか否かで揉める。最後はリスナーからの「出演していなかった」という電話で決着を見たが、その電話をわざわざスタジオまで伝えに来て放送に入ったラジオ大阪の“ガードマンのおっちゃん”が番組のスターになる。 花一輪運動(7月頃にピークに)番組スポンサーの千房の本店の場所がややわかりにくいとして、近くの交番に場所を訊きに行く人が増えているという話を聞き、「交番に花一輪でも持って行って、お巡りさんとのふれ合いのきっかけでもつかんでみたら」と放送したのがきっかけで始まる。 ネコスケ事件(7月)「ぬかるみぬり絵」のプレゼント当選者の中に本名で「ネコスケ」という名前があったことで、二人が笑い転げ、しばらく二人の笑い声しか放送で聴こえてこなかった。 第2回ティーチ・イン(8月)- 「防衛問題」で盛り上がった。 小豆島ツアー (ツアー中、鶴瓶が急性虫垂炎で倒れた。8月29日) 多田かおる号泣事件(9月) 佐賀不憫発言 (11月30日)日本全国でどこが不憫かという話題で、二人が出した答えが佐賀県だったことで、大きな波紋を呼んだ。 ぬかるみ映画大会(11月)- 大阪サンケイホールにて『二十四の瞳』を観賞。 第3回ティーチ・イン(11月)- 前述の「佐賀不憫発言」などが話題になる。 1981年 当番組初の番組本発売、サイン会パニックが起こる(2月)1回目は2月15日、梅田の旭屋書店で開催。2000人が集まり「かつてソフィア・ローレンのサイン会での売上冊数を上回るこの店の最高記録」だったとのこと。 2回目は3月17日、天神橋筋商店街内の西日本書店で開催。列が200~300mにも延び、国道1号線沿いにも列が出来たほどで、一時は商店街の中が通行不能になるほどまでになり、400人ほどでサイン会を打ち切った。二人は書店の二階に避難して窓からハンドマイクで呼びかけ、2時間ほどでパニックは収束したと言う。後日3月22日に産経新聞紙上にて、鶴瓶、新野、当書店の三者連名でお詫び広告が掲載された。なお、このサイン会をよみうりテレビが取材に来ており、『11PM』での放送もされた。 ぬかるみカレンダー1万部完売(3月) 第18回ギャラクシー賞受賞(5月) 週刊現代、週刊明星、週刊平凡各誌で当番組の特集記事掲載(6月) ぬかるみ写真展(8月)うえほんまちハイハイタウンにて開催。鶴瓶、新野の二人の表情など、カメラマンの平塚正男が撮影した作品を約100点、3階の多目的広場に展示。入場無料であったが、8月25日だけで7326人来場。サイン会は急遽4階に移動して開催。延べ2万人動員、再びパニックとなった。 ヤマハリゾート合歓の郷ツアー (8月) 東京タワーでティーチイン (11月)100人余りの“関東ぬかる民”集まる。 1982年 トイレの水は手で掬うか、足で掬うか揉め、話題に(1月) 火野正平ゲスト入り(1月) 新野の「ブスの十か条」(3月)「私はブスですか」と写真入りの手紙が殺到、これに際して新野がブスである条件を10個挙げ、その内容に鶴瓶が笑い転げた。 2冊目の番組本発売(4月) ラジオ大阪のラジオカー「ぬかるみ号」近畿地方一円を走る(12月) 新野、LAWSONを「レイソン」と読み間違う(12月) 全国縦断電話訪問で、「メリークリスマス・フロム・埼玉」と書かれたはがき約30枚届く(12月) 1983年 新野が風邪で早退し、鶴瓶の一人喋りに(1月) 「おたくらなんですのん!」という名言を残したラジオ大阪の川添郁子ディレクター死去(1月23日)- 新野が葬儀委員長を務めた。 「みっかんパニック」始まる(2月) トイレ無断拝借ウンコそのまま事件(3月)17歳の女子高生リスナーからの投書によって話題になる。 山口遊子さんミス・ユニバース日本代表はぬかる民だった! (3月20日) 第9回ティーチ・イン(4月3日) 三田村邦彦、金田賢一ゲスト入り(5月15日)鶴瓶とは、当時NHKで放送されていたテレビ時代劇『壬生の恋歌』の共演者という関係。 近畿地方以外からの“ぬかる民”からの電話を呼びかけたところ、北海道から電話をくれたぬかる民が一躍スターになる(7月10日) 第5回ぬかるみツアー(鳥羽)。約200名参加(8月19日~8月20日) 桂文珍が番組に突然現れる(11月23日)アメリカのミュージカルなどの話題で盛り上がった。 1984年 鶴瓶、酔っ払ったままスタジオ入り(1月) 第10回ティーチ・イン(3月18日) ロサンゼルスオリンピックの女子マラソン中継のため、当番組初の休止(8月5日) 第11回ティーチ・イン(8月12日) 第6回ぬかるみツアー(広島県沖美町・がんねムーンビーチ)。約100名参加(8月24日~8月25日) 全国縦断電話訪問により、和歌山県の同級生同士が東京で劇的再会(12月) 1985年 当番組の放送作家・吉田清の「ふとん重い事件」(2月) 第12回ティーチ・イン、ぬかるみ試験実施(約200名受験)。「ほな言おか!大会」となる(3月31日) 一枚のタオルを家族みんなで使うか、などと言った「タオル談義」が番組中に盛り上がる(6月16日) 関東ぬかる民大集会(7月26日)- 97名参加。 第7回ぬかるみツアー(和歌山県白浜町)。