サキャ派時代とは? わかりやすく解説

チベットの歴史

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チベットの歴史(チベットのれきし)では、7世紀吐蕃王朝によるチベット高原の統合に成立したチベットの、現代にいたるまでの歴史通史を概説する。


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サキャ派時代

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チベットの歴史」の記事における「サキャ派時代」の解説

モンゴル帝国チベット進出してきた際には、氏族教団一つサキャ派モンゴル帝国後ろ盾得て、他の氏族教団諸侯の上君臨した1240年モンゴル帝国第2代ハーンオゴデイの息子コデンチベット攻略しカダム派(英語版)の寺院焼き僧侶殺した一方6代目座主サキャ・パンディタ名声遠くモンゴルにまで聞こえており、コデンサキャ・パンディタ面会要求1244年サキャ・パンディタ2人の甥、パクパとチャクナ(1239 - 1267)を連れコデン青海湖付近面会した。この時にコデンサキャ・パンディタ見込んだ理由不明であるが、1249年コデンサキャ・パンディタに、ラササキャのあるウー・ツァン地域対す政治権限与えサキャ派とモンゴルとの同盟形成された。これは、中央チベットにおけるコン氏政治力強かったことも物語っている。1260年クビライモンゴル帝国の第5代ハーン即位すると、クビライのもとにいたパクパ1260年帝師任命され元における仏教に関する全権任された。1264年にはパクパのために最高統制院が作られた。また、パクパアムドカムウー・ツァン対す政治的宗教的権威委ねた1270年パクパクビライ請われモンゴル語記述するためのパスパ文字作ったまた、パクパの弟チャクナはコデン家系王女を娶っている。 以後モンゴルチベットの関係を、単純に西欧的な意味での「宗主国属国」という関係で見ることはできないフビライ手紙の中でパクパに「私はあなたの保護者であり、ブッダ教え広めることはあなたの務めである」と語っている。これはあくまでも個人個人の関係である。皇帝政治的な保護権力行使し帝師チベットだけでなく中国を含む全モンゴル宗教的な影響与えている。これ以後1911年辛亥革命まで、中国チベットの関係は概ねこのようであったチベットから見ればチベット守護者観音菩薩中国皇帝文殊菩薩同格である。しかし中国から見れば中国皇帝同格ということは定義上ありえず、両者の関係チベットからみるか中国から見るかで大きく異なる。 この時期チベットには、モンゴル帝国王子率い駐屯軍配置され帝国を覆う駅伝網が展開され、またチベット諸侯教団の代表となっていたサキャ派管長は、チベットの地をはなれ、「帝師」・「国師」(「ハーン仏教の師」の意)や「宣政院」(モンゴル帝国仏教徒チベットの地を管轄する機関)の長官職に任命されて、ハーン随行して帝国首都大都(現北京)に駐在していた。 クビライ1288年宣政院設立しサキャ派長の帝師がここで指導しチベット支配したパクパ1280年死んでからも75年ほど、サキャ派サキャ寺院を僧院都市としてモンゴル帝国衰退するまで中央チベット支配したまた、チベット全域に対して大きな権限持ったモンゴルチベット13地域分けそれぞれの領主万戸長(ティポン)に任命して支配していたが、1285年に、ラサ北東100kmほどの位置にあるディグンの万戸長がイルハン朝結んで反乱起こした最初勝ち進んだが、1290年にはサキャ派軍隊破れ本山ディクン・ティルを焼き討ちされている。 10代目座主のデチェン・サンポ・ペルの子供クンガ・ロデが8代目帝師となり、1347年クン氏をシトク家、ラカン家、ドゥムチョー家、リンチェンカン家の4ラプダンにわけ、受け継いだ遺産分割した。後にこの4ラプダンが対立し代わりにカギュ派支派パクモドゥ派力を付けていった。サキャ小さな町内乱寸前となり、モンゴル1320年代末に宣政院廃しモンゴルサキャ派の絆はなくなった

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