サキャパ政権とは? わかりやすく解説

サキャパ政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:28 UTC 版)

パクモドゥパ政権」の記事における「サキャパ政権」の解説

13世紀始めチベットモンゴル帝国襲ったモンゴル帝国初期から内部争い絶えなかったので、各宗派それぞれ自分モンゴル保護者探した。パクモドゥ派はフレグとの接触試みたフレグ1265年死んだ結局チベット中央クビライ保護者選んだサキャ派支配するようになった。 パクモドゥ派とデンサ・ティル寺院時の経過と共に発展していた。13世紀始め宗派の長が空位になると、出自不明ラン氏が僧正職を継ぐようになった。これ以後、デンサ・ティル寺院僧正職はラン出身僧侶が、パクモドゥ派の支配地域ラン氏の長支配するようになったクビライサキャ派大きな権限与えたが、一方でチベット十三万戸設けて万戸長に地方自治を行わせた。1322年、パクモドゥ派の長も万戸長を任された。パクモドゥ派の初代万戸長はラン・チャンチュプ・ギェルツェン(中国語版ロシア語版英語版)(1302-64)である。パクモドゥ派はオン渓谷下ったブラマプトラ川南岸にあるネドンをも支配したチャンチュプ・ギェルツェン隣接するヤムサン万戸争い始めた。サキャパ政権はチャンチュプ・ギェルツェン2度投獄するが、チャンチュプ・ギェルツェン権威揺るがなかった。1347年サキャ派分裂して力を弱めると、チャンチュプ・ギェルツェンツェル、ディグンなどラサ東部次々攻略した1354年にはサキャの長がチャンチュプ・ギェルツェン事実上降伏し、さらに1358年サキャの長が大臣暗殺されチャンチュプ・ギェルツェンチベットの長となった

※この「サキャパ政権」の解説は、「パクモドゥパ政権」の解説の一部です。
「サキャパ政権」を含む「パクモドゥパ政権」の記事については、「パクモドゥパ政権」の概要を参照ください。

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