約200名参加(8月8日~8月9日) 熊本のぼした祭りが「祭りの名前が変だ」などと話題に。新野が祭りのラッパの真似をする(9月) 「新野新、本名です。山本山、本物です。」という新野作のコピーが大ウケ(11月) ぬかるみの世界 '85オールナイトスペシャル(12月29日)大阪サンケイホールから生放送。桂春蝶、桂朝丸(現・桂ざこば)がゲスト。第1部は「ぬかるみ的井戸端ばなし」など題されたトークショー、第2部はコンサートで行われ、第2部では新野作詞による『雨の西麻布』の替え歌『雨の西梅田』、『ぬかるみの唄』のそれぞれの歌が発表された。この後、リスナーから会場にて投書された「ウダ紙」の紹介、鶴瓶のピアノの弾き語り(実は音に合わせて指を動かしていただけ)、新野の三味線演奏(本当に演奏を行う)が披露された。一方で、新野の5万円で作ったという“ペンペラペン”のタキシードも話題になる。 1986年 西川きよしゲスト入り。デビューした当時の苦労話などを語る(3月23日) 学校の校歌を新野が作詞、キダ・タローが作曲したことで学校校歌、小学校唱歌が話題に上る。その中で『漁船(りょうせん)』という唱歌の中に出て来る『れふ船(りょうせん)』という言葉を巡ってリスナーを巻き込みながらの論議が始まる(4月27日) 「ぬかクラティッシュ」製作(7月1日)テレクラのぬかるみ版「ぬかクラ」としてティッシュを製作、ラジオ大阪前の他大国神社、堺東、神戸などで配布を行い、もらったリスナーから番組で電話を受け付けた。 第8回ぬかるみツアー(和歌山県那智勝浦町)(8月26日~8月27日)『ざぶた号』と名付けられたお座敷列車を利用、約200名参加。 200名の参加者をぬかるみ語を使って名付けられた10のグループ(おじん教、おばん教、ビメコ教、ブメコ教、にちゃ手教、どびつこ教、おさせ教、雪女教、れんこん教、鬼畜教)に分け、それぞれの教の旗と教訓を作らせながら、親睦、ゲーム、レクリエーションに興じるという旅。宿泊先はホテル中の島。 ぬかるみウルトラマラソン(8月)当番組が縁で結婚した「ぬかるみ結婚」第1号の夫妻が名古屋~大阪間を走った。 鶴瓶の師匠、笑福亭松鶴が亡くなったため、鶴瓶は番組を休み、新野一人だけで放送(9月) 1987年 「ぬかるみ新聞」創刊(1月) 当時から話題に上っていた「売上税問題」のため、参議院議員となった西川きよしが再びゲスト入りするも、うだ話のまま終わる(3月) 『あの方』騒動(5月)ラジオ大阪局内の2階の階段踊り場の「今月の推薦曲」コーナーに掲示されてあったある演歌歌手のレコードジャケットの写真が話題になり、『あの方』騒動が始まる。 大阪府八尾市の大聖勝軍寺から生放送(6月5日)当日は「ぬかるみと森の妖精」と銘打ち、二人がどこに居るのかを告知せず放送、リスナーに二人の居場所を放送を聴きながら推測してたどり着いてもらうという企画だった。なお先着20名には、当時話題になっていた「あの方」(上記)のレコードがもらえるという特典付きだった。そしてリスナーが徐々にやって来て、放送拠点となっていた寺の32畳の大部屋に約170人が集まり、二人は居場所が無くなり立って放送せざるを得なくなった。入場を打ち切った後も集まるリスナーは絶えず、警察も出動する騒ぎになった。 南紀ぬかるみツアー(8月25日~8月26日)当初は韓国へ、番組初の外国ツアーが企画されたが情勢不安(6月民主抗争、六・二九民主化宣言など)のために中止になった。 天王寺博覧会会場内でぬかるみ同窓会行われる(10月31日)- 鶴瓶は学園祭出演のため不参加。 渋谷ジァン・ジァンで行われたライブ『笑福亭鶴瓶の笑わすつもりはない』でゲストに呼ばれた新野、東京進出。この際に地震に遭う(12月16日) 1988年 “八方のおかん”が当番組中でスターに(4月) 10周年記念ツアー行われる。新野が「行かない」とごねる(8月19日~8月20日) “高校球児の寺前君”(当時、天理高校2年生。卒業後は九州産業大学へ)が当番組中でスターに(10月) 鶴瓶担当の『MBSヤングタウン』(MBSラジオ)がこの年12月24日で終了、この最終回の放送内で鶴瓶が当番組のことについても触れ「ぬかるみは(1989年)3月で辞めます」と発言。しかし1989年4月改編での当番組の終了は無かった。 1989年 昭和天皇崩御により、モーダホールで行われる予定だったイベント中止(1月) 魔の館(新野の自宅)の改築が話題となる(5月) 鳥羽へ最後のぬかるみツアー(8月) 最終回放送(10月1日)'85オールナイトスペシャルで発表された歌『雨の西梅田』で放送開始。既に局舎前には多くのリスナーが集まっており、決められた時間ごとに入れ替わりで放送を見学してもらうことになった。 リスナー作の『ぬかるみドラマ』最終回放送。娘・鶴子(鶴瓶)が家を出ていくことになり、それを父・岩夫(岩本ディレクター)、母・新子(新野)が見送るという話。 最後の曲は美空ひばりの『川の流れのように』。深夜2時36分終了。
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