サキャ派政権とモンゴル帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:46 UTC 版)
「チベット仏教」の記事における「サキャ派政権とモンゴル帝国」の解説
1240年、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、当時ツァン地方を中心に一大勢力を持っていたサキャ派はモンゴルの懐柔を得ることに成功し、チベットの自治支配権を得た。さらに、クビライが即位すると、座主サキャ・パンディタの甥パクパは元朝の帝師として篤く遇されたが、その弟子のリンチェン・キャプ(中国語版)がその威光を背景に滅亡した南宋の墓を暴いたため、漢族から反感を買った。この時代に、チベット仏教はモンゴル諸部族に広く浸透した。 1368年の元朝崩壊後はサキャ派に替わってカギュ派系のパクモドゥ派が中央チベットに政権を確立した。パクモドゥ派政権の衰退後は、同じくカギュ派系のカルマ派と、新興のゲルク派が覇権を争った。サキャ派やパクモドゥ派は、宗教貴族と化した一族が座主や高僧を半世襲的に輩出する氏族教団であったが、対してカルマ・カギュ派は化身ラマ(転生ラマ)制度を導入した。ゲルク派ものちに化身ラマ制度を取り入れ、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの二大活仏を中心として勢力を伸ばした。この時代の有力宗派は、モンゴル諸部族や明朝と代わる代わる同盟関係を結んだ。特にモンゴルの諸ハーンは、元朝の後継者としてチベット仏教の保護者となることで権威付けを図った。 また、8世紀から続けられてきたチベット大蔵経の編纂が14世紀初頭に一応の完成をみた。
※この「サキャ派政権とモンゴル帝国」の解説は、「チベット仏教」の解説の一部です。
「サキャ派政権とモンゴル帝国」を含む「チベット仏教」の記事については、「チベット仏教」の概要を参照ください。
- サキャ派政権とモンゴル帝国のページへのリンク